第41話「当事者の帰結」
記録官の筆音だけが、大広間に時を刻んでいた。
白い卓の上では、受け入れられた言葉と拒まれた言葉が分けられていく。その相手の顔色を窺わない線引きが、一つの物語をばらばらの紙片へと戻していく。
私が悪役と呼ばれるほど厳格だったこと。
聖女候補であるリオネが不安を示したこと。
王太子の側近たちが、その意向に沿う形で学園内の状況を整理したこと。
それらを物語として結びつけていた見えない意図が、誓約の光に触れるたび切れていくようだった。
証言順の一覧は記録官が何度も参照したせいか、紙の角に小さな折れができている。そこに、人間の営みの生々しさを垣間見た気がした。
「次の証言者を」
聖堂次席は変わらぬ調子で口にする。顔には疲労こそ浮かんでいたものの、進行を妨げるほどではなさそうだった。
静かな声が、大広間を支配する。オレオンに主導され、観衆の期待によって紡がれてきた物語は、今や誓約文と記録を中心に回り始めていた。
学園儀礼委員、先ほどとは別の者が前に出る。彼は手元の紙を見ずに話そうとしたけれど、すぐに言葉を失った。
誓約の光が強く照らす前に、もう自分の言葉が自分のものではないと気付いたのだろう。
「私は……委員会で、ルミアリエル様の発言が場を硬くしたと報告しました」
光はその言葉を通す。彼は小さく息を吸った。
そこに、安堵は見られない。
「ですが、その報告書の末尾にある“聖女候補への圧迫”という表現は、私が書いたものではありません」
広間の空気がわずかに動く。それは期待からではなく、不安が先行しているように思えた。
記録官は筆を止め、聖堂次席が問う。
「では、誰が追記を?」
その問いかけに、彼は応じる代わりに側近の列へ視線を向けた。それは一瞬の出来事だったけれど、失態だと気付くには十分な時間が流れていた。
「……提出前の確認で、文言が整えられました」
白い卓の上にある光が、弱く通っていった。
整えられた。また、その言葉。
虚偽ではないと言い張れる範囲で印象を同じ方向へ向け、責任を薄めながら結論だけを調えるやり方だ。
その手つきが一つの証言ではなく、複数の書類に残されている。誓約の光は、それを曖昧にはしなかった。
ラフィーは半歩後ろで紙を動かし、手帳から抜いた写しを白い卓へ差し出す。その手つきは、やましいことがない人間特有の誠実さに満ちていた。
「学園儀礼委員会の初稿控えです。末尾の追記部分は、提出版と筆跡が異なります。こちらはレイナ様が保管していた受領控えと照合済みです」
レイナの名前が出た瞬間、私はほんのわずかに呼吸を忘れた。
彼女は後方で書類箱を持ったまま、なんの自己主張もせずに立っている。大広間の中心に歩み出ることはないのに、屋敷で守られてきた控えが白い卓へ届いていた。
(…レイナはわたくしの弱さを知る、家庭側の証人。けれど今は、感情ではなく紙の所在を証明する存在になってくれた)
胸の奥に熱が生まれる。ヴァルドシュタインの人間として生まれてよかった、そう思えたのは人生で何度目だろうか。
そうした私個人の感慨とは裏腹に、記録官は初稿控えを淡々と受け取った。筆跡、追記、提出時刻、受領印。それらを粛々と並べるほど、証言の形はさらに崩れていくようだった。
「次」
聖堂次席は続ける。
一人、また一人。同じことが繰り返される。
「ルミアリエル様は、再確認を求めておられました」
「言っていることは正しいのですが、あまりにも厳格に聞こえます」
「学園内では、よい噂がありません」
誰も、すべてを嘘とは言わない。むしろ、最初の事実だけは通っている。
「ルミアリエル様は意図して不安を作ったのでは」
「聖女様を追いつめるために動いたように見えて」
「王太子様が公平に介入してくださって」
しかし、その先が通らない。
思い描いていた物語へ繋げようとする橋だけが、白い卓の前で沈黙に落ちる。誓約の光は決して声を発することはないけれど、意図的に整えられていた形を暴いていった。
やがて証言者たちは手元の紙を置き、それを読み上げることを諦めた。自分の言葉として持てない紙は、あの光の前では重すぎたのだろう。
「……」
それでもオレオンは、ずっと立っていた。
