第42話「無罪を望まなかった聖女」
まるで糸が切れた操り人形のように、リオネはしばらく立ち上がれなかった。
聖堂次席に呼ばれても、白い衣の裾は椅子の下で小さく震えるだけ。指先は、もう手元にない紙を握るように固まっていた。
誰かが用意した文言。本人の混乱を避けるための参考文。
そうした名目の紙が無くなったとしても、彼女が身軽になったようには到底見えなかった。
(…支えを失った人間は、何を頼りに立てばいいのかわからなくなる。わたくしにも、少しだけ覚えがありました)
かつての私は、差し伸べられた手を拒み、一人で立つことだけを正しさだと思っていた。
だからこそ、リオネを支えていた人たちのほとんどが彼女を利用していただけだとしても、それを失う恐怖を完全には笑えなかった。
すでに誰かが泣けば終わるような場ではなくなった現在、観衆たちはリオネに安易な同情を向けていない。
ただ、待っていた。彼女が象徴ではなく、リオネ・ヴィオレッタ・ド・グレイヴ本人として何を言うのかを。
「聖女候補」
聖堂次席の硬質な声が、無慈悲な観客の視線に混ざる。さながら、聖女から魔女へと身をやつした相手を取り囲むように。
聖女候補として祭り上げられたこと。
用意された文言を持たされたこと。
王太子側にも聖堂側にも都合よく扱われたこと。
たしかにそれらは彼女以外の意思によって導かれた結果だとしても、リオネが一度も選ばなかったのかと聞かれたら、きっとそうではない。
(あなたは、多くの人によって助けられてきた…それは楽なことじゃなかったのでしょう。しかし)
リオネ自身も苦しんだとはいえ、責任が消えるわけじゃない。
むしろ聖女だからこそ正しくあることが求められ、その中で彼女は自分で考え、より良い道を選ぶ必要があった。
だけど、リオネは…純朴かつ善良であっても、弱すぎた。そう思ってしまう自分の冷たさを否定できなくて、私はただ、ラフィーにそれを見透かされないことを願った。私もまた、弱かったのだ。
「補助文を用いず、本人の確認として答えなさい。あなたは、学園内でルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン公爵家令嬢から、不当に圧迫されたと確認しますか」
聖堂次席の問いかけに、リオネの喉が小さく動いた。けれど、今は水差しを運ぶ人もいてくれない。
彼女を待ち受けるのは、白い卓で輝く誓約文の光。私とラフィーの紋章の光は、今もなおそれとつながっていた。
「……私は」
リオネはようやく立ち上がった。
白い衣の胸元には、銀の小さな飾りが留められている。聖女候補の標章、彼女の善性を表すように美しい。
だからこそ、今の彼女には少しだけ重そうに見えた。
「私は、ルミアリエル様が怖かったです」
光が動く。そして、通った。
大広間の上段に届くかどうか危ういほどの細い声が、私たちにも届く。
聖堂次席は急かさず、記録官も神妙に筆を構える。
「廊下で注意されたときも、提出物のことを言われたときも、私は……自分が責められていると思いました。声が冷たくて、目がまっすぐで、逃げられないと思って」
その言葉も通る。同時に、私の胸の奥がちくりと痛んだ。
しかし、それを否定しない。あの光が受け入れたように、彼女から見た私は、間違いなく怖かったのだろう。そして、冷たかったのだろう。
何より、彼女に逃げることを許さなかった。聖女候補として認めた上で、強くあって欲しかった。
私のこの感じ方もまた、自分勝手だったのだろう…今になって、悪役令嬢という謗りの否定が難しく感じた。
「でも」
リオネの声が、そこで途切れた。
彼女は両手を胸の前で握りしめる。それは神に祈りを捧げる聖女そのものに見えた。
そう見えるには遅すぎても、私は彼女がようやく聖女になれた気がした。
「不当に圧迫されたか、と聞かれたら……わかりません」
広間の空気が少しだけ張りつめる。光は止まらなかった。
わからない。その曖昧さを含む言葉こそが、彼女本人の言葉だった。
「わからない、とは?」
聖堂次席が問う。問い詰めるというよりは、わずかに聞きあぐねているような、判断に迷った様子に見えた。
リオネは唇を噛んで、それから自分の足下を見ながら続けた。
「怖かったかどうかと、悪いことをされたのかどうかが、同じなのか……わからないのです」
