第45話「契約の書き換え」
黒茶の封蝋が割れると同時に、金の封蝋の余韻が消えた気がした。
中から出てきたのは招待状ではなく、誓約儀式の通達でもない。
『ヴァルドシュタイン公爵家およびアストレア侯爵家間における正式盟約案』
厚手の盟約文案と、署名欄の写し、それから協議場所を示す短い案内だった。
硬い表題が何を目指しているのかは、続く文言に目を通せば否応なくわかる。
(両家の協力体制、王国秩序回復への寄与、公開誓約儀式後の政治的安定、当事者保護、社交上の混乱防止…どれもこれも、正しい顔をしてばかり)
正しいということは、それだけ注意が必要であるということ。
ガガルドらしい圧力の掛け方に、私は一行ずつ目で追うことを余儀なくされた。ラフィーも斜め横に座り、同じように読んでいる。
レイナは茶器を下げ、代わりにインクと予備の筆を出してきた。ただ読むだけでは済まされないと察するこの子は有能すぎた。
「…保護、ですか」
ラフィーの言葉は小さかった。それでも耳に届き、彼女の視線を追ってみる。
『両令嬢の名誉および社交上の安全を保護するため、両家の関係は評議会承認下の正式同盟として扱う』
盟約文案の中央あたりに、その語があった。
保護。安全。正式同盟。
きれいな言葉を並べ立て、感情が入る余地を埋め尽くしていた。
「牢屋に花を飾っておけば、不平不満も出なくなる…評議会の皆様が考えそうなことですわね」
ここにはまだ、信頼できる人間しかない。だからこそ、自分たちをそこに入れようとしている大人たちへ毒を吐いておいた。
「ならば私が掃除させていただきます。ついでに、檻の鍵も撤去いたしましょう」
「気が利きますのね、レイナ。ですが、そもそも入るつもりもございませんわ」
「だからこそ、鍵なんて不要なのです。お嬢様を閉じ込めておくには、そこはあまりにも窮屈で無粋ですので」
レイナは表情を変えないまま筆を差し出し、半ば本気の冗談を口にする。彼女なら錠破りも本当にできてしまいそうで、ますます従うわけにはいかなくなった。
ラフィーは少しだけ目を伏せて、喉だけを鳴らす。笑いというには小さな音で、それが部屋の空気を軽くしてくれた。
そのまま、盟約文へと視線を戻す。
「協議場所は王城西翼の小評議室、そして相手はアイゼングラーフ宰相…しかも、時刻は本日の夕刻前」
「大した足取りの軽さですね。ルミア様もお疲れですのに、やはり殿方はせっかちな生き物なのでしょうか」
読み上げると、今度はラフィーが皮肉を口にした。けれどもその顔は相手の意図を理解しているもので、私も無言で頷く。
誓約の熱がまだ残り、評議会の処理も進んでいる。私の席次が戻ったばかりなら、『安定させるための正式な同盟が必要』と急かすこともできるのだろう。
勝ったからこそ、有能だからこそ囲われる。私の勘は、こんなにも早く的中した。
(署名欄はヴァルドシュタイン公爵家代表、アストレア侯爵家代表、評議会承認、宰相確認。その下は…)
重々しい署名欄の下には、小さくこう記されていた。
『両令嬢本人確認欄』
誓約儀式のあとでこれを突きつけられるのは、気遣いの皮を被った“新しい象徴作り”めいていた。
「行きましょう。向こうから来て欲しくはありませんので」
立ち上がり、はっきりと口にする。残っていた疲労は、消えない戦意に吹き飛ばされた。
子供のように拒むだけであれば、また外側から押し付けられる。
大人ぶって受け入れるだけでは、相手が用意した檻に入れられる。
大人と子供の狭間で生きている私たちにとって、どちらも受け入れがたい。だから、行く。
こちらから向かって、読んで、書いて、直す。
そうやって紙の上に刻んだものは、あの誓約のように力を持つだろうから。
私の言葉に二人は頷き、すぐに準備を終えた。
*
小評議室は、大広間と比べたらずっと小さい。
天井も高くなく、壁も古い法令の写しが額装されているだけ。
その中央にある長机で待つのは、ガガルド。私とラフィーはもう片側に座り、レイナは扉に近い後方で、書類箱を持って立っていた。
華やかさのない空間に、レイピアの切っ先を向けあうような緊張感が漂う。大広間が衆目を刃に変える場所だとしたら、この部屋は条文という鎖で縛る場所だった。
ガガルドは先手を打つように立ち上がり、礼をする。
「ヴァルドシュタイン公爵家令嬢、アストレア侯爵家令嬢。先ほどの誓約儀式では、両名とも王国の混乱収束に寄与された。その多大なる貢献、王も喜んでおられた」
