第38話「断罪の開幕」
白薔薇に彩られた大広間の扉は、近づくほど邪悪とは無縁の白さに見えた。
磨かれた石の廊下に、私とラフィー、それから書類箱を持つレイナの足音が重なる。昨日の灰色の通達どおり、ラフィーは半歩後ろにいた。隣ではない。
…紙の上では。だから私は、振り向かなかった。
振り向けば確認になる。確認すれば、相手の決めた距離を一度認めることになる。だから前を見る。
彼女はいつも、そこにいるのだから。
袖の内側では、レイナが昨夜替えた紋章留めの布が肌に触れていた。歩くたび、そこだけが私を儀礼の部品ではなく、生きた身体へ戻してくれる。
「ヴァルドシュタイン公爵家令嬢、ルミアリエル様。ならびに列席補佐、アストレア侯爵家令嬢ラフィエラ様」
案内役が扉の前で止まった。名を呼ばれる。
その順番も肩書きも、すでに決められている。私は一度だけ息を吸った。
扉が開き、光が押し寄せる。朝の光のようにさわやかなものではなく、金の燭台と高窓から落ちる白い光が床で混ざり合い、大広間の中央だけを不自然なまでに明るくしていた。
その奥、前方には白い卓が置かれていた。誓約文を置き、証言を受け、今日この場で誰の言葉が残るのかを決めるための場所。
(あれが、今日の決闘場)
剣はない。公平な審判もいない。ただ、紙の上へ名を載せられた者だけが、深く傷を負う。
広間の席は、階段状に高くなっていた。
正面の王族席は最も高く、左右に評議会と聖堂、下段へ保守派の家々、学園関係者、証言者の待機席が並ぶ。
学園でのギャラリーとは違い、誰もが大人としての沈黙をまとっている。断罪される人間を見逃すまいとする、不躾な視線だ。
「息苦しくて背筋が伸びそうですね」
「はっきり言いますのね。気に入りました」
少し後ろから、ラフィーの率直な感想が聞こえる。私もまた咎めることなく、その剛毅さを評価した。
少なくともここには、私を悪役と呼ぶ声はなかった。代わりに、それに相当する場所へと無言で歩かせる。
悪役以外の役割を与えられても、求められていることは変わりなさそうだった。
「お進みください」
案内役の言葉に頷き、中央の導線に従って歩く。視線が集まった。
好奇、警戒、期待、同情、勝ち負けを見届けようとする冷えた興奮。一人なら、到着前に潰されていたかもしれない。
(…リオネ。かわいそうとは思いません、あなたもわたくしも置かれた立場があります。でも…)
私に向く視線の中で、明らかに異質な…まるで救いを求めるような弱さを含むものがあった。リオネだ。
聖堂補助列の端、白い衣に包まれて座っている。中央固定からは外れたはずなのに、角度のせいでよく見える場所だった。膝の上で指を握りしめ、視線が合うと目を伏せる。
逃げるための判断力も、立ち向かうための強さも、今の彼女にはない。ただ、与えられた場所で震えている。責める気にはなれない。けれど、その沈黙を正しさと呼ぶことも、私にはできなかった。
ただ。わずかな感傷を抱いてしまうあたり、私もラフィーに毒されているのかもしれない。
そのラフィーもリオネのほうを見たけれど、私と同じように表向きはなんの感情も出さなかった。
「来ますね」
「ええ。睨まないように」
指定された位置に立つ。思ったよりも近い位置にある白い卓は年季が入っていて、眩しさに目が眩むことはなかった。
上に置かれているのは誓約文の原本、証言順の一覧、右端には記録官の砂時計。左端には、紋章反応を確認するための銀枠の板があった。
それを確認していたら、王族席の下段からオレオンが立ち上がる。ラフィーの無感情な言葉に、私は念押しだけしておいた。
「本日、この場に集まっていただいた諸卿に感謝する」
ダークアッシュの髪は乱れなく整えられ、細い目元には穏やかな笑みがある。私を前にしても怒りはなく、勝ち誇った様子もない。
