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誇り高い悪役令嬢は冷たいのではなく、不器用なだけです 〜それを理解するのはライバル令嬢だけ〜  作者: 花田一郎
第4章:誓約と調停

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第46話「あなたの腕の中で」

 舞踏会前の私室は、静かだった。

(手袋が、うまく外せない…緊張しているのですか、ルミアリエル)

 自分に言い聞かせる言葉すら音にならない。薄い白の手袋は指の関節で引っかかり、そこから動いてくれなかった。

 息を吐き、耳を澄ませる。先ほどまでの廊下の足音も、ガガルドの低い声も、紙を走るペンの音も、ここにはない。

 あるのは鏡台と衣装掛け、舞踏会用の髪飾り、レイナが整えた化粧道具、そして閉じられた扉だけだった。遠くで楽団の調律らしき音が、一度だけ壁を震わせる。

(これは終わりじゃない、始まりの一歩…わかっている、けれど)

 これから私がおこなうのは、『公の場でどう立つかを示す』こと。

 そのために支度を続ける。手袋を外し、髪留めを替えて、紋章留めの位置を整え、呼吸を戻してからもう一度外に出る。

 たったそれだけのことだ。わかっているのに、手袋すら外せなかった。

「…なにをしていますの」

 声にするつもりがなかった自分への叱咤は、掠れた音として落ちていった。

 鏡の中の私は背筋を崩しておらず、礼装も乱れていない。あるべき立場に戻れたヴァルドシュタインの令嬢として、恥じない姿に見えた。

 けれどもこの指先を見ると、それは張り子の虎のように感じてしまう。

(…紙の上では多くのことが前へと進んだのに、わたくし自身は…まだ、立ち止まっている)

 誓約儀式を乗り越え、正しい証言を取り戻した。

 王太子の恣意的な権限乱用も止まり、リオネも自分の言葉を取り戻せたはずだった。

 ガガルドに叩きつけた盟約文には、沈黙を利用させないための一文すら入れ込んだ。

 それでも安心は訪れない。見えない敵を探すように、手の紋章が鈍い熱を帯びていた。

 今になって誓約の際に起こった出来事へ反応するように、チカチカと弱く明滅している。

「…何たる惰弱。このような姿、お父様に見られたら」

 浅い呼吸を誤魔化すように、自分を奮い立たせる。それでも手袋は外せず、鏡台へと手をつこうとした。

 けれどもその直前に、膝の力が少し抜ける。生まれたばかりの子鹿めいた頼りなさで、今一度部屋の中を見渡した。

 レイナは追加の髪飾りを取りに行っている。ラフィーは舞踏会の立ち位置確認で、別室へ向かっていた。

 かつては一人で佇むことも慣れっこだった私は、今こそ誰にも気兼ねせず持ち直せると思ったのに。

 そんな弱々しい思考を区切ったのは、扉の前で止まった足音だった。短く控えめなノックの後、扉が静かに開く。

 振り向かずともわかる。その視線を、何度も背中で受け止めてきたのだから。


「ルミア様」


 いつもより低めなラフィーの声に、彼女はすでに私の状態を察しているのだとわかった。

 私は鏡の向こうにいる彼女を見る。夏と秋の境目を連想させるハニーゴールドの髪は、舞踏会用に整えられている途中だった。前髪の一部が少し乱れ、容姿を取り繕う前に来たような顔をしている。

