第44話「金へ戻る日」
私の元へともう一度、金色が届いた。
(お早いことで…朝もまだ迎えていないというのに)
あの誓約によって閉幕した舞台から控え室に戻されて、まだ半刻と経っていなかった。
王城儀礼局の使者が銀盆を運び、薄い金の縁取りが入った封筒と、席次表の写しを渡してくる。過剰な祝意はなく、どこか恐縮した態度だった。
封筒を受け取る指先は、思っていたより冷えていた。勝ったはずなのに、身体はまだ大広間に残っている。
その封蝋は、金だった。色味自体は晒し者にする時と同じに見えるのに、手に取った瞬間の重さが違う。
少なくとも、ヴァルドシュタイン公爵令嬢としての立場を認められたような気がした。あの虚しい争いにおいて、数少ない喜べることだった。
『公開誓約儀式に伴う暫定席次訂正通知』
固い封蝋を開くと、表題が目に入る。それをなぞり、私はしばらく指を止めた。
(訂正、戻す、解除…どれも人を動かす言葉…)
今日何度も聞いた言葉を目で追うだけで、疲労が紙の重さに混じってくる。
けれどもこの紙こそが、私を端から中央へ、外縁から代表列へと戻していた。少なくとも、この気苦労に見合ったものかもしれないと、ため息がこぼれる。
静かな控え室に、熱のこもった吐息が消えていく。大広間の熱はまだ耳の奥に残っているのに、ここには厚い絨毯と低い灯り、冷めかけた茶の香りだけがあった。
大広間では、まだ評議会の処理が続いているはずだ。
オレオンの暫定指揮権停止。記録閲覧権限の凍結。聖堂補助列の運用確認。そして、リオネの今後の扱い。
どれもインクが乾くには早すぎる。紙に定着させるには、相応の時間が必要だろう。
「お嬢様。本当ならすぐにでもお休みいただきたいのですが、席次表の確認を済ませていただいても大丈夫でしょうか?」
「ええ、もちろん。これは終わりではなく、新しい始まりに過ぎません。ですので、立ち止まってもいられませんから」
レイナはいつものように、無駄のない手つきで席次表を広げる。急かす意思はなく、私の疲労を察して、ぎりぎりまで声かけを遅らせてくれたのだろう。
彼女の指先は落ち着いていた。けれど紙を押さえる力は少しだけ強く、私以上に金色を喜んでいるのがわかる。
「お嬢様のお名前はこちらに」
示された位置を見て、私は息を止める。
「…ヴァルドシュタイン公爵家代表列。そう、ついに」
評議会席の斜め下、聖堂側からも王家側からも独立して見える場所。ヴァルドシュタインの強さと、先祖も抱え込んできた孤独を表しているかのようだった。
王太子婚約者としての添え名は外されている。私の名前は、私の家名と共に置かれていた。
「…このようにお伝えするのは、的外れかもしれません。ですが、言わせてください。お嬢様、お帰りなさいませ」
「…ええ、ただいま戻りましたわ。レイナ、そして我が一族」
そこは、私にとって帰るべき場所だった。故郷とは、こんなにも愛おしく、同時に痛むものなのだろうか。
青い封蝋が届いたあの日から始まったすべては、私を悪役令嬢にしたのでも、王太子婚約者のまま縛ったのでもない。ただ、生まれた場所へ戻してくれたのだ。
だからレイナの言葉はこれ以上なく的確で、私は痛みを悟られないよう、淡く笑った。レイナもまた普段は見せない微笑みを浮かべ、やっと私は息をつけた。
(…よかった。これでよかったのですよ、ラフィー)
そう思えた。そしてそれが正しいことであるように、胸だけでなく紋章も熱を帯びる。
自分の名前があるべき場所にある。その事実は、たしかに私の救いになった。これでよかったのだと思える。
「では、祝杯の準備を進めさせていただいてもよろしいですか?」
「まだ昼前ですわよ。それに、わたくしはまだお酒を嗜めません」
「では…祝茶を」
「なんでそこまでして祝おうとしますの? これは当然の結果でもある、ならば騒ぐほどのことでもないでしょうに…」
「仮に不当な力でねじ伏せられていたら、私はメイドのままでいられないような行動に走っていたかもしれませんので。十分にめでたいことだと考えております」
「はぁ…今は気持ちだけ受け取っておきます。そういうのは、次の帰省で」
