第47話「宣言:隣に立つ人」
舞踏会の扉が開いた瞬間、金の光が床を滑った。
王城の大広間は裁定のときとはまるで違う顔をしており、白い卓も証言台も、誓約の光もない。
磨き上げられた床には燭台の明かりが映り、天井の飾り窓から落ちる薄い夜の青を、楽団席の金糸が静かに受け止めていた。
(華やかな場…けれど、空気が祝賀で満たされているわけじゃない)
視線を会場に走らせる。人々は笑い、杯を持ち、和やかに近況を尋ねあっている。
けれど、その視線は驚くほど無遠慮だ。王家の席や評議会の列へと吸い寄せられ、最後には今夜私が立つ位置へ集中していた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、あなたとレイナのおかげで」
隣から聞こえるラフィーの声に、自分で思っていたよりも落ち着いた声が出せた。
扇の骨を指先で押さえ、前だけを見る。先ほどまで手袋を外すのにも難儀していた手からは、余計な力が抜け落ちていた。
新しい手袋には淡い銀紫が縫い込まれ、髪飾りも銀の枝先に琥珀色の石がついたものへと替えていた。それがラフィーの瞳の色と似ていることに気付く人間なら、一足先に私の意図を感じ取れるのだろう。
それでいい。わかる人間にはわかる形で伝わり、湖に石を投げ入れた波紋のように、静かに風景を変えていけば十分だった。
「ルミア様。参りましょう」
ラフィーがもう一度私を呼び、前を見る。けれど、彼女の手は私の腕に触れない。
ここは公の場、許される距離がある。先ほど交わした抱擁は私的な空間では歓迎できても、この場ではいらぬ軋轢を生む。
ガガルドに突きつけた条件も、場をわきまえた自由を見逃すものだろうから。
彼女は今も隣にいてくれる。それだけで十分だった。同じ歩幅で歩くたび、胸がゆっくりと満たされていく。
私たちが進むたび、大広間の中央へ道が開いていく。舞踏会に慣れた人間たちは祝福の空気を醸し出しつつも、止まる指に関心を隠し切れていなかった。
(…本当なら、わたくしはあそこにいた…)
前を向いて歩いていると、否応なく王家の席が視界に入る。
国王陛下の代理として王弟殿下が座していて、その少し後ろにはオレオンの席もあった。
そこは本来、私…王太子の婚約者として座るべき場所でもあったのだ。けれど、今となっては海を隔てた島のように遠い。
強引に押し通れば、たどり着くことはできるだろう。けれど、自分の名札が用意されていない席に向かうつもりはない。
代わりに、公爵家の紋章を記した控え札は、評議会側の列へと移されている。王家に近くも異なる強さを持つ場所にある私の家の名へ、人々は様々な意味を読み取ろうとしていた。
到着すると、式部官が一歩前へと出る。その手には、形式を終わらせる簡素な書類があった。
「本日付をもって、王家ならびにヴァルドシュタイン公爵家間における王太子殿下とルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン嬢の形式婚約は、両家および評議会の確認により、儀礼上の効力を終えるものとする」
大きな発表とも言えるのに、その声は広間の上を静かに通過していった。
誰も驚いたふうにはしない。ここは学園とは違うのだと再確認させられる。昼間の裁定が周知の事実になりすぎていたのかもしれない。
私は大きな反応も見せず、ただまばたきをした。泣くことはなく、惜しいことをしたとも感じていない。
ただ、長く背負っていたものが音もなく肩から下ろされた気がした。同時に、オレオンとの乏しい思い出が脳裏をかすめる。
一瞬で終わってしまうほどの思い出しかなかったことだけが、私に感慨を抱かせた。そして、少し遅れて体が軽くなったような感覚が生まれた。
王弟殿下が署名し、ヴァルドシュタイン公爵家の代理人が続く。それから評議会の確認印が捺され、オレオンは最後まで椅子から立たなかった。
(…顔色が悪いけれど、誰かに支えを請うことはない。ただ耐え、怒りを押し殺している…大した人でした、あなたは)
オレオンの様子を視界の端に捉える。昼間に比べて弱々しくなりつつも一人で堪えている姿は、少し前の私と似ている気がした。
強がりであっても王家の威厳を守ろうとしている姿は、元婚約者から見ても誇らしかった。彼はこの瞬間までも、秩序を守ることを優先したのだ。
式部官はそれにも頓着せず、文書を閉じてから深く礼をする。
「続いて、ヴァルドシュタイン公爵家令嬢、ルミアリエル様」
