3 父の影
昨夜の寒さは、文字通り骨の髄まで凍りつくようだった。
ずぶ濡れのまま厩舎に放置された私は、オルタンス夫人の「明日の朝までに服を洗っておくように」という残酷な命令に従うしかなかった。感覚のなくなった手で、氷のように冷たい井戸水を汲み、泥と汚水に塗れた己の服を洗った。
身に纏うものをすべて剥ぎ取られた私は、吹き込む夜風の冷たさに、このまま凍死するのではないかと本気で思った。
生き延びるための必死の思いで、私は厩舎の隅に積まれていた粗末な麻袋の底に穴を開け、すっぽりと頭から被った。それだけでは寒さを凌げず、馬の寝床用の干し草や藁を麻袋と肌の間に大量に詰め込んだ。チクチクと肌を刺す不快感や獣の匂いなど、気にしている余裕はなかった。
そうして藁の塊のように丸まり、ガタガタと震えながら夜を明かした。
時間が経つのはあっという間だった。
眠れたのか、それとも寒さで気絶していただけなのかはわからない。ただ、藁の保温効果のおかげで、奇跡的に風邪を引くことだけは免れたようだった。
翌朝、気がついた時には、いつも起きるべき時間をとうに過ぎて、太陽は高く昇っていた。
「……あ」
ひどく怠い身体を引きずり、私は麻袋を被った惨めな姿のまま、厩舎の二階の干し草置き場から一階へと降りた。
そこで、私は信じられない光景に息を呑んだ。
洗った服と一緒に、厩舎の隅の目立たない場所に隠すようにして乾かしておいたはずの『母の手紙』が、忽然と姿を消していたのだ。
「うそ……」
掠れた声が漏れる。
まさか、風で飛ばされたのだろうか。いや、昨夜は風など吹いていなかったし、重石代わりに小石を置いていたはずだ。
家畜たちが食べてしまったのだろうか。私は慌てて馬や羊たちの繋留場所を確認した。しかし、どの動物もきちんと綱で繋がれており、手紙を干していた場所までは絶対に届かない距離だった。
「どこ……どこなの……御母様の手紙……」
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
血の気が引き、指先がひどく冷たくなる。視界がグラグラと揺れ、呼吸が浅く、早くなっていった。
「はっ……はっ……はぁっ……!」
過呼吸気味になりながら、私は這いつくばって厩舎の藁をかき分けた。土を掘り返し、隅から隅まで血眼になって探した。
あれは、私にとって命よりも大切なものだった。私がこの地獄のような世界で『人間』としての心を保っていられる、唯一の理由だった。あれがなければ、私は本当にただのゴミさせられてしまう。
その時だった。
『あははははっ! 本当に傑作ね!』
厩舎の外から、聞き覚えのある甲高い笑い声が聞こえてきた。
ビクリと肩が跳ねる。アンジェリックとジェヴォットの声だ。
嫌な予感が、背筋を凍らせた。心臓の鼓動が耳の奥で痛いほど響く中、私はもつれる足で厩舎の扉を押し開け、外へと飛び出した。
「あぁ……」
視界に飛び込んできた光景に、私は言葉を失った。
厩舎のすぐ外、石畳の広場の真ん中で、赤い炎がパチパチと音を立てて燃え上がっていた。
燃やされているのは、私が昨夜、凍えながら洗って干しておいた、たった一着しかない私の服だった。
「あら、起きてきたのね。薄汚いネズミちゃん」
炎の向こう側で、アンジェリックが扇子で口元を隠しながら私を見下ろしていた。
今日のお茶会のために仕立てられたのだろう、彼女は春の薔薇のように華やかなピンク色のドレスを身に纏い、髪には高価な宝石のピンをいくつも輝かせていた。ジェヴォットも同様に、目も眩むような美しいエメラルドグリーンのドレスを着飾っている。
最高級の香水の甘い匂いと、私の服が焦げる嫌な臭いが混ざり合い、鼻を突いた。
「な……なんで……」
「なんで? ふふっ、決まっているじゃない」
ジェヴォットが、軽蔑しきった目で私を鼻で笑った。
「これから私たち、侯爵家主催の素晴らしいお茶会に向かうのよ。それなのに、馬車に乗る前にあんな薄汚いボロ布が視界に入るなんて、不愉快極まりないでしょう? 煩わしいから、使用人に命じて燃やしていただいたのよ。感謝なさいな」