「あら、残念です…わたしも乗り気でしたのに」
レイナとのやりとりで肩の力が抜けたところへ、控えめなノックの後にラフィーの声が入ってくる。
彼女は先ほどまでの鋭さを手放し、ようやく人間らしい呼吸に戻っていた。
…まあ、それはお互い様かもしれませんが。
ラフィーは定位置のように向かい側へ腰を下ろし、レイナもすぐにお茶を用意した。彼女の手にあった照合表の控えは、役目を終えたように伏せられる。
「…ルミア様。おめでとうございます、とお伝えしてもよろしいでしょうか?」
「かまいません…ただ、これはわたくし一人の勝利ではありません。あなたがわたくしにそう言うのなら、わたくしもそう返さねばなりませんわね」
「慎んで承ります」
ラフィーは一度だけ視線を落とし、それから私をまっすぐ見た。
「…そして、おかえりなさい」
「…それはレイナからも言ってもらいましたが。そうですわね、不思議と…おめでとうよりも、そちらのほうが嬉しくなります」
けれどレイナが先に言ってくれていたことで、頬の温度は上がらずに済む。対するラフィーは「あら、レイナさんにはかないませんね…」と頬を膨らませ、レイナは「恐縮です」と礼をした。
(…本当に、大げさな子たち。でも、同じ気持ち…)
戻ったのは次席であり家名で、いわば公的な位置だ。そこに温度は不要で、私も相応に振る舞わねばならない。
だとしても、それを素直に喜んでもらえることは、私の口の端を緩くした。
「でも、わたしもレイナさんの気持ちは痛いほどよくわかります。ルミア様が不当な扱いを受けるたびに、関係者全員を誓約魔法の前へ引っ立てようと考えておりました」
「そうですか。それを実行しなかったあなたの理性は大したものですわ」
「褒められました。レイナさん、見ましたか?」
「はい。率直に言うと、大変羨ましいです」
「…あなたたちはもっと皮肉を皮肉として受け取ったらどうですか」
「承知しております。その上で喜んでいるんですよ」
「おっしゃるとおりです。お嬢様からのお言葉なら、どんなものだってご褒美ですから」
「最近、あなたたちを怖く感じるときがありますわ…」
冗談を口にして、皮肉で切り返して、最後には誰かが笑う。
以前なら想像もできなかった変化に、戸惑いよりも居心地の良さを感じた。
けれど、体から力が抜けたところで別の空白が目に付く。やっぱり、これは終わりではなく始まりなのだろう。
(戻ることはできても、足りないものがある。わたくしは欲深くなってしまったのでしょうか、お父様、お母様…)
席次表を見ると、否応なくそう考えてしまう。
この位置は正しい。でも、私が選んだと言えるのだろうか?
間違ってはいなくとも、足りない。その感覚が、正体不明の焦燥をくすぶらせた。
「ルミア様?」
「ああ、なんでもない…のですが、変な話をしてもいいですか?」
「もちろんです。そうした話ができることも、きっと喜ばしいことですから」
「では、お茶のおかわりをすぐに」
私の沈黙からなにかを察したラフィーとレイナが、心に留めていた言葉を引っ張り出そうとする。
そのくすぐったさに抵抗せず、私は口にした。
「ずっと戻りたかった。でも、戻っただけでは終わった気がしません」
言葉にすると、胸の内側に白い余白が形を伴ってくる。まるで、記入を後回しにしている書類のように。
「席次は戻った。名誉も、少なくとも書類上は回復しつつあるのでしょう。オレオンも、リオネも、それぞれの責任を果たそうとしている」
自分の手を見ながら指折りをする。どれも決して軽視できないものだった。
「それでも、ただ戻っただけ。本来あるべきものを取り戻したという事実は、変化ではなく帰還…」
ラフィーもレイナも、黙って聞いてくれていた。私がまだ探している最中だとわかっているのだろう。
「…そう。わたくしは、これからどこに立つべきなのか。それがまだ決まっていないのですね」
尋ねるように、言い聞かせるように、私はそこへ到達した。
レイナはお茶の準備を止めず、私を見ていた。ラフィーは同じ場所から席次表を見るように、私の横へ移動してくる。
「では、選びましょう」
「…簡単に言いますのね」
