第37話「前夜の条件」
迫り来る夜への支度は、決して華やかなものではなかった。
(…いい顔色ですこと、本当に)
鏡の前に立つと、背後の衣桁に掛けられた明日の衣装と、自分の顔色がくっきり映った。
まもなく断頭台へ向かうにしては青ざめておらず、これからも人生が続くことを疑っていない顔だった。
衣装は白薔薇大広間にふさわしい淡い銀の礼装で、胸元には家紋を留める金具、袖口には誓約儀式用の刺繍がある。
どれも美しいはずなのに、今日は戦場へ持ち込む装備に見えた。銀色の礼装は、騎士の甲冑に勝るとも劣らない。
「明日の髪飾りですが、銀でよろしいでしょうか?」
レイナは無駄な音を立てず、卓上へ書類を並べていく。招請状の原本、受領書の控え、列席および証言順の暫定表。角までぴたりと揃えられたそれらは、明日の戦いに欠かせない武器だった。
「そうですわね、目立ちすぎないものを」
「承知いたしました。では、奥様から受け継いだこちらはいかがですか?」
レイナは一礼し、櫛箱から細い銀の飾りを取り出した。
それは彼女の言う通り、私がお母様から受け継いだものだった。これを身に付ける機会は、主に二つ。
一つは、特別なタイミング。たとえば、大切な人と会う際。
もう一つは、お母様を近くに感じたいとき…有り体に言うのなら、心細いときだ。
今はどちらだろう? 深く考えず、私はその提案を受け入れた。
(…恐怖は感じていない。手も震えていないし、なにより、わたくしは一人じゃない…けれど、この感覚はいったい)
飾りを試着し、鏡を覗き込む。お母様と同じ髪色の中で輝く銀は、驚くほど私を冷静にした。
恐怖に縮こまっているわけじゃない。ただ、手だけが強張っていて、開くことも握りしめることもできなかった。
「レイナ。わたくしが怖がっているように見えますか?」
卓上の右端に置かれた金の招請状を視界の端に置きながら、レイナに問いかける。割れた封蝋は小さな皿に移され、欠片のまま残っていた。
レイナはすぐには返事をせず、櫛を選んでいた手を止める。鏡越しに視線が交差すると、アメジストの大きな瞳が私だけをじいっと見ていた。
「いいえ、怖がっているようには見えません。お嬢様は、私たちに恐怖を見せてはくださいませんから」
「見たい、という口ぶりに聞こえます」
「私はお嬢様専属のメイドです。すべてのお姿を見届けたいと考えております」
冗談とも本気ともつかない声音で返されて、少しだけ眉を上げた。
「…ただ、一つだけ言わせていただきますと。今のお嬢様のお顔に、迷いは見られません。迷いは恐怖から生じるもの、ならばお嬢様が恐れているようには感じられないのです」
「…あなたはわたくしを過剰に評価していますのね。期待されすぎると応えたくなる反面、自分が単純な人間みたいで嫌気が差します」
「単純な方でしたら、誰かのために矢面に立っても何も感じません。大切な人たちの思いを感じ取りながらも立ち続ける、そういうお姿に私たちは忠誠を誓っているのです」
あまりに澄ました声でそう言うものだから、少しだけ呼吸が抜けやすくなった。笑えたわけじゃない。
それでも息が軽くなり、小声で「ありがとう」とだけ伝えられた。レイナは聞き逃さず、「感無量です」と声だけを震わせた。
「手袋はこちらを」
「ええ。とはいえ、誓約台へ立つときは外すのですが。紋章と誓約文の反応が、どのように出てくるのか…」
「ラフィエラ様も同じ心配をされていました…あ、これは秘密にしておくように言われていたのでした」
「…仕方のない子」
自分たちも儀礼の部品でしかない。そういう扱いに思うところがあるのは、ラフィーも同じようだった。
「ラフィーはどうしてますの?」
「自室で、証言順の写しを再確認しておいでです。先ほど、インクを少しこぼしてしまったとおっしゃっていました」
「あの子が? 珍しいこともあるものですね」
「筆先が少しブレるとぼやかれております」
少し想像しにくいその姿に、私も彼女へ過剰な期待を抱いていたのだと反省する。
けれど、その人間らしさを知ると、これまで散々私を翻弄してきたライバル令嬢が身近に感じられて、余計な力が抜けていきそうだった。
「…来客ですね。お嬢様、失礼します」
そのとき、廊下の向こうで足音が止まる。ノックは二度、なんとも忙しない。
