第48話「未来の金」
王城の舞踏会から三日後、温室棟の扉は以前と同じ音を立てて開いた。
蝶番の小さな軋みに懐かしさを覚え、硝子越しに降る春の光に目を閉じる。湿った土と葉の匂いも感じ取れて、何も変わっていないようでいて、少しだけ自分の歩調が穏やかなことに気付いた。
(…ここから始まったのですね)
目を開く。青い封蝋と柱際の席が自然と浮かんできて、過去の始まりと現在の結末が重なり、溶け合って消えた。
あの朝の温室は明るく、中央から少し外れた私の席は、悪役令嬢を攻撃するための場所のようだった。
しかし今は、凪のような落ち着きを帯びている。
「お嬢様。よろしいのですか?」
「ええ、大丈夫ですわ。あの時とは、何もかも…違っているのですから」
付き添うレイナの言葉に、私は温室の奥へと視線を向ける。
春の第一茶会で使われた円卓は、今は壁際へ寄せられていた。季節の花鉢を並べるためだろう。
白いクロスは外され、木目のある天板がそのまま見えている。
柱際の席も、もう席ではない。椅子は片づけられ、代わりに白薔薇の鉢が二つ置かれていた。
まだ満開ではない蕾のほうが多く、開いた花も中心に淡い影を残している。
その様子に、無垢であることを望まれた少女、聖女候補のリオネを思い出す。花開く前に聖女として祭り上げられた彼女は、今はどうしているのだろう?
彼女もまた、誰かに咲かされるのではなく、自分の季節を待てていればいい。
「…同じ場所なのに」
「同じようには見えない、ですか?」
足を止めてそれを眺めていたら、背後からラフィーの言葉が続いた。
彼女の声音もまた、昔を懐かしむように穏やかだった。それに返事をして、白薔薇の蕾へ指を近づける。
その柔らかな花弁に余計な痕跡を残したくなくて、触れはしなかった。
「以前は、ここに座らされていた。今は、ここに戻ってきた…そう感じてしまうのです」
口にしてから、少しだけ不思議になった。
座ることも戻ることも、結果としてはさほど変わらない。誰かの悪意で座らされることと、自分の意思で戻ること。その違いを、今なら少しだけわかる気がした。
「では、今日はここに座りましょう」
「ここへですの?」
ラフィーの声はごく自然だった。
彼女のことを知らないのであれば、それは嫌がらせのようにも感じる。けれど、優しく椅子を引く様子は、誰かを受け止めてくれる包容力に溢れていた。
「はい。柱際ではなく、白薔薇の隣に。ルミア様の美しさを引き立てられます」
「どこに座っても変わりませんわよ」
「いいえ、今日はわたしも隣に座ります。もう離れる必要もありませんから」
あまりに人懐こい笑顔で言ってくるものだから、拒否という選択肢は温室の空気に溶けて消えていった。
レイナも控えめに見守りながら、「いつでもお茶の準備ができます」という無言の主張をしている。
変わらないと思っていた私の大切な人たちにも、意識しなければ気付けないほど柔らかな違いが生まれていた。
「では、そうしましょうか」
「はいっ」
「はい、すぐにお茶をご用意します」
ラフィーは私が座ると同時にいそいそと、近すぎない程度に横へと椅子を移動させ、上品に腰を下ろした。
王城の広間で示した隣とは意味が異なる、『ただそこにいたいから』という距離に感じられた。
レイナはメイド長に匹敵するような手つきで茶器を整え、その音に耳を傾ける。余計な噂話が存在しない温室は、こんなにも居心地が良かった。
(砂糖壺の位置、少しずれていますわね…いえ、それでいいのでしょう)
形式張ったお茶会に慣れてしまった立場として、そうしたささやかな乱れにはどうしても気付いてしまう。
けれど、次の瞬間にはそれが乱れではなく、呼吸を許された余裕であると認識できた。整えすぎないことで、特別な相手との時間を大切にする。それもまた、貴族の礼儀だった。
「お待たせしました、お嬢様のお気に入りのお茶です」
「蜂蜜茶…これは頑張ったときのご褒美みたいなもの、今日のような日には」
「お嬢様が頑張っていない日なんてありませんので。どうかこの甘いお茶のように、今日だけは力を抜いていただけますと」
「…あなたもラフィーも、わたくしには甘すぎます。だからこれ以上の甘さは結構、と言いたいところですが。ありがとう、レイナ」
レイナが差し出したカップから立ちのぼる香りは、私の大好きな一杯だった。ミルクも添えられていて、まるで戦いから生還してきたときの、自分をいたわるお茶。
口を付けるタイミングとして正しいかはわからないけれど、ラフィーまでもが楽しそうに笑っていたので、余計な言葉は吐かずに受け取った。
そして、飲む。当たり前のようにおいしい。
(…目を閉じると、本当に眠ってしまいそう…)
舞踏会のあと、私はよく眠れなかった。
精根尽き果てそうなくらい疲れていたのに、目を閉じると拍手と沈黙が交互に浮かんできて、心は恐怖と歓喜を塗りたくったキャンバスのように乱れる。
ペン先が紙に擦れて戦いの成り行きを記録している様子が、怖かった。
ラフィーが自分の意思で隣に立つと宣言してくれた声が、嬉しかった。
