第43話「さようなら、オレオン」
大広間の静かなる熱は、思っていたよりも早く冷えていった。
リオネの言葉が記録され、聖堂次席が議事の移行を告げたあと、白い卓の周囲から余計な人員が下げられた。
証言者席にいた学園関係者は、記録官の指示で後方へ移される。
聖堂補助列も、リオネを含めて一段下がった。
観衆として残る者、発言権を保つ者、記録対象として待機する者…同じ広間にいるのに、立場だけが淡々と分けられていく。
(…ここには勝者なんていない。それぞれがしたことに、相応の裁定が行われるだけ…)
悪役令嬢を断罪するための叙情詩は、誓約の光によって一つ一つの事実に切り分けられ、真実だけが通されるようになった。それは物語に熱狂したかった人々にとって、熱と声を奪うのに十分だった。
白い卓の前へ、評議会席から三名が降りてくる。王家紋章の入った黒い記録簿、評議会印、赤紐で綴じられた権限一覧。
それらが置かれるたび、広間の熱は剥がれていった。ここから先は物語ではなく、制度の話なのだと。
「今から行われるのは、行政としての手続き。ただそれだけなのだと思います」
目まぐるしく変わっていく合間を縫うように、ラフィーが小さな声で私に語りかける。その抑圧的なまでの空気に、私もまた黙って頷くしかなかった。
印、紐、欄、署名、権限の名称…これから何が始まるのか、それを伝えるには十分な乾き切った空気が広がっていった。
(…わたくしの青い封蝋も、こうして作られていたのでしょうか)
自分に行われてきた一連の出来事を思い出し、ため息をつきそうになる。
青い封蝋を渡され、中心から端へと移動させられたこと。
白の封蝋を押し付けられ、外縁へと消されたこと。
金の招請状を向けられたかと思ったら、中央へと晒されたこと。
それが今度はオレオンにも行われると思ったら、どういうわけか、胸の奥に小さな隙間ができた気がした。
「王太子殿下」
評議会の長老が口を開く。声は低く、驚くほど感情がない。
怒りも嘲りも意図的に削ぎ落としたような、事務的を極めた声音だった。
「本件における王家側関与について、誓約確認および記録照合の結果、証言作成過程への側近の介入、文言調整、証言順の恣意的設計が認められました」
記録官が、該当する紙を一枚ずつ示す。
証言順の崩れた一覧。初稿控え。追記の筆跡。承認時刻。補助文の配布記録…逃げ場を塞ぐように、派手さのない紙が並んでいく。
それを前にしても、オレオンは微動だにせず立っていた。王族席ではなく白い卓の少し横に立つ姿は、誓約魔法を前にしても怯えない、本来であれば敬意を払うべき態度に見えた。
しかし、彼はもう進行を司る立場ではない。今は確認される側として、そこしか立つ場所がないのかもしれない。
「以上をもって、第一王子オレオン・レオニダス・ルミナリア殿下の学園儀礼、婚約関連調整、および聖堂連携案件に関する暫定指揮権を停止します」
停止。その単語が広間の床に落ちていく。
ざわめきは起こらない。ただ、誰かの扇が閉じかけたまま止まった。
王太子としての立場が奪われる、そういうことではない。罪人として引き立てられるわけでもない。
ただ、扱える権限が切り取られていく。一つずつ分類され、今回のようなことをできなくするために。
それは王族の中心に近い人間にとって、首を切り落とされるのに近しかった。
「あわせて、当該案件の記録閲覧および修正権限を凍結。今後の関係者聴取には、評議会指定監督官二名および聖堂次席の立会いを要するものとします」
どれも冷たい宣告だった。しかし、オレオンの表情を崩すことはできない。
そんな彼であっても、白い卓の端に置かれた王家紋章の印章へ視線が落ちたのを私は見逃さなかった。
金の印章。それは王家の権威を示すもの。
オレオンにとって自分の誇り、祖先に認められた証が、評議会長老の手で小さな布の上へ移された。印面を下に向けず、横へ倒す。
その瞬間、広間の誰もが理解した。
この件において、王家紋章はもうオレオンの手から直接押されない。
彼の名は王家に残り続ける。けれど、その手が大きな権限を持つことはなくなる。
それは失脚という言葉を声にしないまま示す、静かな退場勧告だった。
「…私は」
何も言わぬまま出ていくかと思われた矢先、オレオンが口を開く。
今もなお取り乱さない姿から王家の誇りを、押し殺しているのがわかる声音から、ようやく彼の感情の片鱗を垣間見た。
…もっと早くそれを私に見せてくれていたら、私たちは婚約者でいられたのだろうか?