レイナの立ち振る舞いが一瞬で侍女に戻り、私が頷くとすぐに扉へと向かった。
「夜分遅くに申し訳ありません。王城儀礼局です」
その人物は礼を尽くした装いであっても、謝意より先に職務の硬質さが目立っていた。
手には薄い灰色の封書が一通。その封蝋は黒に近い茶色で、アイゼングラーフ家の印が強く主張していた。
「宰相閣下より、明日の儀礼進行に関する補足通達でございます」
その名を口に出されると、部屋の温度が一気に変わった。人の体温から金属の冷たさへ戻されたように、背筋が伸びる。
封書を受け取ると使者はすぐに下がり、扉は閉められた。感情も見せぬまま、ガガルドの影だけが部屋に残った。
レイナは無言で封切り用の小刀を差し出してきたので、それを受け取り開封する。
「通達文は一枚だけ、文字は…意外と整っておりますのね」
武人のような風貌とは異なり、並ぶ文字は整いすぎていた。本人が書いたかどうかも疑わしいほどに。
政治の場に余計な体温はいらぬ、そんな声が聞こえてきそうだった。
「『明日の公開誓約儀式における列席補佐の扱いについて』…ラフィーではなく、わたくし宛に、ですか」
「お嬢様とラフィエラ様の関係について、よくご存じのつもりなのでしょう」
最初の行だけ声に出す。レイナは評価とも皮肉ともつかない返事を口にし、私はそこから先をゆっくり読み進めた。
『アストレア侯爵家令嬢ラフィエラは、ヴァルドシュタイン公爵家令嬢の列席補佐として入場を認める。ただし、誓約台前における発言は記録整合に関する補助に限る』
『儀礼上の立ち位置は当事者より半歩後方。私的関係を示唆する呼称、接触、または共同宣言に類する振る舞いは、誓約内容の中立性を損なうおそれがあるため慎むこと』
感情だけを切り離した、カミソリのような文面。ただ、ここまでは予想の範疇だった。
今さらラフィエラが私と無関係だなどと、誰も信じないだろうから。しかし、次の段落で思考が遮られる。
『両家の協力関係は、王家および評議会の監督下における政治的同盟として記録される見込みである。“個人的な情緒関係”を公的儀礼へ持ち込むことは、当該同盟の価値を毀損しかねない』
個人的。情緒。関係。
その部分だけが、妙に浮いて見えた。
(…何が言いたいのです、ガガルド・ヴァルドマー・フォン・アイゼングラーフ?)
怒りじゃない。でなければ、ここまで全身の血液は冷えないだろうから。
ラフィーとの協力は有益だから許す。けれど、それ以上は認めない。
私とラフィーが共になにかを選び、なにかを怖がり、ときに手を取り合った…そんな事実は、この紙の上では存在しない。
必要とされているのは、二つの家名がどの列に並び、どの派閥の均衡に使えるかだけ。ガガルドの灰色は、私たちのあいだへ線を引くように鋭かった。
「お嬢様。ラフィエラ様をお呼びいたしますか?」
「…ええ。急ぎで」
そう答える自分の声は、やっぱり震えてはいなかった。
怒鳴らずに済んだのはレイナの冷静な対応と、そして。
(どうせすぐに来てくれるのでしょう、ラフィー)
その奇妙な信頼はきっと叶う、そんな自負があったからだろう。
*
予想通り、ラフィーはすぐに私の部屋へと訪れた。
扉の前での一礼も早々に切り上げ、卓上の灰色の通達へ目を落とす。その色だけで、彼女は差出人を察した。
「この色…ガガルド卿ですか」
「ええ、読んでも構いません…いえ、あなたは読むべきでしょう」
通達を渡すと、ラフィーは黙って読み進めた。
子供っぽさが残る端正な顔立ちは崩れなかったけれど、紙の端を押さえる指先だけが白くなっていた。
「…よくできています」
読み終えた直後の第一声は、驚くほど押し殺されていた。
「あら、褒めますのね」
「腹立たしいときほど、冷静に相手を評価しないとやってられません」
「…腹立たしいのにそう判断できるのが、あなたの怖いところです」
「ルミア様まで…もっと怒ってくださってもいいじゃないですか」
ラフィーの返しには、彼女の本音があふれていた。ここまで感情をあらわにしたのは、初めてかもしれない。
…そしてそれを見ていると怒りよりも、わずかに胸の奥が弾んでしまうのは…どうしてでしょう…。