ただ、これから乱れた秩序を戻そうとする、自分こそが正しいと信じている様子が…いやだった。彼と私は、婚約する前から相いれない存在だったのだろう。
「王家と諸家の信頼は、私的な感情によって揺らされてはならない。学園で生じた一連の混乱は、本来であれば若年者同士の行き違いとして収めることもできただろう」
若年者同士。行き違い。
よく通る声で、白々しい表現を口にする。青の封蝋も、操作された席次も、提出物のすり替えも、模擬裁定も、すべて未熟な人間たちの行き違いにするつもりだろうか。
「しかし、家名を背負う者の振る舞いは、個人だけのものではない。公爵家、侯爵家、聖堂、学園、そして王家。関わる名が増えた以上、我々はこれを私的な不和として処理することはできない」
その演説に、観衆の何人かが小さく頷く。それもまた、誰が正しいのかを固定する動きに見えた。
「ゆえに、本日は公開のもとで事実を確認する。誰か一人を辱めるためではない、王国の秩序を守るためだ。私は常にこの国の行く先を憂えている」
憂えている。それは本音なのだろう。だが、辱めるためではない…そればかりは信じられなかった。
白い卓の縁、私の立つ印が床に小さく映っている。王族席からも、聖堂からも、保守派の席からも、ちょうどよく見下ろせる場所だ。
辱めるための席としては十分で、さりげなく見たラフィーの顔は私の言いつけを破るように、鋭い目をオレオンへ向けていた。
(今はまだ、言葉を出す段階じゃない。自分の迂闊さで揚げ足は取らせない)
言いたいことはいくらでもある。しかし、それすら反論として処理されれば、辱めの材料を与えるだけだ。
「まずは証言を順に確認する」
オレオンは私が何も言わないのを確認し、記録官に証言順の一覧を読み上げさせた。
王太子側近。
学園儀礼委員。
提出物管理補助。
聖堂補助列。
聖女候補。
列席補佐。
ヴァルドシュタイン公爵家令嬢。
(わたくしの名前はほぼ最後、言い分を聞くだけ…そんなところですか)
順番すら物語の筋書きであることに、今さら驚かない。
だから一人目である側近が前へ出てきても、それが見知った顔であっても、予想通りでしかなかった。
学園の廊下で何度も私の前に立ち、礼儀正しい不快さで道を塞いだ人物。彼は白い卓の少し手前で礼をし、用意された質問に答え始める。
「ルミアリエル様は、学園内でしばしば厳格な指摘をなさいました」
「その指摘は、周囲にどのように受け止められていましたか」
「多くの者が萎縮しておりました。とくにリオネ様は、度々ご自身を責めておいでで」
嘘ではない。だからこそ、厄介でもあった。
私は言葉通り厳格で、リオネも自分を責めている。周囲を萎縮させたこともあった。
けれど、その理由と順序がきれいに省かれている。私とラフィーが奔走して整理したものは、完全に目を背けられていた。
ラフィーは反論しない。以前なら、こんなふうに言っていたかもしれない。
『厳格とは、手続きに対してであって人に対してではありません』
『リオネ様の自己責任感は、周囲の期待によって過剰に育てられたものです』
しかし今は沈黙していて、それに少しばかり安心できた。
火消しは逆効果、自分の非を認めるだけになる…だから私たちは、二人目、三人目と続く似通った証言を聞き続けた。
「冷静ではあったが、近寄りがたい」
「善意の者を追い詰めるように見えた」
「王太子殿下が介入しなければ、混乱はさらに広がっていたと思われる」
まるで事務処理を続けるように、画一的だけど不自然と言うほどでもない証言が揃う。
それは聴衆に『すべては勧善懲悪の物語通りだ』と安心させる力があった。異質な存在のない空間は、オレオンの理想なのだろう。
衝突も理解も、異なる者同士だからこそ生まれる。けれど彼の望む平穏には、その余地がない。
そんな息苦しい平穏の中、リオネの肩が小さく震えていた。
(聖堂補助役が、紙を差し出した…いやな予感がしますわね)
