第7話「フェンシングの正義」
剣術稽古の朝は、いつもより少しだけ空気が乾いていた。舌戦で勝敗を決する茶会や裁定に比べれば、その緊張はずっとわかりやすい。
(靴底の擦れる音、刃先の弾かれる音、息の乱れる音……やはり、悪くありません)
王立貴族学園の訓練棟は、礼法教室や講堂とは飛び交う音が違う。言葉ばかりが先行するこの学園で、ここだけは身体が生み出す真実が支配していた。
どれほど優雅に取り繕っていても、音には体の癖が滲む。私はそれを鼓膜で分解し、流派や技量を聞き分け、自分に刻まれた技術と照らし合わせて勝ち筋を組み立てる。
だから、この場所は嫌いじゃない。論戦であれば正しさを言葉でねじ曲げることができるけれど、剣の交わる瞬間にあるのは、嘘偽りない強さだけだから。
その潔さは、ときどき学園のどんな美辞麗句よりも信じられた。
(もっとも、強いだけでは好かれませんけれど。ままなりませんわね)
私が訓練棟へ入った途端、いくつもの視線が集まった。昨日の提出騒ぎは、どうやらここまで届いていたらしい。心地よい戦の音に混ざって、いつもの噂話がさざめいている。剣の稽古場にまで言葉の濁りがついてくるのは、なんとも興ざめだった。
「昨日の今日で剣術稽古…今日のお相手は八つ当たりされるのかしら」
「泣かされるだけで済めばいいのですが、怪我をさせては…」
「ですが、あの腕前だけは本物ですものね。力が入るのも致し方なし、でしょうか」
お望みでしたら、三人まとめてかかってきますか?
そう思いながらも口には出さず、稽古用のフルーレを受け取る。刃の重さは均一で、柄の革もよく巻かれている。
手袋越しに刃先から柄まで撫でると、余計な感情が薄れていった。道具に悪意はなく、善意もなく、ただそこにあるだけ。その在り方に、私は静かな敬意を覚える。
訓練着の胸元にはヴァルドシュタインの紋章布が縫い付けられている。何度も汗を吸って生地は色あせていたが、そのぶん意匠の気高さだけが際立って見えた。
「ヴァルドシュタイン様、ご機嫌麗しゅう。お相手願えますかな?」
「ええ、もちろん」
今日の相手は自ら手合わせを願ってきた。
二年のガレス・フォーデン伯子息。体格がよく、腕力任せの攻めを好むと評判の男だ。礼を欠くほど粗野ではないが、勝ち方は雑だと聞いている。
午前の稽古では、下級生の手首を強く打ったらしい。壁際には、その子だと思しき下級生が手首を押さえたまま立っていた。私と目が合うと、慌てて視線を伏せる。
助けてほしいとは言わない。けれど、その表情には「もう一度戦わされなくてよかった」とはっきり出ていた。
本来なら、次はもっと力量の近い者が当たるべきなのでしょう。けれど誰も名乗り出ない。強くて可愛げのない、勝っても負けても角が立つ女である私が、いろんな意味でちょうどいいのだろう。
こういう役目が回ってくるのも、もう初めてではない。だからこそ、迷う理由もなかった。
(…なるほど。わたくしがここに立つ意味は、十分ですわね)
「口上、始め」
教官に促され、私たちは切っ先を上げて向かい合う。
「我らが剣は傷つけるためにあらず」
「奪うためにあらず」
「「刃を交え、真実を決するのみ」」
教官がもう一度「始め」と告げた瞬間、ガレスは大きく踏み込んできた。
(速く、リーチも長い…ですが、直線的です)
肩口を狙い、外されたら力で押し切る。そう考えているのが剣筋だけでわかる。体格差のある女を圧倒するには、それがいちばん手軽だと信じているのが伝わってきた。
半歩だけ身を引き、刃を受け流す。細く高い金属音が鳴った次の瞬間、私は彼の剣先を外へ流し、そのまま喉元すれすれへ突きを入れた。もちろん、怪我をさせないぎりぎりで止める。
「一本。ルミアリエル」
