第46話「あなたの腕の中で」
舞踏会前の私室は、静かだった。
(手袋が、うまく外せない…緊張しているのですか、ルミアリエル)
自分に言い聞かせる言葉すら音にならない。薄い白の手袋は指の関節で引っかかり、そこから動いてくれなかった。
息を吐き、耳を澄ませる。先ほどまでの廊下の足音も、ガガルドの低い声も、紙を走るペンの音も、ここにはない。
あるのは鏡台と衣装掛け、舞踏会用の髪飾り、レイナが整えた化粧道具、そして閉じられた扉だけだった。遠くで楽団の調律らしき音が、一度だけ壁を震わせる。
(これは終わりじゃない、始まりの一歩…わかっている、けれど)
これから私がおこなうのは、『公の場でどう立つかを示す』こと。
そのために支度を続ける。手袋を外し、髪留めを替えて、紋章留めの位置を整え、呼吸を戻してからもう一度外に出る。
たったそれだけのことだ。わかっているのに、手袋すら外せなかった。
「…なにをしていますの」
声にするつもりがなかった自分への叱咤は、掠れた音として落ちていった。
鏡の中の私は背筋を崩しておらず、礼装も乱れていない。あるべき立場に戻れたヴァルドシュタインの令嬢として、恥じない姿に見えた。
けれどもこの指先を見ると、それは張り子の虎のように感じてしまう。
(…紙の上では多くのことが前へと進んだのに、わたくし自身は…まだ、立ち止まっている)
誓約儀式を乗り越え、正しい証言を取り戻した。
王太子の恣意的な権限乱用も止まり、リオネも自分の言葉を取り戻せたはずだった。
ガガルドに叩きつけた盟約文には、沈黙を利用させないための一文すら入れ込んだ。
それでも安心は訪れない。見えない敵を探すように、手の紋章が鈍い熱を帯びていた。
今になって誓約の際に起こった出来事へ反応するように、チカチカと弱く明滅している。
「…何たる惰弱。このような姿、お父様に見られたら」
浅い呼吸を誤魔化すように、自分を奮い立たせる。それでも手袋は外せず、鏡台へと手をつこうとした。
けれどもその直前に、膝の力が少し抜ける。生まれたばかりの子鹿めいた頼りなさで、今一度部屋の中を見渡した。
レイナは追加の髪飾りを取りに行っている。ラフィーは舞踏会の立ち位置確認で、別室へ向かっていた。
かつては一人で佇むことも慣れっこだった私は、今こそ誰にも気兼ねせず持ち直せると思ったのに。
そんな弱々しい思考を区切ったのは、扉の前で止まった足音だった。短く控えめなノックの後、扉が静かに開く。
振り向かずともわかる。その視線を、何度も背中で受け止めてきたのだから。
「ルミア様」
いつもより低めなラフィーの声に、彼女はすでに私の状態を察しているのだとわかった。
私は鏡の向こうにいる彼女を見る。夏と秋の境目を連想させるハニーゴールドの髪は、舞踏会用に整えられている途中だった。前髪の一部が少し乱れ、容姿を取り繕う前に来たような顔をしている。
「もうすぐ舞踏会です、準備を済ませなさい」
「呼ばれている気がしまして」
「…気のせいです」
「わたしは推しの気持ちがわからない人間にはなりたくありません」
すっかり聞き慣れた彼女なりの冗談を、今は笑うことができなかった。
もちろんラフィーは準備に戻らず、部屋に入って扉を閉める。何も言わずに近づいてくる、その迷いのなさがちょっとだけ怖かった。
恐怖は、絶対に敵対しない相手にも抱くことがあるらしい。
「心配されるようなことはありません。舞踏会の確認はよかったのですか?」
「すでに終わりました…と言いたいところですが。そちらは後回しにしました」
悪びれもなく、ラフィーは穏やかにそう言った。
思わず彼女へ振り向く。鏡の世界から出てきた彼女は、「こっちが本物ですのね」とわかるくらいには美しかった。
「そんなことをしたら、また何を言われるか」
「あとで紙に残るものよりも、今この瞬間、ルミア様との残せない時間のほうが大切ですから」
…いつの間にかこの子は、女性をたらし込む技術を洗練したらしい。
私は胸の奥に抱え込んでいたものを少し揺らし、手袋を握りしめる。外れかけの不格好な様子が、滑稽に見えた。
「外れませんか?」
「外れます、子供じゃありませんもの」
「なら、今すぐ外してみてください」