その二つが反響し続ける中、ようやく訪れた温室の静寂はひどくありがたく、油断すると感極まってしまいそうだった。
でも、そうなってしまうには早いのだろう。
「レイナ、構いません。封書が届いているのでしょう?」
「…はい。しかし」
「心遣いは感謝します。しかし、後回しにもできません」
なにかを伝えようとしつつも、時間の許す限り後回しにして、私の気持ちを落ち着けようとする。よくも悪くも、レイナらしい気遣いだった。
だからそれを察して口にすると、彼女は銀盆を卓の端に置く。その上には、金の封書が置かれていた。
「…金」
思わず指を止め、言葉が漏れてしまう。しばしのあいだ、私たちのあいだで会話がなくなった。
三日前であれば、その沈黙に急かされていたかもしれない。けれど、今はまた動き出すための猶予がある。
私は呼吸を整え直して、金の封書を手に取った。
厚みは以前の招待状ほどではなく、王家の紋章はあるものの、封蝋の縁取りは細い。
「評議会からです。王城儀礼局を通しておりますが、差出人は評議会書記局。お嬢様とラフィエラ様、両名宛でございます」
レイナの説明に、胸の奥が震えた。
両名宛。今となっては当たり前の事実が文字になると、こんな気持ちになってしまうのか。
思わずラフィーと顔を合わせそうになったけれど、その衝動を振り切るため、封を切った。
ぱきり。金の蝋が小気味よい音で割れる。以前割ったときもこんな音だったのだろうか。
中には正式盟約の登録完了通知と、もう一枚、折り畳まれた別紙が入っていた。
『継続的同意条項に関する暫定運用確認会への出席依頼』
表題だけで、私は思わず目を細めた。
「早いですわね」
「評議会は、火種の温度を測るのが好きと見えます。学園と似てますね」
隣から覗き込むラフィーが、益体もないことを口にする。
本文も読む。そこには、私たちの盟約文に加えられた条項について、今後の貴族間盟約や誓約儀式運用へどこまで反映できるか検討したい、と記されていた。
(丁寧な文面。だからこそ、いくつもの思惑が畳まれているのがわかる…)
聖堂、保守派、王家、そして隣国。
それぞれが、あの誓約に別々の意味を見出そうとしている。
今日の温室はこんなにも静かなのに、私たちの生きる世界はあまりにも騒がしかった。一度、誓約魔法に選ばれただけでは、すべてが丸く収まるわけではないらしい。
(だとしても、わたくしは)
金の封書を卓に置いて、封蝋の光を眺める。
温室の光を受けて静かに輝くそれは、あの日の誓約魔法を思い出させる。それは処刑台のための照明ではなく、ただ真実を選別してくれた。
そして次に向かう場所でも面倒事があって、また息が詰まるような思いをするのだろう。
だとしても、この封蝋の輝きは、私を晒すための光ではないと信じられた。
「断ることもできます」
ラフィーが口を開く。その言葉に、思わず彼女を見た。
同じ言葉を、以前も聞いた。そして、レイナも同様の助言をしたことがある。
だからこそ、その意図がわかった。彼女は『選ぶことができる』という現状を再確認したのだ。
実際は、できることなんて決まっている。それでも、自分で選んだという事実は大切だった。
「断りませんわ。ですが、受ける前に条件を書きましょう」
あの時とほんの少しだけ違う答えを口にして、私は別紙を畳み直す。
そしてペンを執ると、ラフィーの瞳が少しだけ明るくなった。
「どのようなことを?」
「両名宛である以上、説明も質疑も両名の席で行うこと。片方の沈黙を、もう片方の同意として扱わないこと。聖堂側の解釈確認は文書で受け、口頭の圧にしないこと」
言いながら、少しだけ苦笑しそうになった。すっかりこういうことが上手くなっている自分に。
けれど、条件は盾になる。傷つかないための壁にもなる。
それでも今は、壁になるほど積み上げる必要はない。私の優秀な『同盟相手』は、それを私と隔てるものではなく、つながるための橋に変えてくれるだろうから。
「それから、言っておくべきことがあります。もしもあなたが出席を望まないのなら、わたくしも出ませんわ」
ラフィーを見ながら、大事なことを伝えておいた。彼女は、すぐには答えなかった。
選べるのは、私だけじゃない。私と同じ場所に立つ以上、彼女にも同等の権利を渡さないとダメだった。
ラフィーは手元のカップへ視線を落とす。その日光に照らされた横顔は、聖画の中の人物のように静謐だった。
「望まない、とは言いません。でも、怖くないわけじゃありません」
「ええ、わかります」
「だからこそ、出席します。わたしも自分自身の言葉が、どこへ運ばれるかを見届けたい」
私は深く頷いた。やっぱり、聞いてよかったと痛感した。
自分の意思でもって、相手と同じ答えを選ぶこと。それもまた隣に立つための作法なのだと、ここ最近でようやく理解できた。
それを見届けたかのように、レイナは何も言わずに新しい便箋を置く。準備がよすぎる侍女の行動に、感動を通り越して脱力しそうになった。
「必要でしたら、返答文案もご用意いたします。とりあえず、三案ほどならすぐに」