私は、思わず息を吸った。
きれいな告白とは言えない。強い反省にも見えず、物語になるような劇的な謝罪でもない。
けれど、リオネの言葉だとわかった。そんな彼女と向き合うのは、想像できなかったほど重かった。
…わたくしもまた、逃げていたのですね。
「私は、誰かに“大丈夫”と言ってほしかったのだと思います。自分で考えるのが怖くて、誰かが説明してくれるなら、その説明に頷いてしまいました。ルミアリエル様が怖いと周りが言えば、怖かったことを、そのまま悪いことにしていい気がしました……本当に、何も考えていなかった」
懺悔のような言葉に、誓約の光は頷くように揺らめいた。
震える声のまま、リオネは止まらない。
「王太子様が、君は悪くないと言ってくださいました。聖堂の方も、混乱しなくていいと言ってくださいました。私は、そのほうが楽でした。自分が何を見たのか、何を聞いたのか……考えなくてよかったから」
そこでオレオンの表情が、わずかに変化した。
不快、といえるほどのものではない。それでも聖女候補が自分の名前を口にするとは思っていなかったのか、伏兵に驚いたような顔だった。
「だから私は、何もしなかった……のだと思います。そしてそれを、今日まで続けてしまった」
白い衣の胸元で、銀の飾りがもう一度揺れた。
「怖いと言うだけで、誰かが私の代わりに怒ってくれました。わからないと言えば、誰かが答えを作ってくれました。泣けば……私はそれ以上説明しなくてよかった」
光は、やはり通した。その度に、リオネの顔は青ざめていく。
本当の言葉を吐くほど、罪が深まると思っているように。
「だから」
リオネは小さく震えながらも、ようやく私を見てくれた。
私はそれに対して頷くことも、かぶりを振ることもできない。
私にとってはその態度こそが『対等』と呼べるものだけれど、彼女は理解してくれたのだろうか?
リオネの喉が、声にならない祈りを飲み込むように震える。
それでも彼女は、誰かの紙ではなく、自分の息で言葉を作った。
「私は。無罪では、ありません」
広間が息を呑んだ。あのガガルドですら、表情筋をぴくりと動かしていた。
その強い言葉に光は一瞬揺れて、誓約の力ですら通るか拒むかを決めかねているように見えた。
「聖女候補。罪という言葉の範囲を明確に」
聖堂次席は、罪を認めてもなお静かな声音のままだった。
リオネはそれに目を閉じて、か細い返事をしてから続きを懺悔する。
「私は、誰かを陥れようとはしていません。嘘をつこうとしたのでもありません。でも、怖いままでいることに甘えて、誰かが作ってくれた言葉に隠れました。自分の言葉ではないものを、自分を守るために使おうとしました……あの人のように、誰かを守るためには使えませんでした」
今度こそ、光は通した。同時に、私は胸の奥に重しが増えたような感覚に陥る。
無罪ではない。けれど、悪人でもない。
それは片方だけ持つよりも、よっぽど残酷なことだった。しかし、片方だけ持たせれば…彼女はまた、象徴として利用されるだろう。
悲劇の聖女として被害者になるか、厄災の魔女として加害者になるか。
どちらに転ばされたとしても、それはリオネ本人にはなれなかった。
「記録を」
聖堂次席が言うと、記録官の筆は重くも動いた。
『聖女候補本人、圧迫の不当性について判断不能と確認』
『補助文言への依存、および自己確認の放棄を認める』
聖女相手に向けられたとは思えない乾き切った文言が、白い紙に連なる。
リオネは記録内容を聞いて、小さく震えた。その姿は何度も見てきて、その度に私は『怖い』と言われるような態度で接してきた。
そして今日、私は。もう一度、一歩前へと出ていた。
その小さな一歩は、制止した空間の中で、リオネへ向けられていた視線の一部を自分へと集めるだけの力はあるようだった。
(…わたくしは、やはり変わってしまったようです。笑いますか、それとも見下げますか? ラフィー)
この場においての余計な動きは、庇ったと見なされる。それは決して、リオネのためにならない。
「ルミアリエル。聖女に対し、慈悲をかけるつもりか」
オレオンの声が飛んでくる。しかし、もうそちらに振り向くこともない。
だから、はっきりとした声で返事をした。
「いいえ。わたくしは断罪する立場にありません」
そうだ、私が動いてもリオネは無罪にはならない。