もしも誓約魔法が有効であれば、きっと私の言葉は拒まれていた。
ラフィーは私に起こっていることを見透かしたように、伸ばしかけた手を止める。ひどい子だ。
けれど、怒りは湧かない。彼女の人懐こい笑顔は、いつも通り私から毒気を抜く。
それに任せて引っ張っても、やはり手袋は関節で引っかかる。親指のところまでしか抜けない様子に、私は敗北を認めるしかなかった。
「…外れませんわ。笑ってくださいまし」
「笑いません。でも、嘘をついた罰として…触ってもいいですか?」
「…優しいのね」
強がりをやめた私に対して、ラフィーは優美な動きで手を伸ばしてきた。
彼女の指が、私の手袋の端に触れる。今まで何度も袖を引いてきた手が布の引っ掛かりを確かめ、指を一本ずつ愛でるように解いていく。
紋章が光る。けれどもその光り方は、心臓の鳴動みたいに自然で心地よかった。
目を閉じ、その時間を噛みしめる。たとえ閉じていても、網膜の向こう側にはラフィーの顔が形作られていた。
「外れました」
「…ありがとう」
あまりにも簡単だった。
一人ではどうしようもないことも、彼女がいてくれたら。
白い手袋を恭しく受け取り、弱々しくも笑えた気がした。
「ルミア様、怖かったですか」
まっすぐな問いかけに、私はすぐ答えられなかった。
怖いのは、もう認めるしかない。でも、怖いものは一つだけではなかった。
(白い卓、オレオン、リオネ、ガガルド…いずれの相手にも負けなかったのに、それでも空白が残った…)
数拍のあいだ、これまでの戦いを思い出す。
あの戦いに勝利者はおらず、ただ裁定という形で結果だけが残った。観衆は私たちの勝利だと思っているだろうけど、違う。
本当の私たちは、今もなお戦い続けている。
「…終わったはずなのに。何もかも、軽くなっていない」
「ええ」
ラフィーは私の手を握ったまま、子供に返事するように頷く。
手袋のなくなった右手に伝わる彼女の両手は、魔法のように言葉を引き出した。
「あるべき場所へ戻った。名誉を勝ち取った。真実へと書き換えた。なのに、次に立つべき場所を探すと…足元がなくなる気がして」
それこそが次の戦いなのだろう。
「わたくしは、何度も立ち向かってきた。白い卓にも、評議会にも、ガガルドにも。そうやって今日も立てばいいはずなのに…鏡の前には、立てない」
その事実を口にした瞬間、崩れ落ちそうになった。最後の虚勢を失った人間は、かくも脆いのだろうか。
私を支えてくれるラフィーのまっすぐな目に「見ないで」と伝えたけれど、従うような彼女ではなかった。
手を離し、私の正面へと回る。これからの人生、どうあがいてもそこにいる…そんな宣言をされた気分だった。
「こうすれば、顔は見なくて済みます」
一瞬だった。でもそれは、フェンシングの試合なら致命的な、有効打には十分な刹那だった。
もう一度彼女の視線から逃げようとした私を、ラフィーは抱きしめた。背中に回った腕の感触ははっきりしているのに夢幻、にいるような不確かさもあった。
袖を引くのでも、手を握るのとも違う。真正面から、疑いようのない“好意”を突きつけられて、最初は体が固まった。
本気で抜け出そうとすれば、あっさり抜けられる程度の力加減だった。でも、彼女の肩に額が近づくとハニーゴールドの髪の匂いが漂い、封蝋とは異なる人の体温が嗅覚からも伝わってきた。
「わたくしは、まだ負けておりません」
なにかを言おうとして、出てきたのはそんな言葉だった。自分でもなぜそれを選んだのか、まったくわからない。
ラフィーはその返事に満足したように、ほんの少しだけ腕に力を込めた。
私もまた、彼女の背中に手を回す。何度も私を守るため前へ立ってきたその体は、腕に収まるほど小さかった。
「わたくしは、立てます」
「信じています。そして、そのためにわたしが隣に立ちます」
強がりを重ねる。でも、ラフィーの柔らかい切り返しに喉が詰まった。言いたいことを抑え込むのではなく、本当に伝えたい言葉だけを切り取るような、彼女らしい魔法だった。
それは私の胸の奥深くまで効いて、頭から力が抜けた。そのまま彼女の肩へと額を預け、呼吸を繰り返す。太陽を浴びた花畑みたいな香りが、私を正直にする。
