1 潰える祈り
私は自分の名前を知らない。
物心ついた頃から、周囲の人間は私のことをただ一つの蔑称でしか呼ばなかった。
泥に塗れた薄汚れた娘。家中の埃を一身に被り、掃き溜めで這いつくばって生きるだけの、取るに足らない存在。それが私に与えられた、唯一の輪郭だった。
豪奢なシャンデリアが煌めき、夜会が開かれるこの広大な屋敷の中で、私はまるで存在しない影のように扱われていた。実家を支えるためという大義名分の下、私は夜明け前から深夜まで、奴隷のように酷使され続けている。
継母であるオルタンス夫人。そして、彼女の連れ子である義姉たち――長女のアンジェリックと、次女のジェヴォット。彼女たちが身に纏う最高級のシルクのドレスも、宝石箱から溢れんばかりの宝飾品も、すべては私が血を吐くような思いで働き、この家の体面を保っているからこそ維持されているものだ。それなのに、彼女たちの華やかな生活の裏側で、私に与えられるのは家畜以下の扱いと、硬いパンの切れ端だけだった。
薄暗い厩舎の中、私は重い藁の束を引きずりながら、日課の掃除に追われていた。
窓から差し込む夕光が、空気中を舞う無数の埃を黄金色に照らし出している。しかし、その美しい光景さえも、今の私には酷く無機質で、冷酷なものに思えた。
「……っ」
ふいに、視界がぐらりと揺れた。
頭の奥で鈍い鐘の音が鳴り響き、足の裏から力が抜け落ちていく。度重なる過労と睡眠不足、そして慢性的な栄養失調が、私の細い身体を限界まで蝕んでいた。
耐えきれず、私は冷たい土の上に崩れ落ちた。荒い呼吸を繰り返し、泥に汚れた手で顔を覆う。指先はあかぎれでひび割れ、土と血が混じり合った黒い汚れが染み付いている。これが、うら若き乙女の手だとは誰も思わないだろう。
心が折れそうになる度に、私はいつも母の言葉を思い出す。
私が生まれる時、出産を乗り越えられず命を落とすと医師から宣告されていたという、顔も声も知らなぬ母、マリアンヌ。母が死の淵で、まだ見ぬ私のために書き残してくれた一通の手紙。
肌身離さず、ボロボロになった粗末な服の胸元に隠し持っているその手紙の文面を、私は諳んじることができるほど何度も何度も、縋るように読み返してきた。私がよき読み返す一文だ。
『愛しい私の娘へ。これから先、あなたの人生には冷たい嵐が吹く日もあるかもしれません。理不尽に心を痛める日も、きっと訪れるでしょう』
母の予言は、あまりにも残酷な形で的中していた。私の人生は、冷たい嵐どころか、終わりの見えない極寒の冬そのものだった。
『けれど覚えていて。どんなに世界があなたを否定しても、あなたは祝福されて生まれてきた、何よりも尊い存在です。神様はきっと、いつでもあなたの味方をしてくれるでしょう。私はいつもあなたの側で見守っています』
祝福されて生まれてきた。何よりも尊い存在。
その言葉を思い返すたび、私の胸の奥は温かさと、それ以上の激しい痛みに苛まれる。
「……御母様」
乾ききっていたはずの瞳から、ボロボロと涙が溢れ落ちた。土に汚れた頬を伝い、土に黒い染みを作っていく。
「天国なんて……どこにもないのですね……」
震える唇から、抑えきれない嘆きがこぼれ落ちた。
「神様もいません。……誰も、私を助けてはくれません。御母様の声も、一度も聞こえません。私は……私はただ……」
膝を抱え込み、小さく丸まる。まるで、世界から身を隠すように。
「ただ……御母様に、もう一度会いたいです……」
嗚咽が厩舎の静寂に吸い込まれていく。
こんなにも苦しいのなら、いっそ母と一緒に死んでしまいたかった。こんな地獄のような場所で、名前さえ奪われて生き延びる意味がどこにあるというのだろう。
しかし、絶望の淵に沈む私の脳裏に、もう一つの記憶が蘇る。違う手紙に、かすれそうな文字で綴られていた、母の切実な願い。
『世界がどれほど冷たく見えても、あなたの心にある温もりを決して手放さないで。その心こそが、あなたを本当の光へと導いてくれるのです』
心にある温もり。それを手放してしまえば、私は本当にただの『泥と埃の塊』になってしまう。それだけは、母の愛を裏切ることになるような気がして、私は必死に自分を保とうとしていた。
その時だった。
ギィィ、と重い音を立てて、厩舎の入り口の扉が少し開かれた。
差し込んだ眩しい光の中に、二つのシルエットが浮かび上がる。私の平穏な絶望を打ち砕く、最悪の訪問者たちだった。
「あら、やだ。こんな所にいたのね、薄汚いネズミちゃん」
甲高い、耳をつんざくような嘲笑。長女のアンジェリックだった。彼女は真紅の豪奢なドレスの裾を摘み上げ、汚いものでも見るかのように鼻先をハンカチで覆っている。
「お姉様、ネズミに失礼よ。この生き物はネズミ以下の『シンデレナ』ですもの。うふふ、家畜の掃除がお似合いだわ。泥と糞の匂いが染み付いて、どれが家畜でどれがシンデレナだか見分けがつかないわね」
次女のジェヴォットが、扇子で口元を隠しながらくすくすと笑い声を上げた。彼女もまた、目も眩むような鮮やかなブルーのドレスを身に纏い、私の惨めな姿を上から見下ろしている。
私は慌てて立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、再び膝をついてしまった。
その無様な姿が、彼女たちの嗜虐心をさらに煽ったらしい。
「本当に惨めな姿。生きている価値すらないゴミ屑のくせに、いっちょ前に息をしているのが腹立たしいわね」
アンジェリックが飛び石の道を歩き、コツコツとヒールを鳴らして近づいてくる。
「……申し訳、ありません。すぐに、掃除を……」
私は這いつくばるようにして頭を下げた。逆らえば、さらなる罰が待っているだけだ。私には何の権利も、尊厳も残されていないのだから。
しかし、姉たちは私を許してはくれなかった。
「そういえばジェヴォット、最近、家畜たちの元気がないと思わない?」
アンジェリックが、わざとらしく芝居がかった声で言った。
「ええ、お姉様。私もそう思っていたところですわ。……もしかして」
二人の視線が、刃のように私に突き刺さる。
「この薄汚いシンデレナが、家畜たちの飲み水に『毒』でも入れたんじゃないかしら?」
アンジェリックの言葉に、私は息を呑んだ。
「なっ……! そ、そんなこと……!」
「うふふ、あはははは! あり得るわね! だってこの子、根性がひねくれ曲がっているもの! 私たちに嫉妬して、腹いせに馬たちを殺そうとしたのよ!」
ジェヴォットが手を叩いて歓喜の声を上げる。彼女たちの目には、明らかな狂気と愉悦が浮かんでいた。私を痛めつけるための、理不尽な理由を見つけた喜びに満ちている。