まるで『自分ならできる』と言わんばかりで、私はちょっとだけムッとした。
けれど、この子ならできそうとも思えた。
「簡単ではありません」
「本当にそう思ってますの?」
「口にするだけなら簡単、でも…選ぶのは、いつだって怖いものです」
率直な言葉だった。頷くしかない。
席次表を見るラフィーの横顔は真剣で、可愛いというよりも美しい。サンアンバーの瞳には、誓約の光みたいな、決して逃げ出さない意思があった。
「ルミア様が戻された場所は、正しい行いの結果です。けれど、そこから誰の隣へ立つかまでは、まだ書かれていません。いえ、他人に書かせてはならない」
ラフィーの声が少しだけ低くなった。『勝手に決めることは許さない』と主張するように。
「だから、書きましょう」
書きましょう。
それは『自分が書く』のでも、『あなたが書いてください』でもない。
『わたしたちで書きましょう』という、ある種の…誤解を恐れない表現で言うのなら、“告白”じみた響きだった。
途端に、その余白が煌めいて見える。
「……あなたは」
「はい」
言いかけて、私は止まった。でも、ラフィーは返事をした。
あなたは、それをなんと呼ぶつもりなのか。
私の隣に立つことへ、どんな名前を与えるつもりなのか。
かつて私とオレオンが契っていた関係を連想して、それが喉から出かける。けれど、なんとか止めた。
ここでそれを口にすれば、きっとなにかが変わる。ラフィーは私の言葉を受け取り、そして…笑ってくれるのかもしれない。
「……書くのなら。勝手に書き換えられない形にすべきです」
でも、まだ言えない。
大広間に蠢く意思たちは、まだそれぞれの思惑を走らせている。安易に決めてしまえば、誰かが違う言葉へ塗り替えるかもしれない。
この私的な空間は居心地がいいけれど、迫り来る悪意から身を守るには無防備だった。
私の返事に落胆するかもしれないと思ったけれど、ラフィーは目を細め、首肯した。寂しさはあっても、私を理解している顔だった。
「はい。わたしも、誰かに名前を付けられるのはいやです。わたしたちのことは、わたしたちが決めたいですから」
その言葉は静かに、まっすぐ私の胸に届いた。
「では、勝手に名付けようとする方々の名前を書き出しておきます。裁定中、ずっと目を走らせておきました」
「…あなた、静かに立っていたと思ったらそんなことを」
「お嬢様をお守りするためでしたらなんでも」
レイナの物騒だけど頼りがいのある言葉に、ラフィーは相好を崩す。
私も口では呆れつつ、緩む顔は抑え切れない。誤魔化すように差し出されたお茶を飲むと、私の大好きな甘い紅茶だった。
けれど、その余韻を楽しむ時間はなかった。扉の外で足音が止まり、ノックの音が二度聞こえる。
レイナの顔は完全無欠の侍女に変わり、ラフィーも外向けの穏やかな仮面を被り直した。
「アイゼングラーフ宰相閣下より、ヴァルドシュタイン公爵家令嬢、ならびにアストレア侯爵家令嬢へ。今後の両家協力体制に関する協議のご案内でございます」
ガガルドの使者が入り、深い礼と共に封書を差し出してくる。黒に近い茶の封蝋が、否応なく部屋の空気を変えた。
使者が出て行ってから、封書を手に取る。その表には、こう記されていた。
『ヴァルドシュタイン公爵家およびアストレア侯爵家間における正式盟約案』
「早速、といったところでしょうか」
「ええ。すでに周囲は、わたしたちの立つ場所を固定したいようですね」
感情を排した言葉の並びに、保護の顔をした囲い込みが透けて見える。あの男のことだ、そう見えるように突きつけてきたと考えるべきだろう。
そこにあるのは、私たちを守る形ではない。私たちが何者であるかを、先に決めてしまう形だった。
金の席次表の隣に置かれた封書は、私たちの意思を上書きするような重さを放っていた。
「では、開けましょうか。勝利の美酒の開栓、とはいきませんが」
私が冗談めかすと、ラフィーは微笑んで頷いた。レイナはすぐに封切り用の小刀を差し出してくる。
それを封書に差し込むと、黒茶の封蝋が硬い音を立てて割れた。やはり、勝利を祝うものからはほど遠かった。