「一応聞きますが、どのような内容で?」
「穏当、押し返し、切り払い…でしょうか」
「最初以外は不穏なので結構です。フェンシングの果たし状ではないのですよ?」
少しだけ残念そうに下がったレイナに、またラフィーが笑っていた。その笑い声が温室の硝子に触れて、緩やかに春の光へと溶ける。
そのぬくもりに体のこわばりもやわらぎ、ペンを執って便箋を引き寄せた。
返答は短くていい。出席を受けること。条件を添えること。両名の確認を前提とすること。
何より、二人の名前を書く。
ルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン。
ラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレア。
並んだ名前を見ると、今でも少しだけ紋章が熱を帯びる。
昨日も、一昨日も、王城で何度も見た並びだ。それでも温室の卓で見ると、また違う気がした。
青い封蝋を持って端へと引き下がった場所で見る二人の名は、陽光を受けてようやく金色に輝いているように見えた。
「ルミア様。お名前、呼んでもいいですか?」
「呼んだあとに聞きますの?」
「間違いました、“様”を外して」
しん、と胸の奥が静まり返る。
それは盟約の宣言に比べて、とても小さなものだ。家格の違いなど、もはや些事だろう。
しかし、逃げ場を感じさせない。些細なことだからこそ、私的なものだからこそ、ないがしろにはできなかった。
いつの間にかレイナは一歩下がり、模範的な侍女のように気配を完璧に消していた。その主の私的な時間を守ろうとする様子が、少しだけ腹立たしい。
「…今、言わないとダメですか」
「ダメではありません。ただ、わたしが聞きたいと思っているだけです」
「遠回しに『逃さない』と言っているようなものですわよ、それは」
「うふふ」
ラフィーははぐらかすように笑った。その柔和な様子が、時々ずるいと感じる。
私はカップの縁へ指を添えた。まだ温かいその熱が、自分が生きていることを思い出させる。
生きている以上、時間は止まらない。だから、口を開いた。
「公の場では、ダメです」
「はい」
「手紙や正式文書もダメです。残る以上、誰かの目に付くこともあるでしょう」
「はい」
「レイナの前では…その…場合に、よります」
「…うふっ」
感情を隠さないラフィーの様子に、少しだけ力が抜けた。
その笑顔を直視できず、白薔薇を見る。咲き誇る前の白は、目の前の乙女みたいに澄んでいた。
何色でもない、何色にでもなれる白。
「……二人のときだけなら」
それは、自分の席次を変えるよりも難しい決断に思えた。
ラフィーも私の苦悩を感じ取ったのか、すぐには呼ばない。その慎重な様子に、何度助けられたのだろうか。
でも、やっぱり時間は止まらなかった。
「ルミア」
光に包まれる温室の中で、それは静々と咲いた。
返事をしようとしても、うまく声にならない。代わりに、卓の上に置いていた手を少しだけ動かす。
ラフィーの指が少し迷ってから、でも、自然に重なった。
手を握るというほど強くない。けれど、逃げられない程度に触っていた。
「ラフィー」
私もまた、彼女の名を呼んだ。ここにいることを確かめるように。
こうして呼び合うと、これまでとはまったく違う響きに聞こえる。実際に、違う意味を持っているのだろう。
ラフィーは花びらがほどけるように「はい」と返事をして、指先にほんの少し力を込めた。
それだけで、温室の白薔薇が一輪、咲いたような気がした。もちろん、実際には都合よく咲くはずがない。
でも、それでよかった。花は急いで咲かなくていい。日を浴び、雨に打たれ、季節を巡らせながら、私たちのようにゆっくり変わっていけばいいのだから。
(私たちはもう、誰かの紙に先に結末を書かせない)
心の中で、そう誓う。ラフィーもまた、同じ気持ちであるかのように頷いていた。
「返答書に用いる蝋でございます」
誓いが終わったことを見届けたように、レイナは静かに戻ってくる。その手には小さな封蝋箱があった。
白、青、銀、金。なじみ深い色が並んでいる。
しばらくそれを見つめ、やがて私は金の蝋を取った。
「よろしいのですか?」
レイナの顔に、再び気遣う感情が宿る。でも、迷いなく頷けた。
「ええ。これは、呼び出されるための金ではありませんもの」
金の蝋を火に近づけると、ゆっくりと溶け始めた。
紙の端へ金を落とし、丸い雫が広がり、やがて一つの形となった。
そこに印章を押す。ヴァルドシュタイン家の紋章、その横にアストレア家の小さな確認印。
「わたくしたちは、これからも二人で立つために、その証明をするべくこちらから向かう。行きますわよ、ラフィー」
「はい、ルミア様…あ」
これから進むための金色を選び、私たちは何度でも立ち上がる。
ラフィーの返事に迷いはなかったけれど、急な変化には彼女もまだ戸惑っていたようで。
金の光は私たちの苦笑を照らしながら、いつまでも春の日だまりの中で輝いていた。