もちろん、責任を覆い隠すつもりもない。それをすれば、私はラフィーや屋敷のみんなに背くことになる。
何より、ようやく本人の言葉を出せた少女を、見せ物にしていいはずがなかった。
「記録はそのままで結構です。聖女候補本人の依存と沈黙は、記録から消すべきではありません」
今度はリオネが息を呑んだ。
私はその表情を確認せず、ただ白い卓の光だけを見ていた。
「ですが、それをもって、彼女一人へすべての責任を戻すことも認めません。補助文の作成者、証言順の設計者、彼女を象徴として固定した者、それぞれの責任が別にあります」
私の紋章の光が、細く強くなる。フルーレの切っ先のように、鋭くも人を傷つけない、ただ正しさを決するための刃めいて。
「未熟であったことは、利用してよい理由ではありません。利用されたことは、何も選ばなかった責任を消す理由ではありません。聖女候補が無罪ではないのなら、彼女に罪を重ねさせた周囲の人間も相応の責任を取ることを願います」
言い切ったあとに気付いた。
これは以前の私であれば、もっと冷たく、何より硬く言い放っていたはずだった。
(…ラフィー。あなたならそう言ったのでしょう? わたくしも甘くなったものですわね)
しかし。そんな自分を、嫌うこともできなかった。
彼女の責任は消せない。けれど、彼女を切り捨てさせることもしない。
その面倒極まりない立ち位置に自ら立つ私は、きっとこう胸を張れる。
それこそがヴァルドシュタイン、そして“ルミア”なのだと。
背後で、ラフィーが紙を押さえる指先に、ほんの少しだけ力を込めた気配がした。
止めない。否定しない。ただ、そこにいる。
私は悪役の仮面を外したわけじゃない。でも、少しだけその仮面をずらし、リオネと視線を交わすことができた気がした。
「……ヴァルドシュタイン公爵家令嬢の発言を、責任分離の要求として記録」
筆は動いた。やっぱり、その記録は乾いていた。
けれど、それはインクを紙へと根付かせるために必要な乾きだった。
聖堂側、保守派、学園関係者、評議会席、それぞれの思惑が聖女の未熟さと今後を値踏みしている。
誰も拍手をせず、誰もリオネを慮らない。
そんな場においては、紙に記される事実こそが救いだろうから。
「…リオネ様」
リオネのほうを見る。彼女は私の少し後ろに立っていた。
それは図らずも、私が完全には庇っていないような立ち位置だった。
そのまま、言葉だけを渡す。
「あなたの言葉は、あなただけのものです。次からは…誰の紙にも書かせてはいけません」
ビクッと震えられた。前の私であれば、ここで終わりだった。
だから一拍だけ置いて、続ける。
「怖いときは、怖いと言ってください。わからないなら、わからないと言ってください。それは弱さかもしれない、けれど…他人の言葉で自分を守るよりもずっと、責任のある弱さです。そしてそれは、いつか強さになると信じております」
伏せられていたリオネの目が、大きく開いた。
ペールアクアの花が、ようやく満開を迎えたように。
「……はいっ」
小さな返事だった。誓約の光はそれを照らすように、弱々しくもリオネの返事を通した。
リオネは胸元の銀飾りに触れた。
外すことはしなかった。ただ、もうそれに引かれて歩くのではなく、自分の足で一歩を選ぶように。
私はゆっくりと、けれども力を込めて歩いていくリオネを見送る。
(…これで終わりならよかったのですが。議題はまだある…)
ガガルドがすでにリオネではなく評議会の面々を見据えていることからも、議題は次へと移っていた。
次に処理されるべきは、感情ではなく制度。
「聖女候補本人の確認は記録されました。以後、本件は証言作成過程、王家側関与、聖堂側補助文言の運用責任、および王太子権限の扱いへ移行します」
聖堂次席は一段と深まった疲労を噛み殺すように、よりゆっくりと告げる。
私はその言葉に一歩下がり、ラフィーがいる半歩後ろへと近づく。
ラフィーは予定調和であるかのように、何も言わなかった。ただ、手元の書類を次のものへと置き換える。
王太子の処分。評議会。権限の停止と監督。
書類に並ぶ言葉は、勧善懲悪の物語からはほど遠い、凍りつくような制度の名前をしていた。
白い卓の光も、まだ消えてはいない。その役割が続くことを知っているかのように。
そして金の照明の下で、王太子席へ向かう視線が、静かに集まり始めていた。




