第6話「提出物のすり替え」
魔法適性試験の翌日。自室の机の上で、私は提出用の封筒を二度見直した。
(試技報告書三枚、所見一枚、受付札の控え……すべて揃ってますね。折れも汚れもなし、これならお父様とお母様の顔に泥は塗らないでしょう)
封をしたあと、ヴァルドシュタインの紋章がわずかな傾きもなく上を向くように、いつもの所作で押し位置まで揃える。
…それと、これはついで。ラフィエラの言葉を思い出し、余白に小さく時刻を書き添えた。あの女の言うことを聞いたわけではない。ただ、記録要項として使い勝手がいいと感じたからだ。
「お疲れさまです、お嬢様。その書類捌き、旦那様を見ているようです…寸分の狂いもなく、正しさと美しさを兼ね備えています」
「こういうものは雑に扱った瞬間から、誰のものでもなくなる…お父様の教えです。私はルミアリエル、ヴァルドシュタインの一員であらねばなりませんから」
三限終了後、講義棟西の事務卓。立ち会いは事務補佐が一名、礼法委員が一名。
提出後、レイナが差し入れてくれたちょうどいい温度のお茶を口に含みながら、私は静かに息を吐いた。
(そう、わたくしは…規定の中で、すべてを完璧にこなす。それこそが正しさなのですから)
このときの私は、信じていた。正しく生きることが正義を示し、皆もそれを見て己を律するのだと。
それは悪役令嬢のレッテルを貼られている私には、あまりにも甘い考え方だったのかもしれない──。
*
封筒を入れた鞄を携え、提出の場に向かう。
そこはいつも通り小さな混雑と紙の匂いに満ちていて、自然と呼吸が浅くなり、背筋が伸びた。この緊張は、決して不愉快ではない。
長机の上には家名順に提出箱が並び、その横に受付簿と小印。生徒たちは封筒を差し出し、補佐役が受付印を押して、受理欄へ己の名前を書く。
(手順自体は簡素…だからこそ、崩されると気付きにくい。観察は怠りません)
私も封筒を差し出しつつ、周囲の一挙手一投足を確認する。茶会で相手の粗を探すような視線だとは思うけれど、ここ最近はそうせざるを得ないことが続いていた。
「ヴァルドシュタイン様…たしかに受理しました」
文字通り事務的な声音と同時に、受付印が押される。受理欄に私の名が並び、その横へ時刻を示す小印。
(…時刻…残しておきましょうか)
気付けば私は記録用紙の端へ、その番号を書き写していた。
(受付簿の番号、三十八。補佐役の袖口には薄い茶色の染み。礼法委員の爪先が一度、箱の足に触れた…)
鮮明に残るものだけを書き留める。それは几帳面を通り越して神経質、お母様ですら苦言を呈するかもしれない。
でも、今日は…その無駄とも言える行動が、少しだけ心強かった。
私は一連の出来事を見届け、記録してから、ゆっくりその場に背を向けた。
*
違和感を覚えたのは、放課後のこと。返却前の不備確認として、教室で担当教員に呼ばれたときだった。
「ルミアリエル様、お待ちください。こちらについて、少しお話があります」
…この時点で私は、自分の詰めの甘さと気付きの遅さに顔をしかめそうになった。無論、ほかの生徒の目もあるので、努めて無表情を装う。
つかつかと担当教員の机の前へ向かうと、その上に“見覚えのない封筒”が置かれていた。見覚えはないのに、宛名は私だった。受付印も押されている。
けれど、封蝋の色が違った。我が一族が使う銀紫の蝋とは異なり、くすんだねずみ色だ。
(それだけじゃない…紋章の押し跡が浅いし、傾いている)
違和感はいくらでも見つかる。けれど私の神経を最も逆なでしたのは、その印影だった。
常にまっすぐ、誰が見ても正しいとわかるように。
それはお父様から叩き込まれた、もはや私から抜けることのない癖。規定だけでは示されない、ヴァルドシュタインの誇りを世に示すための作法だった。
「こちらですが、規定様式を満たしていません。ご確認を」
「わたくしのものではありません。以前提出したものと比較しても、おかしいとわかりませんか?」