「もうすぐ舞踏会です、準備を済ませなさい」

「呼ばれている気がしまして」

「…気のせいです」

「わたしは推しの気持ちがわからない人間にはなりたくありません」

 すっかり聞き慣れた彼女なりの冗談を、今は笑うことができなかった。

 もちろんラフィーは準備に戻らず、部屋に入って扉を閉める。何も言わずに近づいてくる、その迷いのなさがちょっとだけ怖かった。

 恐怖は、絶対に敵対しない相手にも抱くことがあるらしい。

「心配されるようなことはありません。舞踏会の確認はよかったのですか?」

「すでに終わりました…と言いたいところですが。そちらは後回しにしました」

 悪びれもなく、ラフィーは穏やかにそう言った。

 思わず彼女へ振り向く。鏡の世界から出てきた彼女は、「こっちが本物ですのね」とわかるくらいには美しかった。

「そんなことをしたら、また何を言われるか」

「あとで紙に残るものよりも、今この瞬間、ルミア様との残せない時間のほうが大切ですから」

 …いつの間にかこの子は、女性をたらし込む技術を洗練したらしい。

 私は胸の奥に抱え込んでいたものを少し揺らし、手袋を握りしめる。外れかけの不格好な様子が、滑稽に見えた。

「外れませんか?」

「外れます、子供じゃありませんもの」

「なら、今すぐ外してみてください」

 もしも誓約魔法が有効であれば、きっと私の言葉は拒まれていた。

 ラフィーは私に起こっていることを見透かしたように、伸ばしかけた手を止める。ひどい子だ。

 けれど、怒りは湧かない。彼女の人懐こい笑顔は、いつも通り私から毒気を抜く。

 それに任せて引っ張っても、やはり手袋は関節で引っかかる。親指のところまでしか抜けない様子に、私は敗北を認めるしかなかった。

「…外れませんわ。笑ってくださいまし」

「笑いません。でも、嘘をついた罰として…触ってもいいですか?」

「…優しいのね」

 強がりをやめた私に対して、ラフィーは優美な動きで手を伸ばしてきた。

 彼女の指が、私の手袋の端に触れる。今まで何度も袖を引いてきた手が布の引っ掛かりを確かめ、指を一本ずつ愛でるように解いていく。

 紋章が光る。けれどもその光り方は、心臓の鳴動みたいに自然で心地よかった。

 目を閉じ、その時間を噛みしめる。たとえ閉じていても、網膜の向こう側にはラフィーの顔が形作られていた。

「外れました」

「…ありがとう」

 あまりにも簡単だった。

 一人ではどうしようもないことも、彼女がいてくれたら。

 白い手袋を恭しく受け取り、弱々しくも笑えた気がした。

「ルミア様、怖かったですか」

 まっすぐな問いかけに、私はすぐ答えられなかった。

 怖いのは、もう認めるしかない。でも、怖いものは一つだけではなかった。

(白い卓、オレオン、リオネ、ガガルド…いずれの相手にも負けなかったのに、それでも空白が残った…)

 数拍のあいだ、これまでの戦いを思い出す。

 あの戦いに勝利者はおらず、ただ裁定という形で結果だけが残った。観衆は私たちの勝利だと思っているだろうけど、違う。

 本当の私たちは、今もなお戦い続けている。

「…終わったはずなのに。何もかも、軽くなっていない」

「ええ」

 ラフィーは私の手を握ったまま、子供に返事するように頷く。

 手袋のなくなった右手に伝わる彼女の両手は、魔法のように言葉を引き出した。

「あるべき場所へ戻った。名誉を勝ち取った。真実へと書き換えた。なのに、次に立つべき場所を探すと…足元がなくなる気がして」

 それこそが次の戦いなのだろう。

「わたくしは、何度も立ち向かってきた。白い卓にも、評議会にも、ガガルドにも。そうやって今日も立てばいいはずなのに…鏡の前には、立てない」

 その事実を口にした瞬間、崩れ落ちそうになった。最後の虚勢を失った人間は、かくも脆いのだろうか。

 私を支えてくれるラフィーのまっすぐな目に「見ないで」と伝えたけれど、従うような彼女ではなかった。

 手を離し、私の正面へと回る。これからの人生、どうあがいてもそこにいる…そんな宣言をされた気分だった。


「こうすれば、顔は見なくて済みます」


 一瞬だった。でもそれは、フェンシングの試合なら致命的な、有効打には十分な刹那だった。

 もう一度彼女の視線から逃げようとした私を、ラフィーは抱きしめた。背中に回った腕の感触ははっきりしているのに夢幻(ゆめまぼろし)、にいるような不確かさもあった。

 袖を引くのでも、手を握るのとも違う。真正面から、疑いようのない“好意”を突きつけられて、最初は体が固まった。

 本気で抜け出そうとすれば、あっさり抜けられる程度の力加減だった。でも、彼女の肩に額が近づくとハニーゴールドの髪の匂いが漂い、封蝋とは異なる人の体温が嗅覚からも伝わってきた。