「王国の安定を損なおうとしたわけではない」
苛立ちが混ざり始める。
すぐ後ろからは、ラフィーの厳しい視線が向けられているのがわかった。
「未熟な学園の混乱を放置すれば、家々の対立は拡大した。聖女候補は象徴であり、婚約者は王家の均衡を支える役だ。私は役割に従って配置したにすぎない。それが行き過ぎていたというのなら、秩序を守るためだというのなら、甘んじてこの裁定を受け入れよう」
先ほどまで多くの事実を切り分けてきた誓約の光も、今は強い反応を示さない。儀式の中心にあった出来事が終わりつつある、それを自ら示すように。
そんなさなかでオレオンの言葉を静かに見守っているように見えたのは、意思のない慈悲だったかもしれない。
「殿下」
その静寂を切り開いたのは、これまでずっと黙っていたガガルドだった。
金属のように硬質な声が、広間から温度を奪っていく。彼は評議会席に近い位置へ立ち、深い彫りの奥の目をオレオンに向けていた。
まるで、オレオンが見せた唯一の感情ですら、採決の材料にはしないと伝えるように。
「安定のために配置することと、配置した事実を記録に耐えられぬ形で隠すことは別です」
オレオンの視線が鋭くなる。先ほどまで彼を見張るように目を向けていたラフィーも、ガガルドに対して射抜くような視線を投げつけていた。
「ガガルド卿、何が言いたい?」
「私は王国に忠誠を誓っております。祖国に乱をもたらすのであれば、どのような立場、そして行動であっても諫めねばなりません」
はっきりしたことがある。
それは、『ガガルドはオレオンの味方ではない』ということ。
いいや、王太子にああもはっきり伝えた以上…ほかの王族相手ですら、味方するかどうかは条件次第なのかもしれない。
彼がそこまでして忠誠を誓う『王国』とは何なのか。それを知ろうとすると、全身の血液が冷えていくようだった。
「王太子殿下の御意志が秩序を守るためのものであったとしても、その手順が誓約と記録に耐えられぬなら、秩序の名を損ないます。本件において私は、殿下の権限を一時停止し、監督下へ置くことに異議はありません」
オレオンは怒鳴り返さなかった。ガガルドも謝らない。
どちらも、自分の正しさを信じていた。だからこそ、残酷さだけがその場に残る。
オレオンが信じた秩序は、最後の最後で彼を守らなかった。その事実を念押しするガガルドの行動は、私の敵ではなかったとしても、少なくとも味方であるようには見えない。
「暫定措置として、殿下は王城内東翼監督室にて、関係記録の確認を受けること。外部書簡の発行、学園および聖堂への直接指示、婚約関係に関する公的発言を禁じます」
評議会長老が赤紐の綴りを開きながら、すべてを終わらせるために告げた。
下がった列の奥で、リオネが祈るように指を重ねているのが見えた。
こうして、オレオンの権限は閉じられた。その直後、オレオンは私を見て目を細める。
「ルミアリエル。満足か」
「いいえ」
その問いは、ただの確認に近かった。
仮に私がここで喜べば、オレオンはこの結果を私情の争いとして矮小化し、再度の戦いを挑んでくるのかもしれない。
…いや、そう考えるのは彼に失礼かもしれません。
そう考え直して、私は即座に返事をした。
この胸には何の晴れやかさもなく、溜飲を下げるでもなく、ただ事実が紙に残されたという、長い戦いの後の疲労感だけがあった。
「今回の件は、わたくしの満足のためではありませんから。あなたが信じた秩序が、あなたの手順を支えられなかった。わたくしの信じた事実が、わたくしたちの行動を支えた。その結果です」
伝えた直後、胸の奥の重みが増した。
もしもこれが結果に対する責任の重さだというのなら、私はまた一つ、大切なものを知ることができた。あの言葉の鋭さも、決別の痛みも、前へ進むための力になってくれるだろうから。
オレオンはしばらく私を見て、ほんのわずかに笑った。それはとても不敵な、いつか復讐を遂げようとするような…油断ならない強さがあった。
「お前は最後まで、私を悪人にしないのだな」
「…あなたが悪人であれば、事態はもっと簡単だったでしょう」