婚約者という肩書きが消えたことで、広間の空気が一瞬だけ揺れた。けれど、私を揺らがせることはない。
一歩前へ進み、中央へと立つ。そこでようやく大広間の広さに気付き、遠くの壁際に並ぶ人々の顔まで見えた。
私の噂話に興じていた若い令嬢たちは、硬い表情をしている。
聖堂側の一団は、圧を含んだ視線をこちらへ向けている。
ガガルドは鋼鉄のように微動だにせず、一連の流れが問題なく終わるのかだけを見ていた。
リオネは少し離れた列にいて、胸の前で両手を握っていた。その様子だけが、私の双眸を一瞬だけ引きつけた。
そして私の半歩横に、ラフィーが立ち止まる。
(本来であれば、まだ一歩後ろに控えているべきですが…仕方のない子です、本当に)
家同士の盟約の受領者として、呼ばれるまでは待つ。それが式次第の指定だった。
その様子に対し、私は左手をほんの少しだけ開く。紋章は正しいことをしたと讃えるように、光を広げた。
その合図とも呼べない仕草を、忠犬めいた賢さでラフィーは読む。彼女はためらうことなく隣へと並び、そこでようやく会場にざわめきが起こった。
「王弟殿下、評議会の皆様。そして本日、この場にお集まりの皆様」
扇の骨や誰かの杯が立てる音を聞きながら、私は礼をする。
声は震えない。まるで事務手続きを進めるかのように、伝えるべきことが静かに定まっていた。
それが明確に形を保ち始めたのは、私室でラフィーに抱きとめられたとき。あの抱擁が、彼女と共に歩んできた物語を形にしてくれたのだ。
「先ほど、わたくしは王太子殿下との形式婚約を終えました。これは王家への背信ではなく、昼間の裁定と両家の確認に基づく、正当な手続きです」
ここまでは、式次第に沿った言葉だった。聞き慣れた安全な言葉が、会場に平穏を戻そうとする。
でも、ここで終わりではない。私は一度、大きく息を吸う。
隣にいるラフィーも、同じことをしている。触れずとも、気配だけでわかるほど近くにいる彼女が心強かった。
「けれど、手続きによって終わったものと、わたくしがこれから選ぶものは、同じではありません」
楽団席の弦が誰かの指の下で止まり、広間が静かになる。
誰にも言わされていない私の言葉を伝えるには、うってつけだった。
「わたくしはヴァルドシュタイン公爵家令嬢として、アストレア侯爵家令嬢ラフィエラ様との正式盟約を受け入れます」
ラフィーの名を広間の中央で呼ぶ。たったそれだけで、胸の奥に熱が差した。
彼女の名を呼ぶ機会は、これまでいくらでもあった。
補佐、証言者、受領者、盟約相手。
どれも間違いではない。全部がここに至るまでの道を作っていて、私たちはそれを否定しない。
けれど、そのどれもが…私が彼女を選ぶ理由にはならなかった。
「ただし、その盟約は、家がわたくしの隣を定めたから結ぶものではありません。評議会が許したからでも、王家が席を空けたからでもありません」
これからも私たちは、きっと取り決めに翻弄される。
だとしても。私は私の意思でもって、選択し続けるだろう。
「わたくしは、わたくし自身の意志で…この方を隣に選びます」
その言葉は、思っていたよりも短かった。
もっと整え、誓約の文言を引用することもできただろう。王家や評議会へ配慮すれば、咎められにくくもできた。
でも、それだけでは足りない。私がしたいのは説明ではなく。
選んだ。そう断言できる事実だった。
隣でラフィーが呼吸を忘れている。それを感じ取りながら、私は前だけを見て続けた。
「この方の隣に立つことは、わたくしにとって、逃げるためではありません。王家から退くための影でも、傷ついた名を隠すための囲いでもありません」
前を見ていると、人々の仕草が見える。
扇の向こうで目を伏せる人。隣の人間と視線を交わす人。杯に口を付けずに立ち尽くす人。
それぞれに考えがあるのだろう。私も同じだ。
「わたくしはこの方とともに、公の場へ戻ります。証言が奪われる場ではなく、沈黙が同意に変えられる場でもなく、互いの言葉がその人自身のものとして扱われる場へ」
過去を思い出すと、胸が少しだけ痛んだ。
でも、その痛みを忘れるつもりはない。ラフィーと二人で耐えてきたものは、ここに立つための理由になった。
「その責任を、わたくしは自分の名で引き受けます。願わくば、この場にいるすべての方々もまた、ご自身の言葉をご自身の責任で紡がれますように」
言い終えた瞬間、広間の静けさが深まる。拍手も、祝福の言葉もない。