教官の判定に、周囲の息が止まった。面の奥でガレスの表情がこわばるのがわかる。
本来なら「女性相手に優雅ではなかった」とでも言い訳しながら、紳士的に勝つつもりだったのが明け透けだけど…私相手には不可能。
あのフェンシングに自信のあったオレオンですら、私には届かなかったのだから。
二本目、ガレスは慎重な動きに切り替えた。けれど一本目の動揺は、もう剣先に出ている。
私はその乱れだけを待った。踏み込みが半拍深くなった瞬間、フルーレを内側へ滑り込ませる。柄がぶれ、胸元が空く。
そこへ、ためらいなく切っ先で触れた。余分な力は、もちろん抜いておく。
「二本、ルミアリエル」
淡々とした判定のあとに、ごく小さなうめきが漏れる。
私は勝つ。慢心ではなく、ヴァルドシュタインとして当然の結果だ。
三本目、ガレスは明らかに力んでいた。一本目の愚策へ戻り、体格差で押し潰すつもりなのだろう。
だから私は真正面から受けない。女である私が腕力勝負で勝てるはずはない、それでも悔しくない。これはフェンシングの試合であって、腕力比べではないのだから。
左へ流れるように足を運び、彼の剣をかわす。次の瞬間、銀の軌跡だけを残すように半歩背後へ回り込み、振り向きざまに生まれた隙へ切っ先を置く。乱れた呼吸のそばで、私の剣先だけが静かに止まった。
(…少し高揚しすぎましたか)
わずかに力の入った指先に痛みが走る。それでも肩口に置かれた切っ先には、口上どおり傷つける力を込めなかった。
「三本。勝者、ルミアリエル。有効打のみ、過剰な追撃なし。間合いも正確、今後も精進を願う」
事務的な講評が下される。けれど拍手はなかった。
剣術としては申し分なく、誰も怪我もしていない。それでも訓練棟の空気は、荒野みたいに乾いている。
壁際の下級生たちだけが、わかりやすく安堵の息を漏らした。次に自分がガレスの相手になるかもしれなかったのだろう。
もちろん、誰も礼は口にしない。それでも十分だった。言葉がなくても、守れたものは確かにある。あの小さな安堵だけで、この試合には意味があった。
「あんなの、見せしめでは…」
「伯子息をあそこまで打ち負かすこともないでしょうに」
「勝ち方にも、もう少し品があるでしょう」
(手を抜けば、下級生たちが怪我をするかもしれない。それを礼儀と呼ぶのなら、そこがあなたたちの限界ですわ)
拍手の代わりに、私を咎める声だけが立ち上がる。相手を負かしたほうが責められ、怪我をさせたわけでもないのに容赦がないとされる。
痛みの残る手をそっと握ると、そこに残るフルーレの感触だけが私の結果を讃えているようだった。
強さが誰かを守るために使われても、好意に変換されるとは限らない。それでも、ここで手を引く理由にはならない。
「随分と鮮やかだ。以前の手合わせを思い出す」
低い声に振り向くと、見学席にオレオンが立っていた。隣には側近が二人いる。片方は、あからさまに私を嘲笑していた。
「強すぎる女は周囲を白けさせますな。令嬢ともあろうものが、そこに思い至らないとは」
「ふふ、そう言うな」
オレオンは温度のない笑みを浮かべた。
「強さ自体は有用だ。だが、誰の手にも余る形であることが問題なのだろう。御せない力は暴力になりかねんからな」
それは試合への講評ではなく、道具を値踏みする声だった。
きっとあの人にとって、私もフルーレも大差ない。いいえ、力と意志を持つぶん、私のほうが厄介なのだろう。そうとでも言いたげな視線に、私は一礼だけ返した。
お望みどおり、これ以上は見せ物にならないでおく。婚約者のいる訓練棟は、落ち着ける場所を一つ奪われたように感じて。
ここにあったはずの静けさまで、あの人の視線に持ち去られた。
*
「…っ、無様なものね…」
