第39話「手続きの剣」
「では、次に聖女候補本人の確認へ移る。リオネ」
オレオンの声が、大広間の白い床を滑る。その言葉を投げかけられたリオネは、ゆっくりと立ち上がった。
白い衣の裾が、膝の辺りでわずかに揺れている。それは純白のオーロラみたいに美しかったけれど、私には彼女の震えが布へと伝わったように見えた。
そんな彼女を慮るでもなく、聖堂補助役がすぐ横へ移動し、折り目の新しい紙を差し出す。リオネは自分へ押し付けられる役目を、やっぱり拒否できなかった。
(卓上の誓約文は、静かに光を返している…まだ紋章は反応しませんのね)
息を吸う。偽りを許さぬ蜃気楼のような存在は、誰の真実を現世へと降臨させるのか。
怖さはある。それでも、口元は安易に開かない。
大広間の高い席から落ちてくる視線。整えられた証言。
リオネの白い顔。半歩後ろのラフィーの気配。
それらは間違いなく恐怖を駆り立てる。それでも、ほんのわずかな心強さが、この悪趣味なショーの中で戦い続ける理由になってくれた。
ここで聖女候補を助けるために口を挟めば、誓約の恐怖に耐えかねた悪役として私の名が記録される。聖女候補を守りたいのではなく、断罪を避けたとの謗りを受けるだろう。
誰も救えぬまま、私を待ってくれている人たちまで汚泥にまみれさせる。
だからその瞬間が訪れるまでの時間は、永遠のように長く感じた。それでも時計の針は止まらないように、私は剣を抜くタイミングがたしかに見えた。
「お待ちください」
自分の声とは思えないほど、それは低く響いていた。
広間の空気が止まる。リオネの手は、紙を持ったまま固まった。
オレオンがこちらを見る。制することはなくとも、「まだ余計なことを言うのか?」という意思が見え隠れしている冷たいまなざしだ。
王族席、評議会、聖堂、学園関係者、証言者たちも同じ。そんな聴衆に対し、私は礼を崩さずに続けた。
「正式な手順を踏んでいただきたいのです」
それだけだった。
正しいと信じて押し付けるのではなく、間違っていると憤慨して切り払うのでもない。
悪役令嬢としては弱く見える嘆願に、オレオンの表情は変わらなかった。
「ルミアリエル。今まさに、正式な確認を進めている。どのような了見だ?」
「だからこそです」
誓約文の原本へと視線を落とし、呼吸を乱さず続ける。
まともにオレオンと言葉を交わしたのは、久しぶりな気がした。
「聖女候補本人の確認を誓約へ接続する前に、証言の性質、記録の根拠、呼び出し順、および使用する誓約文の確認が必要ですわ」
ざわめきは起こらなかった。感情に任せた物語に熱中していた人々は、その意味を飲み込むのに時間が必要なのだろう。
だから私は短く、感情を挟まずに伝える。長々と意見を述べれば、気持ちの問題へと引き戻されるだろうから。
「誓約は怒りでは起動しません。形式が揃って初めて、言葉は責任を持ちます」
「具体的には何を求める?」
オレオンの追求は圧が弱く、まだ責め立てると言うほどではない。
自分の紋章に意識を振り分ける。まだ熱を持っていない。
それでいい。今は光らせる必要はない。真実の光で周囲を照らすのなら、そのための条件を整えなくてはならないのだから。
記録官は筆を持ったままこちらを見ており、聖堂側の次席はわずかに体を起こす。ガガルドは、やはり無表情に成り行きを眺めていた。
「第一に、これまでの証言を、印象証言と事実証言に分けて記録すること。第二に、各証言について、日時、場所、関係者、提出済み記録の有無を明示すること」
ラフィーの筆がすぐ後ろで動く。その音は、この場の誰よりも真実に近づく足音だった。
それが私に勇気を与える。
「第三に、聖女候補本人の発言が、事前に用意された文言によるものか、本人の自由な確認かを明らかにすること。補助役から渡された紙は、本人の証言として扱う前に、作成者と配布時刻を記録してください。誓約の場において、“与えられた真実”だけでは約定としては足りません」
そこで、聖堂補助役の指が紙の端を強く握った。リオネが小さく息を呑む。
