2 冤罪の弄
「ち、違います……! 私は、決してそんなこと……!」
「口答えする気! この恩知らず!」
私が否定した瞬間、アンジェリックの表情が夜叉のように歪んだ。彼女は苛立ちを露わにし、理性が切れたように私の髪を無造作に掴み上げた。
「痛っ……!」
「否定するなら、確かめなさいよ。あんたが毒を入れていないというなら、その水を飲んで証明してみなさい!!」
「えっ……!?」
私の視線の先には、馬たちが飲むための、大きな木製の給水桶があった。だが姉達が指差すのは、何日も水が替えられておらず、底には泥や藁の屑が沈殿し、淀んだ水がたっぷりと張られている、雨水桶の方だった。
「さあ、飲みなさいよ! ほら!!」
「嫌っ、お姉様、やめて……!」
抵抗する間もなかった。アンジェリックの強い力と、加勢に入ったジェヴォットによって、私は無理やり桶の縁へと引き摺られた。
「お姉様、私がおさえておきますわ! ほら、飲みなさい!」
「やめて……っ!!」
バシャァッ!!
無慈悲な力によって、私の顔が冷たく淀んだ水の中へと力一杯押し込まれた。
「――ッ!!?」
突然の冷たさと息苦しさに、パニックに陥る。
鼻腔と口に、泥水が容赦なく流れ込んでくる。泥と獣の臭いが混ざった不快な水が、気道を塞いだ。
(息が……っ!)
苦しくて、もがき苦しむ。しかし、後頭部を押さえつける姉たちの力は異常なほど強く、私の細い腕では到底振り解くことはできなかった。
水中で目を開けると、濁った視界の向こうで、水面が激しく波打っているのが見えた。耳に届くのは、くぐもった水音と……姉たちの甲高い笑い声だった。
『あははははは!! 見てお姉様、ヒキガエルみたいにバタバタしてるわ!』
『本当ね! ほら、軽口を叩く暇があったらもっとしっかり飲みなさいよ! 毒が入っていないんでしょう!?』
(死んでしまう……!)
肺が火のように熱く焼け付き、酸素を求めて痙攣する。本能的に空気を吸おうとして、さらに泥水を飲み込んでしまう。
意識が遠のきかけたその時、不意に力が緩み、水面から顔が引き上げられた。
「ぶはっ……! ゲホッ、ゴホッ……!! ああぁっ……!」
四つん這いになり、胃の底から泥水を吐き出す。気管に入った水が激しい咳を誘発し、涙と鼻水が顔をぐしゃぐしゃに濡らした。息をするたびに、喉から胸にかけて激痛が走る。
「あら、もう終わり? まだまだ証明が足りないんじゃないの?」
悪魔のような声が耳元で囁く。
「ひっ……!」
休む間もなく、再び首の後ろを鷲掴みにされた。
「やめっ……お願い、許し……っ!」
「許すも許さないもないわよ、嘘つきには罰が必要だもの!!」
バシャァッ!!!
再び、暗く冷たい水の中へ沈められる。
「んぐぅっ……! ごぼっ……!!」
もがく手足が桶の縁を叩くが、彼女たちにとってはそれすらも極上の娯楽でしかないようだった。
引き上げられては沈められ、引き上げられては沈められる。
その拷問のような行為が、何度繰り返されただろうか。
私の意識はすでに混濁し、もがく力さえ失われつつあった。冷たい水の中で、母の『温もりを決して手放さないで』という手紙の言葉が、泡のように溶けて消えていく感覚に陥っていた。
(神様……もう、いっそ……このまま……)
「――そこで何をしているのです!」
静寂を引き裂くような、鋭く、威圧的な声が厩舎に響き渡った。
その声に驚いたのか、姉たちの手がふっと私の頭から離れる。
支えを失った私は、桶の縁からずり落ち、冷たい泥の地面へと力なく倒れ込んだ。
「ゲホッ……! ゴホッ、ゴホォッ……!! はぁっ、はぁっ……」
全身がガタガタと震え、ひきつけを起こしたように激しく咳き込む。吐き出した水は赤く染まっていた。喉がひどく傷ついたのだろう。
薄れる意識の中で見上げた先には、たまたま通りかかった使用人の知らせを受けて駆けつけたらしい、主人である継母・オルタンス夫人の姿があった。
彼女は豪華な漆黒のドレスを揺らし、冷ややかな視線で私たちを見下ろしていた。
「お、お母様……これは、その……」
「この卑しい娘が、馬の水に毒を入れたと疑わしくて……」
言い訳を重ねる姉たちを、オルタンス夫人はピシャリと一喝した。
「アンジェリック、ジェヴォット。やめなさい」
その言葉に、姉たちはビクッと肩を震わせ、私は微かな希望にすがりそうになった。しかし、夫人の口から紡がれたのは、私を気遣う言葉ではなかった。
「せっかくの最高級のシルクのドレスが、泥水で汚れて台無しじゃないの」
夫人の視線は、地面で息も絶え絶えに這いつくばる私には一切向けられていなかった。彼女が見ていたのは、姉たちのドレスの裾についた数滴の薄汚れた水飛沫だけだった。
「あんな汚らわしい生き物に触れて、あなたたちまで病気になっては大変でしょう。風邪を引くから、早く部屋に戻って着替えなさい」
「……はい、お母様」
「ごめんなさい、お母様」
姉たちは地面の私を汚物でも見るように一瞥し、フンッと鼻を鳴らすと、オルタンス夫人の背後をついて軽やかな足取りで厩舎から出て行こうとした。
残酷なほどにあっさりとした、死の淵からの解放。
私は地面に頬を擦り付けたまま、ただ小刻みに震えることしかできなかった。
最後に、オルタンス夫人が立ち止まり、冷酷な氷のような瞳で私を見下ろした。
「……シンデレナ」
「っ……は、い……」
喉が焼け爛れたように痛み、掠れた声しか出ない。
「そんな酷く汚れた服のままで、私の美しい屋敷に上がることは絶対に許しません。不快極まりない」
吐き捨てるように言われた言葉は、私の残された僅かな心を根元から切り刻んだ。
「今日はここで寝なさい。……ああ、それから」
夫人は、這いつくばる私を無表情で見据え、言い放った。
「明日の朝までに、そのひどく汚れた服も『ちゃんと』洗っておくことね。わかったわね?」
それだけ言い残し、夫人は一切の未練もなく踵を返した。
バタンッ、と。
重い扉が閉ざされ、厩舎は再び完全な静寂と、夕闇の冷たさに包まれた。
「あ……あぁ……」
全身はずぶ濡れで、氷のように冷え切っている。夜になれば、この厩舎は凍えるような寒さになるだろう。
泥と水にまみれた服を洗えという命令。それはつまり、濡れ鼠のまま凍える夜を明かし、さらに冷たい水で己の服を洗えという、遠回しな死の宣告に等しかった。
泥だらけの地面に這いつくばりながら、私は震える手で自身の胸元を押さえた。
粗末な服の中に隠していた母の手紙も、先ほどの水で完全に濡れそぼり、インクが滲んでしまっていることだろう。唯一の心の支えだった『温もり』すらも、彼女たちによって無惨に、形もなく踏みにじられてしまった。
(御母様……。心にある温もりは……もう、どこにもありません……)
真っ暗な視界の中、私はついに限界を迎えて意識を手放した。
氷のように冷たい孤独の底で、神への祈りさえも忘れて。
私の絶望は夜更けと共に沈んでいくのだった。