訓練が終わって手袋を外した瞬間、指先に鈍い痛みが走った。つい、声を漏らす。
…今のをレイナが聞いていたら、即座に応急処置をして医師のところへ運び込むのでしょう。
大した怪我ではない。そう思うほど、じくじくとした痛みは妙に心へ触れてきた。肉体の痛みは、ときどき心の奥にある苛立ちまで掘り起こすから嫌いだ。
「少し、お手を拝借いたします」
「…ラフィエラ。なんの用ですか、それと許可は出しておりません」
「ですから、これはお願いではなく報告です」
気づいたときには、ラフィエラの指が私の手を包んでいた。手袋越しではない体温がじかに伝わってくる。その温度は、レイナの入れるお茶みたいにちょうどよかった。
彼女は痛む指の付け根を親指でそっと押さえ、そのまま何度か滑らせるように撫でる。
「…なんのつもりで?」
「完勝への“祝福”です」
「それは光栄ですわ。受け取って差し上げたので、そろそろ離れて」
「そして、罰です」
ラフィエラの声はいつも陽だまりみたいなのに、今は眉尻を下げていて、無防備な笑顔が消えていた。
そのまま彼女は、いつの間にか取り出した細い白布を私の手に巻きつける。結び方は少々頼りなく、実用ならレイナのほうが上。
けれど私から抵抗する力を奪うという意味では、どんな相手より厄介だった。フェンシングであれば絶対に勝てるのに、こういう場ではまるで歯が立たないのが腹立たしい。
「……離しなさい」
「…痛みますか、ルミア様」
「これくらい、どうってことありません」
「そうでしょうね。下級生たちを守れたのなら、あなたはそうおっしゃる。ですが」
巻き終えたラフィエラは、両手で私の手を包んだまま潤んだ瞳を向けてきた。聖女候補より、よほど敬虔な顔だった。
振り払えない。痛みのせいではなく、多分それ以外のせいで。
「あなたが痛いとき、同じように心が痛む人間がいることを忘れないでください」
「…そんな人間」
「います。ここに」
「……あなた、本っ当に……余計なことしか、言えませんの……」
嘘で塗りつぶされた世界では、真実ほど目立つ。
だから今の言葉が嘘ではないことくらい、すぐにわかってしまう。私にとっては、困るくらいに。
ようやく手を引き戻しても、巻かれた布はほどけず、皮膚には彼女の熱だけが残っていた。今だけは、アイスティーが欲しいくらいに。
「……」
そのとき、壁際にいた下級生が道具を返しに行く途中でこちらを見た。
なにか言いたげに迷ったあと、彼女は小さく頭を下げて去っていく。
礼にしては弱々しい。でも、受け取らないのは不作法だ。
私は何も返さなかったが、それで十分だと思えた。
「…ふふ。もうすぐ学園祭の準備、後輩に慕われるルミア様のお姿が目に浮かびます」
「…今度余計なことを言ったら、フェンシングの相手にあなたを指名しますわよ」
「まあ、胸を貸していただけるんですか? 少しでも長くご一緒できるよう、わたしも強くならないと」
…そろそろ、この子がちょっと怖くなってきましたわ…。
フェンシングなら私は絶対に負けない。そう思うのに、目を輝かせるラフィエラを見ていると別の意味で寒気がした。
(それにしても、学園祭…)
華やかに見えて、普段以上に利害がぶつかる催し。今日のように勝ち負けが明確な試合より、ずっと厄介だ。
そんな場所で私は、傷つく人を少しでも減らせるのだろうか。
(…わたくしはまだ未熟。だからこそ、傷を負ってでも弱き者の盾にならねば)
私はきっとこれからも、好かれず、誤解されたまま、後ろにいる者たちの盾であり続ける。
その結果が“悪役”であったとしても、先ほどの下級生の小さな礼には、それだけの意味があると信じていた。少なくとも今日の剣は、誰かを泣かせるためではなく、守るために振るえたのだから。