聖女候補がどんな感情で私の提案を聞いているのか、想像はしないでおいた。ここで彼女を気にかける様子を見せたら、「聖女に恩を売った」とでも思われるのが関の山だろう。
そうじゃない。ただ、私は。
誰か一人を中央へと釘付けにして、その人の言葉を奪う形式を止めたかった。
「第四に、本日の誓約文が公開確認用の標準書式であるか、個別案件用に修正されたものかを確認します。修正がある場合、修正者、承認者、承認時刻を記録に加えてください」
そこでようやく、広間の空気が明確に揺れた。
先ほどまでリオネだけを見ていた者たちの視線が、初めて白い卓の紙へ落ちる。
物語に加担していた証言者たちは、自分がしたことを思い出したように姿勢を正す。
学園関係者の列では、行き場のない視線が隣へ送られた。
聖堂側の補助役は、口を開きかけて閉じた。
私の言葉がただの反論であれば、切って捨てることも簡単だったろう。しかし、今の意見は「正式な儀礼なら正式に行え」と言ったまでだ。
ショーとして楽しむ断罪から、処理すべき案件へ。その変化は、ずっと私が求めていたものだった。
「随分と細かいな」
オレオンの余裕は崩れていない。
ただ、観衆へ向ける言葉の温度が下がっていた。
「この場は、王国の秩序を守るための事実確認だ。細部に拘泥して、聖女候補の負担を増やすつもりか」
リオネの名が出た瞬間、いくつもの視線が再び彼女へと集まる。未熟な聖女候補は、紙を胸の前で握りしめていた。
(…違います。あなたは、責められていません)
それを見ていると胸が痛む。同時に、その様子を把握してもなお象徴として利用するオレオンに対し、小さくない失望を覚えてしまった。
「負担を増やさないために、手順を求めているのです。形式が不十分なまま聖女候補を誓約へ立たせれば、後にその言葉の責任だけが本人へ戻ります」
沈痛、失望、義憤。
一言では説明できなくなった感情を、論理的な言葉でねじ伏せる。
「補助役の文言なのか、本人の確認なのか、記録官の分類なのか、質問者の誘導なのか。それを分けないまま進めることこそ、負担です」
そこで初めて、リオネが私を見た。
怯えの奥に、小さな光が揺れている。理解でなくてもいい。救いでなくてもいい。
ただ、彼女一人に責任を背負わせない。
そのために、私は手順を求めている。
「…記録官。ヴァルドシュタイン公爵家令嬢の要求は、誓約前確認として妥当です。少なくとも、使用書式と証言分類は明示すべきでしょう」
聖堂側の次席が口を開く。その一言は、広間を押しつぶす重みを少し変えた。
聖堂側の顔を見るに、完全にこちら側へついたとは思えない。けれど、誓約の形式に関する話になれば、王太子側だけで押し切ることはできないと理解したのだろう。
オレオンの右目がわずかに細まった。
「当然、手続きは尊重しよう…記録官、分類を」
「はっ」
穏やかだった声に少しだけ力がこもり、記録官も背を伸ばして用紙を並べ替える。
その様子に、ようやく順番が変わった気がした。たったそれだけのことでも、観衆が見ていた断罪の舞台が変化していく。
「こちらを」
やわらいだ空気の合間を縫うように、ラフィーが一枚の紙を差し出してきた。
それは私にではなく、記録官へ向けられていた。
「学園側の受領記録写しです。提出物管理補助の証言に関わる部分のみ、時系列で抜粋しております」
記録官はやや恐縮しながら受け取ろうとしたけれど、オレオンだけがその様子を捉えていた。
「列席補佐。今は聖女候補本人の確認へ移るところだったはずだが」
「はい」
ラフィーは穏やかに、でも悪びれず頷く。
そのオレオンを真似るような声音と態度に強烈な意趣返しを感じ取れるのは、おそらく私とレイナだけだろう。
「ですので、先ほどの証言分類に必要な補助資料のみ提出いたします。提出物管理補助の証言が、後の質問文に前提として組み込まれておりますので」
前提、という言葉に記録官の筆がまた止まった。