私は彼に恋心を抱けなかった。
だけどそれは、彼が憎いという意味には直結しなかった。
私が悪役令嬢ではなかったように、彼もまた、悪意だけで動いた人ではなかった。
だからこそ、裁きは必要だった。簡単な悪人として切り捨てられないからこそ、記録に残さなければならなかった。
「目指した秩序の形は違いましたが、あなたが自分の正義を貫こうとしたこと、わたくしは忘れませんわ」
「…これからが大変だぞ、ルミアリエル。私が成そうとしたことをお前が成し遂げられるかどうか、見ものだな」
その瞬間、半歩後ろのラフィーが息を吐く。
そして評議会長老が裁定文へ印を押して、白い卓が重い音を鳴らした。
(…さようなら、オレオン)
これで一つ、終わったのだ。案内役に促されて通路へと下がる、王家の名を自由に使えなくなったオレオンを見送りながら、私はすぐに“次”が来ることを悟った。
記録官は次の欄へと筆を滑らせる。大広間の視線はオレオンを追っていたが、それも次第に戻ってくる。
オレオンが見えなくなったところで、私はようやく息を吐いた。紋章の熱も弱まり、ラフィーの光もすっかり落ち着いている。
「ルミア様」
けれど、彼女はそこにいる。私が望まなかった頃からそうしてきたように。
広間のわずかな音にすら紛れるほど小さな声で、私に囁いてきた。
「あなたは勝ちました。だからこそ、選ぶことができます」
「選ばないといけない、の間違いではなくて?」
勝った。その甘美なはずの言葉は、まだしっくりとこない。
現に周囲は紙の処理に追われていて、勝利を祝うような雰囲気ではなかった。多分、このまま待っていてもそれは変わらない。
そんな中で投げかけられたラフィーの言葉も、決して甘いものではなかった。これまで奪われ、ずらされ、置かれてきた立場から…今度は、自分たちで選ばないといけない。
「しかし、選ぶ側になれたのも事実です。誰の隣を、未来を、あるいは名前もわからないものを」
「……」
胸の奥が静かに揺れて、返事に窮した。
思わず振り返りそうになる。でも、大広間には今も評議会の目があり、聖堂の記録があり、王家の紋章も横たわっている。
だから、振り向くことができなかった。その代わりに、ごくごくわずか、少しだけ足の位置を変えた。
ラフィーがいるほうへと、意識して。それだけで、彼女が笑ってくれた気がした。
「記録官。ヴァルドシュタイン公爵家令嬢の席次および招請資格について、暫定措置を訂正する」
評議会長老の言葉に、私は顔を上げる。
白い卓の端に、新しい紙が置かれた。見覚えのある薄い金の縁取りに、王城儀礼局の名。
なにより、私を晒すために使っていたものと同じ色…金に輝く封蝋が。
「公開誓約儀式における証言対象としての配置を解除。ヴァルドシュタイン公爵家令嬢を、王家婚約者席ではなく、独立した公爵家代表席へ戻す」
戻す。その言葉を待ち望んでいたのか、あるいは逃げ続けてきたのか。
どのような感傷を抱くべきかわからない私とは裏腹に、手続きは進んでいく。席次表の写しが開かれ、私の名は白い卓の前ではなく、評議会と公爵家代表列に近い位置へと移動していた。
(消されたわけじゃなく、見世物にするためでもない…そう、戻ってきた)
ずっと奪われてきた位置が、紙の上でひと足先に回復し始めていた。紋章が痛みではなく、古い鍵が回るような熱を持つ。
レイナもそれに感極まったのか、無表情を貫く態度とは裏腹に、幼なさを残す瞳は潤んでいた。
それを見ていると、気持ちよさはある。けれど、安らぎだけを噛みしめることもできなかった。
(選べるはずだった。でも、戻された場所も…誰かが決めたものでしかない。ままなりませんわね、オレオン)
席次表を見つめながら、私は彼の意思だけで操作されていたわけじゃないことを悟る。
処刑台のために用意された金は、本来あるべき金色へと変わり始めていた。でもそれは、ただ“戻る”だけ。
戻された場所に安堵して座るだけなら、私はまた誰かの決めた席に収まることになる。
だから、前へ進む。自分で選べるものは自分で選び、隣に立つ人と一緒に。
その名前はまだ、どこの記録にも残されていなかった。