整った目元は笑みの形を保っていたけれど、それは広間に向けたものではなく、ただ表情と秩序を崩さないためだけに置かれているように見えた。
側近の列では、誰かが視線を伏せる。先ほどまで同じ方向を向いていた靴先が、わずかにばらけていた。
「殿下。王太子側近による文言調整、および証言の統一について、王家側の見解を伺います」
その様子に聖堂次席は若干の恐縮を抱きつつも、中立であろうとするように問いかける。
大広間は静まり返る。誰もが身じろぎをやめ、誓約の光だけが照らし続けた。
オレオンは証言順の一覧を一度だけ見下ろし、すぐに顔を上げる。
それは敗北を認めたというには、あまりにもまっすぐだった。
「祖先から受け継がれた、未来永劫に続く秩序のためだ」
その声もまた、驚くほど平坦だった。同時に、私の紋章はその言葉に嘘偽りがないことを、かすかな痛みでもって知らせた。
怒りでも弁明でもない。本当に、それだけが答えだと信じている声音だった。
「未熟な者たちは、事実をそのまま扱うことができない。学園で起きた混乱は、放置すれば家同士の対立となり、聖堂を巻き込み、王家の信頼を損なっただろう。だから私は、散らばった不安を一つの形に整えた」
(散らばった不安、一つの形…光は反応しない)
今のオレオンは、自分の信じる範囲だけを話していた。
それはともすれば独裁者のような一面をはらみ、一部の聴衆は恐怖の表情を消せなかった。私ですら、息を呑む。
「ルミアリエルは有能だ。厳格で、愚直で、規律を守る。だからこそ、民や学園の未熟な感情をそのまま浴びせれば、混乱は増す。彼女を一度、責任の中心へ置く必要があった。そして理解してくれることを願った」
私の名前は、まるで駒の一つであるように置かれた。いいや、実際に手駒だと思っていたのだろう。
有能、厳格、愚直。どれも褒め言葉の形をしていたのに、私の意思は存在していなかった。彼にとっての私はチェスの盤面にある駒でしかなく、これからの一手にふさわしいか、敵の手駒なのか。そんなふうにしか評価されていなかった。
わかっていたこととはいえ、改めて受け止めると心が凍りつく。そんな私の紋章へ、ラフィーの光が寄り添っていた。
「そして、聖女候補は象徴だ。象徴は揺らいではならない。王家の婚約者である君が秩序のために重さを引き受け、侯爵家令嬢がそれを補佐する。それで均衡は保てた」
半歩後ろで、ラフィーの気配が変わる。それは以前、『俗物め』とつぶやいたときのものに似ていた。
単なる怒りとしては静かで、けれども温度が高いもの。
あえて言葉を選ばないなら、明確な“敵意”であるようにすら感じた。
オレオンはそちらを見ず、続ける。
「私は私情で動いたのではない。王国の安定のために、最も耐えられる者へ重さを置いた。それが統治というものだ」
白い卓の光は消えない。でも、私にはそれが承認には見えなかった。
通っているのは、彼の信念だけだ。
オレオンは秩序のため、常に誰を切るべきかを考えていた。
私も秩序を守りたい。けれど、誰が切られてしまうのかを恐れていた。
同じ制度を見ていても、視線の先が違う。
「…殿下」
だからこそ、その違いは決定的だった。
自分の紋章の光に導かれるがまま、婚約者だった男性へ口を開く。
ラフィーが放つ琥珀の光も、私の言葉へ寄り添うように誓約文へと伸びていた。
「あなたは…わたくしなら耐えられると、本当にお考えになったのですか?」
責めるような響きにはなっていないつもりだった。
現に、オレオンは平然とこちらを見る。すぐ後ろで、ラフィーの気配の鋭さが増した。
「君は耐えただろう。これまでも、そしてこれからも」
短い答えだった。その飾り気のなさに、ある種の信頼を見いだす者もいるかもしれない。
しかし、広間に息を呑むような音が広がる。それが答えなのだろう。
私は傷つかなかった。いいや、傷つくにはあまりにも遅すぎた。
感傷に浸る段階は、もう越えてしまっている。
だから、返す言葉はするりと出てきた。フェンシングにて、有効打を突きつけるように。
「耐えたことは、置いてよい理由にはなりません。ましてや、本人たちの意思をすべて切り捨てていいわけでもありません」
誓約の光が、頷くように揺れた。
私の言葉は、受け入れられたのだ。光に選ばれたからではなく、責任を持って口にした言葉が、この場に耐えたから。