麻袋を被り、隙間からはみ出した藁をぶら下げた私の姿を見て、二人は腹を抱えて笑い出した。
「あははは! 見てお姉様、あの姿! まるで動く案山子ね!」
「本当に! 昨日のヒキガエルよりは似合っているんじゃない? これからはずっとその麻袋で過ごせばいいわ。あなたに相応しい、最高のドレスね!」
彼女たちの投げつける言葉は、私を泥靴で踏みにじり、さらにその上で楽しげに踊っているようだった。
「やめて……やめてください……!」
私は炎に向かって駆け寄ろうとした。しかし、熱気に阻まれて近づけない。
服はどうでもよかった。また麻袋でも何でも着ればいい。でも、もし、あの手紙が一緒に燃やされていたとしたら。
「お、お願いです……服はどうなってもいい……でも、手紙は……御母様の手紙は……っ!」
半狂乱になって懇願する私を見て、アンジェリックは意地悪く唇の端を吊り上げた。
「ああ、あの汚い紙切れのこと?」
その言葉に、私の頭の中が真っ白になった。
「あんなものまで大事そうに干してあったから、ついでに燃やしてあげたわよ。どうせ文字も読めないくせに、持っていたって意味がないでしょう?」
「あ……ぁ……」
「それに、昨夜はさぞ寒かったでしょう? 私たちの優しさに感謝しなさい。……ほら、火が消える前に、せいぜいしっかり温まりなさいな」
クスクスと残酷な笑い声を残し、二人の姉は迎えにきた絢爛豪華な馬車へと乗り込んでいった。
車輪が石畳を鳴らし、遠ざかっていく音だけが響く。
「あ、ああぁ……あっ……!!」
私は炎の前に崩れ落ちた。
熱さなど構わず、燃え盛る炎の中に手を入れる。
「熱っ……! ああっ、御母様……御母様の手紙……っ!」
指先が火傷で焼け焦げるのも厭わず、私は燃えカスを掻き集めようとした。しかし、私が触れた途端、紙の形を保っていた黒い炭は、無惨にも灰となって風に舞い散ってしまった。
母の優しい言葉が、私に残してくれた、たった一つの証が、宙に溶けて消えていく。
「いやぁぁぁぁぁぁッ!!」
私は地面に伏せ、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
母の温もりが、私から完全に失われた瞬間だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい御母様……っ! 私が、私が弱かったから……っ!」
土を握りしめ、顔を地面に擦り付けながら、私は獣のように泣き叫んだ。
涙は枯れることなく溢れ続け、灰と泥に塗れた私の顔をぐしゃぐしゃにした。
どれだけ泣いても、絶望という名の真っ黒な底なし沼から抜け出すことはできなかった。
────
それからの数時間、私は自分がどうやって動いていたのか、記憶が曖昧だ。
完全に放心状態のまま、身体だけが機械のように日課の掃除や水汲みをこなしていた。麻袋と藁という異様な姿の私を見て、他の使用人たちは気味悪そうに避けて通ったが、誰一人として声をかけてくる者はいなかった。
午後。
酷使され続ける身体が、ついに限界の悲鳴を上げた。
猛烈な空腹だった。昨日の朝から、カビの生えたパンの欠片すら口にしていない。胃袋が痙攣し、胃酸が喉を焼く感覚に、私はついに理性を失いかけていた。
ふらつく足取りで、私は屋敷の裏口にある厨房へと忍び込んだ。
料理長たちの姿がない隙を狙い、野菜の保管籠に積まれていた、泥のついた生のじゃがいもを震える手で数個掴み取った。
泥棒だ。
自分がどれほど卑しい行為をしているか、頭の片隅では理解していた。しかし、生存本能が倫理観を容易く凌駕した。
厨房の影に隠れ、私は泥のついた皮を爪で乱暴に剥き、そのまま生でじゃがいもに齧り付いた。
「……っ」
エグ味と、青臭い土の匂いが口いっぱいに広がる。決して美味しいものではなかったが、私は涙を流しながら、それを無我夢中で胃の奥へと流し込んだ。
自分が本当に獣に、浅ましい家畜に成り下がってしまったような惨めさが胸を締め付けたが、それでも食べる手は止められなかった。
じゃがいもを急いで飲み込み、厨房から逃げるように立ち去ろうとした時だった。
ダダダダダダッ!!