「証言順の一覧では、提出物管理補助の記録が、聖女候補の不安の根拠として扱われています。しかし受領記録上、問題の提出物はルミアリエル様本人の確認前に管理室へ移されており、紛失時刻と指摘時刻が逆転しています」
広間のどこかで、椅子が小さく軋む音が聞こえた。まるで、身に覚えがある人間が足を滑らせたように。
声を荒げないラフィーはいつも通り柔らかだったのに、その柔らかさの使い方が違っていた。
場を丸めるためではなく、刃を布で包み、「わたしに刃を抜かせるおつもりですか?」とでも言いたげな…迂遠でしたたかな柔らかさだった。
「そのため、聖女候補の不安がどの事実に基づくものかを確認する前に、時系列の整理が必要です。どうぞ、こちらを」
記録官はラフィーが差し出した受領記録の写しを受け取り、白い卓の上へ新しい紙が広がる。
受領記録、時刻、管理室印、立会人の署名…どれも派手な証拠ではなく、かつては私たちを苦しめた紙だったのに。
彼女が積み重ねてきたものは、ついに相手の逃げ道を塞ごうとしていた。
オレオンはなおも取り乱すことはなく、その様子に私は婚約者の意図を察する。
(秩序を語る者が、秩序を正す紙に苛立つ姿を見せるわけにはいかない…あなたはあなたらしいままですのね)
そうした一面に意気投合できていれば、私は今日、ここに立っていなかったのかもしれない。
「確認しよう。ただし、儀礼の流れを止めすぎることは望ましくない」
「流れがどこから来ているのか、それを確認しているだけです。すべては誓約の光が照らすままに」
ようやく出てきたオレオンの言葉に、次は私が答える。
その言葉もまた、わずかに評議会席の空気を動かした。もちろん、意識していないふりをする。
まだ舞台は相手のもので、ここで浮かれて勝ちを拾いに行ってはいけない。オレオンはそれを許してくれるほど、甘い人ではないのだから。
「では、聖女候補本人の確認は、証言分類と受領記録の照合後に行う。その間、先に誓約文の書式確認へ移る。異論はないな?」
よく整った声だ。まるで「当初の順番通りだ」と言いたげであるように。
けれど、リオネはまだ誓約台に立たされていない。彼女の手の中にある紙は、まだ本人の言葉として固定されていない。
それだけの差でも、相手の脚本通りではなかった。
「誓約文を」
記録官が原本を開く。白い紙の上に、黒い文言が並んでいた。
公開確認用標準書式。その欄に、細い追記がある。
「追記がありますね」
ラフィーは私と同じ場所を見ていたようで、はっきりとした声で伝えてくる。
記録官が一瞬、言葉を詰まらせた。
「案件固有の確認文です」
「修正者と承認時刻は」
「王城儀礼局の承認印がございます」
「承認者名と時刻を記録へ」
記録官は、一瞬だけオレオンを見た。
予定していた流れであれば、記録官は王族席を見る必要はないはず。
オレオンは平静を保ったまま、静かに頷いた。記録官の筆が動く。白い卓の上で、相手が見せるつもりのなかった小さな糸が、一本ずつ紙へ縫い止められていく。
「ラフィー。任せます」
「はい、承りました」
今だ。ただ漠然と確信した。
振り向かずに声を向けると、すぐに返事が届く。それは私の要求を理解しているかのように、なんのよどみもなかった。
そう、これは…私が降りるための言葉じゃない。同じ戦場において、彼女が振るう太刀筋を信じるためのものだった。
「こちらは誓約必要書式の照合表です。標準書式と本日の案件固有追記の差分、ならびに証言分類との接続箇所を示しております」
感情で濡れた広間へ、乾いた言葉が落ちていく。けれど、それこそがこの場に必要なものだった。
記録官が照合表を受け取る。聖堂側の次席が身を乗り出す。評議会席の一人が隣へ低く何かを囁く。
断罪のために集められた視線が、ようやく舞台装置そのものへ向き始めた頃、銀枠の板がかすかに鳴る。その低い響きに、また広間は静まった。誓約文の原本の端に、ごく薄い光が走る。それは始まりの前の熱みたいだった。
誓約は、たしかに起動しようとしていた。