頬を膨らませるラフィーへの返事は曖昧にして、同封されていた席順案を引き寄せる。昨日の暫定表とは、細部が変わっていた。
「証人の呼び出し順も変わっています。初めに王太子側近、次に学園側、次に聖堂補助列。こちらの記録提出は、その後ですね」
「つまり、先に空気の流れを作っておくと」
証言者の配置は前へ寄り、保守派の席は誓約台に近い。
聖堂側の補助列は左へずれ、リオネの位置は中央から外れたまま、しかし視線の集まりやすい角度に置かれている。
そして私の印の半歩後ろに、ラフィーの名があった。その意図を察したとき、私たち三人は顔を歪める。
誰がどこから見下ろすか。誰がどの証言で息を呑むか。誰の沈黙が同意として扱われるか。
そのすべてが、紙の上で先に組まれている。
(…たとえ私たちが勝っても、使い道を残す…オレオンに似てますのね、ガガルド)
私たちが断罪を覆すこと自体を望んでいるわけじゃない。けれど、その可能性まで考慮し、『有能な公爵家令嬢と助太刀した侯爵家令嬢の協力関係』として利用しようとしている。
王太子すら打ち負かした政治的同盟を、野放しにはしないと言いたげに。
負ければ処刑台へ、勝てば箱庭へ。どちらに転んでも、ガガルド側には都合がいいのだろう。
「…同盟であれば許す。しかし…」
“慕情”であれば、許さない。
続きは口にできなかった。けれども、レイナもラフィーも肯定するように頷いていた。
「そのつもりだと思います」
「今日まで生き延びてきたわたくしたちは、思いのほか便利な存在として評価されているのでしょう…だからこそ、互いを利用し、幼い感情に惑わされてはいけないと釘を刺している」
面白くない。そうか、それが私の本音。
恐怖でも怒りでもない、持て余してきた感情の置き場所が見えた気がした。
誰も彼もが紙の上で私たちを動かし、役割を固定しようとした。
悪役、婚約者、ライバル、そして今度は同盟…どれもこれも、私が選ぼうとしたわけじゃない。
「ラフィー。明日、あなたは半歩後ろへ下がるように書かれています…そしてそれは、面白くありませんわよね?」
「ルミア様」
紙を指で叩く。行儀が悪いその様子を、この場にいる誰もが咎めなかった。
当然だ。向こうが不躾な紙を押し付けてきたのだから、私たちも相応の態度を取るしかなかった。
「発言は制限され、振る舞いも慎むように書かれています…あなたはすでに、自分の意思で隣に立つと宣言したのに」
「はい。今も変わりありません」
「ならば十分です。相手がどう言おうと、その上で隣を選ぶのはわたくし…ルミアです」
自分の中で勝手に引かれていた線が、ようやく正しい位置へと引き直された。
同盟と呼ばれれば頷くのではなく、恋と呼ばれれば面倒だから黙るのでもない。
明日の大広間で、私は私の言葉を責任として出す。なら、その責任の隣に誰を置くかも、私が決める。
「その言葉、慎んで承ります。たとえこの誓いが記録に残せないとしても、わたしの中には永遠に残り続ける…だから、わたしはあなた以外に従うつもりもありません」
「…重いですわね」
「ふふふ、お互い様です」
まっすぐに宣言して、彼女はいつもの微笑みに戻った。夜を邪魔しないほど静かなのに、周囲を照らす太陽のように眩しかった。
レイナもようやく納得したように、準備を再開する。
「では、記録控えの閉じ紐は短いものにしておきます。こうすれば、ラフィエラ様が確認する際は近づかざるを得ませんので」
「…レイナ、あなたも随分としたたかになりましたわね」
「お嬢様が成長なさったのなら、私も負けてはいられませんから」
その生き生きとした様子にラフィーも目元を緩め、準備は驚くほど淡々と進んでいく。
紙の束は多く、言うべきことも数え切れないほどある。
それでも夜は、すぐには明けなかった。
書類の角を揃え、封蝋の欠片を皿へ戻しても、胸の奥だけが静かに目覚めている。
眠れないのではない。眠ってしまえば、明日が来る。
そのことを、私の身体だけが先に知っていた。
けれど明けない夜はない。たとえオレオンが罠を張り巡らせ、ガガルドが勝手な条件を追加しても、朝日は等しく白薔薇大広間を照らす。
その中で誰よりも正しくあれば、きっとヴァルドシュタインの名に恥じない。そう信じて、私たちは最後の戦いに備えた。