その沈黙を怖いと思えた。失った席を惜しむ者、王太子の失脚を認めたくない者、令嬢同士の誓約を政治的処置として矮小化したがる者。そのすべてが私を押しつぶそうとする。
けれど、不思議と息は詰まらなかった。隣にラフィーがいる。
一歩も引かない彼女に勇気づけられると同時に、こうも思う。
(…やはりあなたは、わたくしのライバルでもある。こんなにも…負けたくはない。隣にいる人間として、恥じ入るようなことはしたくない)
ただ選ばれた人間としてではなく、自分の足で立つ姿に、私は感極まりそうだった。
「ラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレア様」
式部官の声には、緊張があった。
ラフィーはそれにゆっくりと礼をする。所作はいつも通り整っていたけれど、わずかに肩へ力が入っているように見えた。
(あなたも怖いんですのね)
その事実に、ひどく安心した。
私の隣に立つ人は、怖いと理解しても退かないのだ。
彼女もまた、私に負けたくないと思ってくれている。交差した琥珀の瞳から、それを感じ取れた。
「アストレア侯爵家令嬢ラフィエラとして、ヴァルドシュタイン公爵家令嬢ルミアリエル様との盟約を受け入れます」
声はよく通っていた。
それは翻訳でも補足でもなく、彼女の言いたい言葉だった。
「また、わたしはわたしの意思でルミアリエル様の隣に立ちます。同じように、それぞれの責任をあるべき場所へと戻し、自分たちの言葉で伝えられるよう、祖国に真の秩序がもたらされ続けることを望みます」
私を甘やかすことのない、飾り気のない宣言だった。だからこそ、広間の空気を変えた。
ただ、隣に立つこと。私が選んだ隣に、彼女も自分の足で立つのだと。
あまりにも当たり前のように言うのだから、式部官も慌てて文書を開いた。
そこには、昼間整えた盟約文の要約があった。
両名本人の継続的同意。家、評議会、王家、第三者による私的選択の代替、制限、命令の禁止。
そして、沈黙を同意と推定しないこと。
要点のみだったけれど、人々が理解するには十分だった。
(これは救済ではありません。王太子の失脚による配置替えでもない)
席の作り方そのものを変えようとする、私たちの共同宣言だった。
式部官が差し出してくる文書に、私たちは署名する。
ルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン。
ペンを置くと、ラフィーがすぐに隣へ立った。
彼女の袖が、私の袖にほんの少しだけ触れる。
その意図的な、けれど誰にも咎められない距離を理解し、思わず苦笑しそうになった。
ラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレア。
二つの名前が、同じ高さに並んだ。
それを見た瞬間、私の胸中でなにかがほどけるのを感じた。ようやく、と思えた。
救済というほど柔らかくはなく、むしろ硬質で冷たい。でも確かな存在感があり、「はじまるのね」と思った。
そこでようやく、評議会列から拍手が起きた。その建前上の祝福に、若い令嬢たちが続く。
社交儀礼はゆっくりと隣へ伝播していき、燭台の光のように広間を渡っていった。
(リオネ。ありがとう)
彼女が誰かに与えられた役目ではなく、自分の言葉を取り戻そうとしてくれたから、今日の私はここに立てている。
そんな中、リオネは泣きそうな顔で拍手をしていた。ただ悲しいだけなのか、感極まったのか、その判別に困るのが彼女らしかった。
(…!! お父様、お母様)
そのときだった。
本来なら来られないはずの両親が、いつの間にか顔を出していた。二人揃って珍しく微笑み、遠い場所から拍手を奏でてくれている。
反対、疑念、計算で満ちている空間において、その純粋な祝福に涙を堪えるのが大変だった。
けれど、すべてが祝福ではないことも知っている。
評議会列の奥で、ガガルドだけは静かにこちらを見ていた。拍手を拒むのではなく、次の盤面を数える者の沈黙だった。
「立てましたね、ようやく」
「ええ、まだ立っただけですが」
拍手に紛れるようなラフィーの声に、私も同じくらい小さな返事をした。
彼女の目が柔らかく細まったと同時に、楽団席から最初の音が戻ってくる。静謐な誓いは終わり、人々の営みがまた始まるのだ。
その同じことの繰り返しの中で、私たちの立つ位置だけが少し変わっていた。
私たちは、自分の意思で選んだ人の隣にいた。そして、これからもそれが続くことを願っていた。