「ラフィー。今日、あなたがいてくれなければ。わたくしは、こうして立てなかったでしょう。崩れ落ちたまま、動けなくなったかもしれない」
「はい」
言ったあとに驚く。こんなことを口にする日が訪れるなんて、考えもしなかった。
ラフィーは返事と一緒に、また一段だけ腕の力を強めた。
「わたしもですよ、ルミア様。あなたが立つから、私は横に立てました。もうわたしは、半歩後ろじゃ我慢できない。これ以上、わたし以外の人間が隣に立ち続けることなんて、絶対に認められない。この日を夢見て、あなたの背中を追い続けてきました」
ラフィーは深くて重い呼吸と同時に、自分の気持ちを伝えて…いや、押し付けてくる。時々オレオンへ向けていた対抗心──あるいは敵意──は、私の勘違いではなかったらしい。
「…時々、あなたが怖いと感じていましたが。気のせいではなかったんですのね」
「大切なものをぞんざいに扱われて笑い続けられるほど、わたしはルールに染まっておりませんから」
そこでお互い、くくっと息を殺して笑った。
いつもルールの中で戦っていた少女が、よく言う…でも、この子のそんなところが。
私は、きっと。
「舞踏会。そこでわたくしたちは、また見られるでしょう」
「存じております」
「今度は証言台とは違う、別の意味で。誰の隣に立つのかを、見られているのでしょう」
「わかり切っていることなのに、仕方ありませんね」
その受け答えに、私の口も軽いままだった。
「それが怖いですわ」
「わたしも怖いです」
「そうは見えませんが」
「本当ですよ、わたしのおひい様」
怖いという気持ちを、互いに隠せなくなった。
ラフィーは続ける。
「わたしはあなたに選ばれたい。でも、選ばれたあと、その居場所を守り続けることは怖いです。今日書いた条文の通り、継続的に同意し続けることはきっと重いです」
その言い方が、実に私の共犯者らしかった。
責任から逃げず、それを怖いものと認識した上で、正しい場所へ置く。
「それでも、わたしは。怖いまま隣に立つことを、ずっと選び続けます」
胸の奥で固まり続けたなにかが、静かにほどけていった。
抱きとめられていても、閉じ込められているとは思わない。
それはもう一度羽ばたくための羽根休めで、外へと飛び立つ私たちの居場所だった。
顔を上げる。距離の近さに言葉を失い、ラフィーの睫毛の長さに見入った。
「…まだ言えないことが、たくさんあります。けれど」
「はい」
それでも今、伝えられることがあった。
「舞踏会では、あなたの隣に立ちます。だから、あなたもわたくしの隣へ立ってくれますか?」
喉は震えたけれど、すべてをはっきり伝えられた。
ラフィーは頷きつつ、感極まったように丸っこい目を揺らした。
そして喜びと安堵以上の感情を込め、はっきりと返事をした。
「はい、ルミア様。わたしは、あなたの隣に立ちます。その瞬間を、一日千秋の思いで待っておりました」
私たちの誓いは、抱擁の中で交わされた。
それは大広間にいる誰にも聞かれず、記録官も残さず、誓約の光にも照らされない。
そんな、どこにも記されない私たちの物語は、どんな約束より確かなものに思えた。
それを噛みしめていると、扉の外で控えめな足音がした。レイナだろう。
彼女はすぐに入らず、まるで戻るタイミングを計るように立ち止まっていた。
だから私も、ラフィーの腕から抜け出る。残念ではない。むしろ、これまでで一番自然に笑えた。
「支度をなさい、ラフィー」
「仰せのままに」
ラフィーも私から離れ、スカートを持ち上げて礼をする。その視線を追って振り向くと、鏡に映った私たちの姿が視界に収まった。
疲れは残っているけれど、先ほどより顔色は戻っている。背筋もピンと立っていて、これならばヴァルドシュタインの名に恥じないだろう。
「お支度、整っております」
扉が開き、レイナは礼をしながら報告する。
彼女の後ろから舞踏会の音がかすかに聞こえ、もう一度恐怖がよみがえった。
けれど、もう一人で息を殺す必要はない。同じ歩幅で隣を歩き出したラフィーのほうは見ず、ただ前を向いて戦地へと赴いた。
逃げるためではなく公の場に戻るため、『ルミア』と『ラフィー』でいるため、私たちの新しい宣言が始まろうとしていた。