「わたくしは、まだ負けておりません」


 なにかを言おうとして、出てきたのはそんな言葉だった。自分でもなぜそれを選んだのか、まったくわからない。

 ラフィーはその返事に満足したように、ほんの少しだけ腕に力を込めた。

 私もまた、彼女の背中に手を回す。何度も私を守るため前へ立ってきたその体は、腕に収まるほど小さかった。


「わたくしは、立てます」

「信じています。そして、そのためにわたしが隣に立ちます」


 強がりを重ねる。でも、ラフィーの柔らかい切り返しに喉が詰まった。言いたいことを抑え込むのではなく、本当に伝えたい言葉だけを切り取るような、彼女らしい魔法だった。

 それは私の胸の奥深くまで効いて、頭から力が抜けた。そのまま彼女の肩へと額を預け、呼吸を繰り返す。太陽を浴びた花畑みたいな香りが、私を正直にする。


「ラフィー。今日、あなたがいてくれなければ。わたくしは、こうして立てなかったでしょう。崩れ落ちたまま、動けなくなったかもしれない」

「はい」


 言ったあとに驚く。こんなことを口にする日が訪れるなんて、考えもしなかった。

 ラフィーは返事と一緒に、また一段だけ腕の力を強めた。


「わたしもですよ、ルミア様。あなたが立つから、私は横に立てました。もうわたしは、半歩後ろじゃ我慢できない。これ以上、わたし以外の人間が隣に立ち続けることなんて、絶対に認められない。この日を夢見て、あなたの背中を追い続けてきました」


 ラフィーは深くて重い呼吸と同時に、自分の気持ちを伝えて…いや、押し付けてくる。時々オレオンへ向けていた対抗心──あるいは敵意──は、私の勘違いではなかったらしい。


「…時々、あなたが怖いと感じていましたが。気のせいではなかったんですのね」

「大切なものをぞんざいに扱われて笑い続けられるほど、わたしはルールに染まっておりませんから」


 そこでお互い、くくっと息を殺して笑った。

 いつもルールの中で戦っていた少女が、よく言う…でも、この子のそんなところが。

 私は、きっと。


「舞踏会。そこでわたくしたちは、また見られるでしょう」

「存じております」

「今度は証言台とは違う、別の意味で。誰の隣に立つのかを、見られているのでしょう」

「わかり切っていることなのに、仕方ありませんね」


 その受け答えに、私の口も軽いままだった。


「それが怖いですわ」

「わたしも怖いです」

「そうは見えませんが」

「本当ですよ、わたしのおひい様」


 怖いという気持ちを、互いに隠せなくなった。

 ラフィーは続ける。


「わたしはあなたに選ばれたい。でも、選ばれたあと、その居場所を守り続けることは怖いです。今日書いた条文の通り、継続的に同意し続けることはきっと重いです」


 その言い方が、実に私の共犯者らしかった。

 責任から逃げず、それを怖いものと認識した上で、正しい場所へ置く。


「それでも、わたしは。怖いまま隣に立つことを、ずっと選び続けます」


 胸の奥で固まり続けたなにかが、静かにほどけていった。

 抱きとめられていても、閉じ込められているとは思わない。

 それはもう一度羽ばたくための羽根休めで、外へと飛び立つ私たちの居場所だった。

 顔を上げる。距離の近さに言葉を失い、ラフィーの睫毛の長さに見入った。


「…まだ言えないことが、たくさんあります。けれど」

「はい」


 それでも今、伝えられることがあった。


「舞踏会では、あなたの隣に立ちます。だから、あなたもわたくしの隣へ立ってくれますか?」


 喉は震えたけれど、すべてをはっきり伝えられた。

 ラフィーは頷きつつ、感極まったように丸っこい目を揺らした。

 そして喜びと安堵以上の感情を込め、はっきりと返事をした。


「はい、ルミア様。わたしは、あなたの隣に立ちます。その瞬間を、一日千秋の思いで待っておりました」


 私たちの誓いは、抱擁の中で交わされた。

 それは大広間にいる誰にも聞かれず、記録官も残さず、誓約の光にも照らされない。

 そんな、どこにも記されない私たちの物語は、どんな約束より確かなものに思えた。

 それを噛みしめていると、扉の外で控えめな足音がした。レイナだろう。

 彼女はすぐに入らず、まるで戻るタイミングを計るように立ち止まっていた。

 だから私も、ラフィーの腕から抜け出る。残念ではない。むしろ、これまでで一番自然に笑えた。


「支度をなさい、ラフィー」

「仰せのままに」


 ラフィーも私から離れ、スカートを持ち上げて礼をする。その視線を追って振り向くと、鏡に映った私たちの姿が視界に収まった。

 疲れは残っているけれど、先ほどより顔色は戻っている。背筋もピンと立っていて、これならばヴァルドシュタインの名に恥じないだろう。


「お支度、整っております」


 扉が開き、レイナは礼をしながら報告する。

 彼女の後ろから舞踏会の音がかすかに聞こえ、もう一度恐怖がよみがえった。

 けれど、もう一人で息を殺す必要はない。同じ歩幅で隣を歩き出したラフィーのほうは見ず、ただ前を向いて戦地へと赴いた。

 逃げるためではなく公の場に戻るため、『ルミア』と『ラフィー』でいるため、私たちの新しい宣言が始まろうとしていた。

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