息子の権限が取り上げられたのに王が喜ぶなどと、よくもまあ…。
称賛とは思えない言葉に、恐縮だけしておいた。
「ゆえに、今後の扱いを曖昧にしておくことはできない。曖昧さは不安定を招き、祖国の土台を揺るがせかねんからな」
貴族社会にとって、曖昧さは剣にも盾にもなる。何なら、それを欠いたからこそ、私は何度も青と白の狭間を行き来していた。
けれど今は、それが危険だと言う。彼は自分の矛盾などどうでもいいのか、私たちの感情、噂、個人の選択、そして『まだ名前を持たない隣』を危険視してきた。
「両家の協力関係は、今後の王国にとって有用だ。今日の誓約儀式においても、両名の連携はこれまでの様々な同盟関係と比較しても遜色なかった」
ガガルドの視線が、私とラフィーのあいだを測るように動く。
私はともかくラフィーにまでそんな目を向けてきたことに、「これがフェンシングの試合であればどんなによかったか」と嘆きたくなる。
「それゆえ、これを正式な政治同盟として固定する。そうすれば社交場の憶測も、王家の再干渉も、保守派内の余計な反発も抑えられる。全方面にとって有益だ」
抑えられる。固定する。
まるで私たちが暴れ馬であるかのように、ガガルドは不遜な言い方を崩さない。
「私たちを守るため、ということですか」
ラフィーは臆せず尋ねた。怒りを隠すのが上手い。
ガガルドもまた、なんの感慨も見せずに頷く。
「その通り。感情という不確定なものをそのまま公的な場へ出せば、また利用されるのが関の山だ。ならば、制度という形に変換すればよい」
悪意はなかった。
だからこそ、かえって厄介だった。彼は心の底から『危険な感情を政治的な形へ収めれば守れる』と考えている。
次の言葉さえなければ、譲歩も検討していたかもしれない。
「“女同士の一時的な親密さ”など、社交の場ではすぐに意味を変えられる」
もしも扇子を持ち込んでいたら、投げつけていたかもしれなかった。
「両家の正式同盟であれば、話は変わってくる。侯爵家令嬢が公爵家令嬢の隣に立つ理由は、誰にも疑われまい」
盟約文案の上に視線を向ける。
少し前の私なら、それでもいいと思ったかもしれない。隣に立つ理由を説明しなくていい、その見通しのよさに惹かれたかもしれない。
その用意された檻に入れば、傷つくこともないのだろう。
(けれど、それではオレオンのしようとしたことと変わらない…同じことをすれば、彼に笑われてしまうだけ)
どれほどきれいな建前で飾られていても、檻は檻だ。そこに入った者の名に、外の人間はもう耳を貸さない。
しかし、拒むことも難しいのは知っていた。だから、一度だけ意識して呼吸をおこなう。
「理屈はわかります。ですが、この案では不十分です」
「なんだと?」
ガガルドの目が鋭くなる。ラフィーとレイナがいなかったら、受け止めるのも一苦労だった。
喉の奥から言葉をたぐり寄せる。
「両家の協力体制を記録すること自体は、今後の混乱防止に有効でしょう。王家側の再干渉を避ける意味もあります。しかし、この文面では、わたくしたちの意思が家同士の同盟に塗りつぶされてしまいます」
「何が不満だ?」
本気でわかっていないような質問に対し、署名欄の下にある本人確認欄を軽く叩いた。
「確認欄があるだけでは不十分です。本人の意思は、同盟の中にあってもかき消されてはなりません。でないと、聖堂に言葉を奪われた聖女のようになるでしょう」
ラフィーが、隣で息を呑んだ。そんな反応は初めて見る。
振り向く必要はなかった。ガガルドに余計な感情を勘繰られそうだから。
だからあえて『恋文』とは縁遠そうな、書き慣れた公文書のような一文を用意していた。
「では、何を加えるつもりだ?」
「失礼いたします」
レイナに視線を送ると、すぐに予備の紙と筆を差し出してくれた。
ラフィーに見守られながら、淑女として恥じないよう、ワルツを踊る自然さで余白に書き添えた。
『本盟約は両名本人の継続的同意を前提とし、いずれの家、評議会、王家、または第三者も、両名の私的選択および隣席の意思表示を代替、制限、または強制してはならない』
書き終えた瞬間、部屋から完全に音が消えた。
それは決して、『恋』とは読めない。愛にも伴侶にもならず、特別だとも書いていない。
それでもすぐ隣のラフィーの体温に、わかる者にだけはわかると確信した。
制度の言葉で、私的な選択のための扉を開けておく一文。それもまた、誓約と調停が織りなす魔法の一つだった。