けたたましい馬の蹄の音が、屋敷の正面玄関の方から響いてきた。それも、一頭や二頭ではない。
ただならぬ気配に、私は思わず屋敷の外壁に沿って身を隠した。
早馬で駆け込んできたのは、王家の紋章をマントに掲げた数人の屈強な騎士たちと、豪奢な馬車から降り立った高位貴族だった。
金属の鎧が擦れる重々しい音が、異常な事態であることを物語っていた。屋敷の中からは、執事や守衛の騎士たちが慌ただしく飛び出してくる。
そして、正面玄関の大きな扉が開き、黒いドレスを着た継母・オルタンス夫人が姿を現した。
私は息を殺し、壁の物陰からその光景を盗み見た。
「オルタンス夫人。突然の訪問、お許し願いたい」
高位の貴族が、重々しい口調で口を開いた。
「……いかがなさいましたか、閣下」
「心して聞いていただきたい。……西の国境付近で起きた敵国との激しい戦闘において、あなたの夫であり、我が国の勇敢なる将軍――」
その後の言葉を、私は耳を疑うような思いで聞いた。
「――将軍は、名誉の戦死を遂げられた」
空気が、凍りついた。
オルタンス夫人は小さく息を呑み、口元を扇子で覆ってうつむいた。彼女が本当に悲しんでいるのか、それとも悲しむフリをしているだけなのか、遠目からはわからなかった。
「ご遺体は……損傷が激しく、持ち帰ることは叶わなかった。彼の遺品である剣と勲章を、ここにお持ちした。心より、哀悼の意を表する」
一行は、重苦しい空気のまま屋敷の中へと案内されていった。
正面玄関の扉が、ゆっくりと閉ざされる。
私は、壁に寄りかかっていた身体の支えを失い、ズルズルと石畳の上に座り込んだ。
頭の中が、酷く鈍い痛みを伴って鳴り響いている。
戦死……。
父が、死んだ。
私にとって、父は血の繋がった最後の肉親だった。
実の娘である私を、継母や義姉たちの虐待から守りもせず、屋敷に放置したまま戦地へと赴いた父。私をこんな地獄のような状況に追いやった父に対して、恨みがなかったと言えば嘘になる。
幼い頃から、父と話した記憶はない。
父の居場所は常に戦場。
けれど。
それでも心の奥底で、私はずっと、ずっと待っていたのだ。
いつか父が戦地から帰還し、泥だらけの私を見て、かつて一度だけ見せてくれたような優しい笑顔で「すまなかった」と抱きしめてくれる日を。
私をこの地獄から救い出してくれるのではないかという淡い希望を、無意識のうちに抱き続けていたのだ。
『あなたは祝福されて生まれてきた、何よりも尊い存在です』
今朝、灰になって消えた母の言葉が、ふいに頭の中でこだました。
「うそだ……」
父が死んだ。もう、私を助けに来てくれる人は、この世界のどこにもいなくなってしまった。
希望は、完全に、永遠に断たれたのだ。
両手で顔を覆う。
麻袋を被り、胃の中には盗んだ生のじゃがいもが入っている。そんな浅ましく惨めな私の姿を、父は知ることもなく死んでいった。
恨みと、悲しみと、行き場のない喪失感が混ざり合い、私の心を粉々に砕いていく。
「御父様……御母様……っ」
誰もいない屋敷の裏手で、壁に身を寄りかからせながら。
私はただ、ただ、孤独に涙を流し続けることしかできなかった。
もう私には、手放してはいけない『心の温もり』すら、残されてはいなかった。