「聖女候補が未熟であることは、本人の言葉を奪う理由にはなりません。学園の不安が散らばっていたことは、誰か一人へ形を押しつける理由にはなりません。王家の信頼が揺らぐことは、記録を整え替える理由にはなりません…それこそが信頼を損なう行為です」
長く話すべきじゃない。今度こそ、私情を制度へと戻すために、言わなくてはならないことを選ぶ。
「わたくしは、あなたを罰したいのではありません。二度と、誰かが“耐えられるから”という理由で重さを置かれないようにしたいのです」
「では、何を求める?」
オレオンの目が細まった。
今さら、躊躇しない。
「責任の所在を明らかにすること。証言の作成過程を記録すること。聖女候補本人の発言を、補助文から切り離して改めて確認すること。そして今後、象徴や婚約者や補佐という役割を理由に、本人の意思を代替できないと明文化することです」
広間は静かだった。
それを同意だと見なし、続ける。私も随分と図太くなれた。
「わたくしたちが戻すべきものは、物語の筋書きではありません。記録と責任です。以上が、わたくしの希望です」
華やかな勝利からはほど遠い、淡々とした結末だった。
そこでようやく、ガガルドが身じろぎした。その双眸は私たちではなく、卓上の紙を見ている。
どちらが国益のために利用できるか。それだけを値踏みしている目だった。
(…不愉快な男。けれど、制度とはきっと、こういう人間も動かして初めて変わるのでしょう)
優しい人々だけでは制度は動かない。それをいやというほど見てきた私は、すっかり荒んでしまったのかもしれない。
「…随分と寛大だな。私を弾劾しないのか?」
オレオンがいくぶんか低くなった声で尋ねる。
彼は今もなお王家の人間なのだ。拒否する理由なんていくらでも作れる。
だとしてもそう口にする彼は、自分なりの公平さを持ち合わせていたのかもしれない。
「弾劾は、わたくし一人の感情で決めるものではありません。いいえ、誰の感情であっても揺るがせてはなりません。ゆえにあなたが何をしたのかを、まず記録へ戻します。その上で、評議会と王家が扱うべきです」
「……最後まで正しさの形にこだわるのだな、ルミアリエル」
初めてオレオンの声に苛立ちが混ざった。
怖くはなかったけれど、思わず「そんな声も出せるんですのね」と驚きたくなった。
「それはおまえを苦しめるぞ、これからも」
「理解しております」
思い当たる節が多すぎるので、認めるしかなかった。
「ですが、自分が苦しいからといって正しさを曲げることも、その苦しさを他人に押し付けていい理由にもなりません」
そのとき、後ろの光が少しだけ強くなる。ラフィーの紋章だ。
(そう。あなたも同じですのね)
振り向かずに、心の中でだけ頷く。
その静かながらも熱い視線に、背中を押された。
彼女もまた、誰かを守るための正しさを選んだのだ。
「ヴァルドシュタイン公爵家令嬢の要求を、誓約確認後の処理項目として記録」
聖堂次席が記録官へと頷き、筆が走る。
「王家側の文言調整については、証言作成過程の確認対象とする」
オレオンはずっと黙っていた。きっと、自分の中の正しさを捨てていないのだろう。
オレオンの胸元にある王家の徽章は、変わらず金を帯びている。けれど、その光は広間を支えるにはあまりにも薄かった。
物語から始まった断罪は、制度の帰結を迎えようとしていた。
「残る確認があります。聖女候補リオネ・ヴィオレッタ・ド・グレイヴ。補助文を用いず、本人の確認として答えなさい」
聖堂次席の言葉に、すべての視線が白い衣の少女へ集まる。
リオネは小さくなっていた。元々小柄な体は、吹けば飛ぶように儚い。
それでも彼女は先ほどまで握りしめていた紙を手放し、震えながら立ち上がろうとしていた。
(…リオネ…)
まだ終わりではないことに、胸が痛む。
オレオンの舞台を崩したとしても、リオネがそのまま救われるわけじゃない。
彼女が利用されたことと、何も選ばずに置かれ続けたことは、同じではない。
リオネが私を見る。私も見つめ返す。
庇うことはしない。でも、責めるつもりは毛頭なかった。
彼女が象徴ではなく、リオネとして立つことを願うように。
そして開かれた口から、ようやく彼女の言葉が紡がれた。