「これでは曖昧さが残る」
「いいえ、違います」
眉をひそめるガガルドも、すでに怖くなかった。
「曖昧さもまた、本人の権利として明記します。感情は不確定なもの、だから制度へ変換するのは有効でしょう。ですが、不確定なものをすべて同盟に変換すれば、そこにいる人間たちはただ利用されるだけ。今日の裁定は、それを正せた一幕でもありました」
誓約の光が脳裏に浮かぶ。
リオネに背負わせた白い衣。オレオンが掲げた正義。
同じことを、私たちにまですることは認めない。
「不確定であることを理由に奪わない。変わりうるものだからこそ、継続的に本人が確認する。これなら、制度にも耐えられると信じています」
ラフィーとなら戦える。言葉にしない誓いが、音もなく消えていった。
ガガルドはしばらく私と書き添えを見比べ、必死に計算しているようだった。
この一文が王国の利益になるか、害をもたらすか。いま拒めば、評議会がまた本人の意思を軽んじたと見られる。彼はそれらを同時に秤へ載せているのだろう。
「侯爵家令嬢。同意するのか」
ラフィーはすぐには返事をしなかった。迷っているわけじゃない。
決まっている答えを噛みしめるように、私が書いた一文を見つめていた。
「同意します」
そしてラフィーは筆を執り、一文の下に短く書き足した。
指先が、ほんのわずかに止まる。迷いではなく、渡されたものを壊さないための慎重さだった。
これは多分、私と彼女の記念すべき共同作業だった。
『当該同意は、両名のいずれか一方の沈黙をもって推定してはならない』
私の中で、万感の思いが駆け巡った。
これまでどれだけの沈黙が、都合よく扱われてきただろう。私のものだけでなく、リオネ、なによりラフィー自身も。
「ただ従うつもりはございません。この同盟が私たちを守るものであるなら、わたしたちの沈黙を利用しない文でなければなりません。余計なことをしゃべらせたくないのなら、なおさらです」
ラフィーは躊躇せず、啖呵を切るように言い放った。
ガガルドはついに椅子へと深めに腰掛け、低い息を吐く。
「有能さは認める。しかし厄介な令嬢方だ、扱いに困る」
「お褒めにあずかり光栄です」
ラフィーの切り返しに、ガガルドは初めて鼻で笑ったように見えた。
それからラフィーが書き終えると同時に評議会側の随員へ目配せして、「修正案として記録」と伝える。
でも、それで終わらないのが彼らしい。
「ただし、評議会承認の前に、両家代表および本人確認欄への署名が必要となる。また、本案は両家代表の確認後、舞踏会前の評議会小承認へ回す」
舞踏会。
その華やかな言葉に身構えてしまうのは、貴族の悲しい性だろう。
「そこで両家の協力体制を、無理のない形で示してもらう。秩序回復を示すための小規模な舞踏会だが、体制が揺らいでいないことを示す場でもある。同盟後の初仕事としては、申し分あるまい」
祝賀とは言えなさそうな口ぶりに、私とラフィーは顔を見合わせそうになった。
後ろに立つレイナからは「最高のドレスをご用意いたします」という圧が放たれ、着せ替え人形になることを受け入れるしかなかった。
だから、不敵に笑って見せる。
「承知しました。ただし、示し方はこちらで選ばせていただきますわ」
「そうだな、条文には従おう」
私たちの書いた一文が、早くも効力を見せた。
紙に残すということは怖い以上に、こんなにも心強い。
だから私たちは両家代表の署名に先んじて、自分たちの本人確認欄へと筆を走らせた。
家が先か、本人が先か。それを暗喩する行動にも、ガガルドは口を挟まなかった。
手は震えない。雲のない空を見つめるように、筆跡は澄み渡っていた。
『ルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン』
『ラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレア』
二つの名がぴったりと並ぶ。本人確認欄の横に押された紋章印が、乾ききらないインクのそばでわずかに熱を帯びた。
誓約儀式の光ほど強くはない。けれど、紙がただの紙ではなくなった。
筆を置くと同時に、一瞬だけラフィーと視線を交わす。
共に生きましょう、わたしだけのおひい様。
そんな言葉が私にだけ届いたので、私もまた、口に出さず返事をした。
負けませんわよ、我がライバル。そして共犯者──。