教員が封筒の中身を机上に滑らせると、出てきたのは無記名の所見用紙が二枚だけ。本来あるはずだった試技報告書も、受付札控えも入っていない。
一瞬、頭の奥が冷えた。けれど直後、熱が全身に広がり、私は教員の節穴を咎めるような声音で言い返してしまう。
「しかし、受理欄にはあなたの氏名があります」
「封蝋が違います。印影の向きも浅さも、わたくしの記録とは別物です」
「受理後の状態については、提出者の手記だけでは判断できかねます」
教員の言い方は、もはや『言い訳は聞いていません』と端的に告げていた。
その前で、周囲の生徒たちの視線が刺さる。
「え? ルミアリエル様、未提出だったの?」
「でも、さっきは『自分のじゃない』って…」
「結果が悪かったからではなくて? こういうことは、毎年起こるものです」
結果。それは責め立てるにはあまりに使いやすい。
途中の手順がどうあれ、箱の中にあったものがすべて。本人の控えも、この場では“言い逃れ”にしか見えない。
(…お父様…お母様…ルミアはどうして、こうも甘いのでしょう…)
机上の封蝋を見つめ直す。すり替えの証拠としては十分なのに、それに気付けるのはこの場で私だけだった。
どれだけ正論を重ねても、『提出内容を誤魔化そうとしている』と受け取られるのだろう。
…私は、また負けたのだ。
「でしたら」
私は姿勢を正し、胸を張る。
それが虚勢に見えるのなら、それでいい。けれど心までは屈しない。
「未提出、あるいは不備として処理なさい」
「…もう異議はありませんか?」
「ありません。受理された形が残っている以上、規定には従いましょう」
喉が震え、わずかな痛みを生む。
異議はある。けれど今ここで抗っても、悪役令嬢の苦し紛れにしか見えない。
証人も物証も、まだ足りない。誇りだけで戦い抜くには、私はまだ弱すぎた。
「ちょっと待ってください…いえ、お待ちなさい」
柔らかくきれいで、しかし空気の流れを止めるような声が割って入る。
その方向を見ずとも、私は「またあの女ですか…」と理解した。
「今確定しているのは、『ヴァルドシュタイン様名義の封筒が、不備の状態で箱から出てきた』ということです。未提出として処理するのは拙速でしょう」
「しかし、受理欄には氏名が…」
「ええ、だからこそです。受理欄が生きているなら、これは提出者個人の不備ではなく、“受理後の保全手続き”まで含めて確認すべき案件でしょう? なぜ最初から、提出者だけを追及するのですか?」
ラフィエラは私の半歩前へ出るようにして、それまで浮かべていた微笑みを消した。
そして振り返る。その目は私ではなく、教室の入り口、様子を見に来ていた事務補佐の生徒を貫いていた。
その袖口に薄い茶色の染みが見えて、朝の記録が不意に蘇る。生徒はたじろぎ、ラフィエラはまた笑顔を浮かべた。
「否、断じて否。学園が許しても、わたしは認められません」
どこか芝居がかっているのに、その声は妙に鋭かった。
「提出箱の封印、保管時刻、立ち会い者、受付印の位置、事務処理に携わった者……照合できるものはいくつもあります。なのになぜ、最初から提出者の過失だけに話を絞るのですか?」
ラフィエラは全方位を警戒するように視線を巡らせる。教室の誰かが「なんでラフィエラ様がそこまでする必要が…」とつぶやいた。
…それについては、私だって言いたい。でも、言ったところでこの女が止まらないのもわかっていた。
「あります。わたしたちが守るべき規定が、そう作られているのですから」
これはいつもの翻訳ではない。
私の代わりに、私よりも容赦なく前へ出るための言葉だ。
「それに則り提案を。まずこの封筒は監査扱いとして封印保全、次に受付簿と保管記録の照合。そのうえで本日中に再提出を認め、提出時には立会人を二名置く。これなら処理手続きは止まりませんし、責任の所在も切り分けられます。これらの受け入れを拒否した場合、アストレアの名において査問委員会の設立を宣言します」
「なっ…その辺でおやめなさい!」
「ですが、ルミア様」