リオネはそれを見て、頷く。納得をないがしろにした様子に、ようやく胸の奥が冷えた。
本人の言葉が見つかる前に、聖女候補の御言葉だけが用意されているのだろう。
「…ラフィー」
声にするかどうか、一瞬だけ迷った。しかし、迷いが生まれた直後には彼女を小さく呼んでいた。
返事はせず、半歩後ろで紙が小さく擦れる音がした。細い栞紐が、証言順の一覧に合わせて動く。彼女の筆先が、自分の控えに短く走る。
一人目、質問者、答えた語句。
二人目、同じ形容。
三人目、同一の結語。
聖堂補助役が差し出した紙の位置。
記録官が読み上げた時刻。
それは翻訳でも訂正でもなく、事実の固定だった。私は、わずかに呼吸を取り戻す。
背後で、レイナの持つ書類箱の金具が小さく鳴った。まだ開ける時ではない。けれど、そこにあるだけで、私の背筋は折れずに済んだ。
彼女たちはすでに、戦い方を変えていた。言葉を柔らかくするのではなく、逃がさない方向へと。
「列席補佐」
突然、オレオンが声を向けてくる。視線がラフィーへ集まった。
ラフィーはそれを当然のように受け止めたけれど、見ているのはオレオンだけだった。
「アストレア侯爵家令嬢。あなたはこれまで、学園内でしばしばルミアリエル嬢の言葉を補ってきたと聞く。今の証言について、何か補足はあるか」
穏やかな問いだ。会話ついでに、相手の弱点を探すように。
(どう出ますの、ラフィー)
ここでラフィーがいつものように補えば、私を庇う補佐になる。
黙れば、証言を認めたように見える。どちらも用意された役だ…一瞬だけ心配したけれど、それは杞憂だった。
「補足ではなく、確認だけよろしいでしょうか」
静かだけど芯の通った声は、広間の空気をわずかに変えた。
それでもオレオンは表情を変えず、「許そう」とだけ返事をする。
「ありがとうございます。ただいまの証言ですが、いずれも印象に関するものとして記録されていますか。それとも、具体的な行為と日時に基づく事実証言として記録されますか」
短い問いだった。けれど、白い卓の上で記録官の筆が止まった。評議会席が先に動き、聖堂側の次席がわずかに眉を上げる。
それまで私を見るためだけに傾いていた視線が、初めて白い卓の上へ落ちた。
そんな中、ガガルドは泰然としていた。
「事実確認のための場である以上、証言はすべて事実を明らかにするためのものだ」
わずかに間を空け、オレオンは答える。
ラフィーは手帳を開いたまま「承知いたしました」とだけ返事をして、記録官へと視線を動かす。
「では、証言一覧の欄に、印象語と具体行為を分けて記録していただけますでしょうか。後ほど誓約文と照合する際、混同があると起動条件に影響いたします」
起動条件。その言葉に、広間のどこかで小さく息を呑む音がした。
(誓約は感情では動かない。形式が揃い、責任を負う言葉として置かれて初めて、紋章と文面が応じる…さすがですね、我が補佐役よ)
ラフィーの一撃は、勝手に紡がれる物語に小さな穴を空けた。
誓約。それは私にも備わった魔法、真実を誓うための儀式。いずれ訪れる真実のため、彼女は確認したのだ。
「よいだろう。記録官、分けて記せ」
オレオンの合図に、記録官は再び筆を動かす。
ここまで、私は何も言っていない。補佐役に任せきりのぼんくらだと思われているだろうか?
(否。剣を抜くとき、それは人を傷つけるためじゃない…ただ刃を交え、真実を決するのみ。お父様、お母様…見守っていてください)
四人目の証言者は、リオネではなく聖堂補助役だった。
その口からは「聖女候補リオネ様は、学園内でたびたび不安を訴えておいででした」ときれいな言葉が並び、誓約を始める前に決しようという意思を感じる。
ならば、こちらが求めるべきものは一つだけ。証言が終わり、オレオンがリオネの名を呼んだところで、私は白い卓へ視線を落とした。
弁明ではない。反論でもない。
まず、奪われた順序を取り戻す。