そこでようやく私は口を挟み、勝手に始まったアストレア劇場を制止する。しかしこの女は「それが当然でしょう?」とでも言いたげな顔で首をかしげた。
教室の刺すような視線は、今や私ではなくラフィエラに向いていた。
「監査だけでなく査問委員会も…?」
「アストレア様の目、本気ですわ…」
視線だけでなく怯えた声が上がっても、ラフィエラは撤回しなかった。
「…わかりました。監査保全と再提出で処理しますので、そのように進めてください」
ラフィエラに圧倒された教員は小さく息を吐き、諦めたように告げる。
その瞬間、こちらを覗いていた事務補佐の顔色が変わった。それを見た私は、自分が陥れられたのだと悟る。
けれど今は、その事実への恐怖よりも『査問委員会が立ち上がらなくてよかった』という安堵のほうが大きかった。新しい封筒を受け取った指先だけが、ひどく冷えている。
「ルミア様。誰よりも規定を守ろうとする姿、そしてそのために相手の仕事までも引き受ける志の高さ、あまりにも立派です…しかし、それを一人で背負わないでください。ここに、あなたの補佐役がいるのですから」
「……ぐぅ……」
返す言葉が見つからない。そして出てきたのは、情けないほどあからさまな『ぐうの音』だった。
…悔しい…悔しいとしか表現できない自分が…悔しいですわ…。
「随分とにぎやかだ、この学園においては珍しい」
したり顔のラフィエラを露骨に無視しつつ、再提出用の新しい封筒を受け取る。その直後、廊下側からゆったりした足音と涼しげな声が聞こえた。
教室へ新しく顔を覗かせたのは、オレオンだった。
「…ほう。提出物一つで監査とは、実に熱心だな」
「誰よりも正しく、そして敬愛すべき方のためですから。わたしもまた、誰よりも正しい判断をしたと信じております」
オレオンはねずみ色の封筒を見ただけで事情を察したように、無関心を隠さず状況を評価する。
ラフィエラは、この子には似つかわしくないハリネズミのような声音を隠さず、作り物めいた笑顔でスカートを小さく持ち上げて礼をした。
…なんでしょうか、この二人の空気は。
「…そして、君も。いつも結果より手順に厳しいからこそ、無用な争いを招くのではないのか?」
「…逆ですわ。手順が崩れることで、結果はいくらでも書き換えられる…だから先人たちは、手順を作法として、なにより文化として昇華してきたのです」
オレオンの視線が、久々に私へと向いた。
しかし私の返事は信じられないほど平らだった。王太子への、何より婚約者への対応としては不適格だとわかっているのに。
それでもオレオンは意に介さず、一瞬だけ目を細めてから薄く笑う。
「なるほど。ならば、その手の議論に向いた場を学園にも増やすべきかもしれないな。そうだな、秋の“模擬裁定”は有意義になると思わないか?」
模擬裁定。
その言葉が教室に落ちた瞬間、周囲の視線は秋を通り越して冬を迎えたように冷え込んだ。
公式の場で、規定と証言を争わせる訓練。それはつまり、誰がどれだけ見栄えよく負けるのかを整える舞台だ。
オレオンは思いつきのように口にしていたけれど、すでに既定路線であるかのように、その日の『笑い者』を楽しみにしているのが明白だった。
「楽しみにしております。わたしの…失礼、ルミア様に勝利の女神が微笑む姿が、今から楽しみですね」
…え? なんであなたが返事をするんですの…?
私が口を開く前に、ラフィエラはオレオン以上に楽しげで、おもちゃをもてあそぶ子供のような無邪気さと残酷さを隠さず、張り付けた笑顔を歪ませた。
オレオンは右の眉だけを一瞬引き下げ、それでも頷いてから教室をあとにする。その姿が消えた瞬間、空気の温度が季節相応へと戻った。
(…提出物は差し戻された。でも、灰色の封蝋は消えていない…)
今日だけは、どうしても銀紫の封蝋が恋しい。
救われたのではない。ただ、次の戦場へ送られただけだ。
まだ周囲の視線のすべてが戻ったわけではない。
それでも、前へ進むしかない。
あまりにも目まぐるしく変わる自分の環境の中で、私はただ、確かな自分の封蝋へと思いを馳せていた。




