第36話「処刑台の金」
その金色は、朝に届いた。
自室の卓上にはまだ白表紙の通知が残っていて、『明朝第一鐘後、正式招請状送達』という短い文面が刻まれたまま。それは昨夜のことが現実であると物語り、朝の光を浴びてくっきりと浮かび上がっていた。
「まもなく、第一鐘が鳴り終えますね」
すでにラフィーは私の部屋へと来ていて、もはやここで暮らしていると話しても信じてしまうような自然さだった。
廊下を行き交う音はまだ少なく、誰も余計な声を立てていない。静けさというより、凶兆を待つ沈黙だった。
「失礼いたします」
レイナが部屋へと入ってきたのは、鐘の余韻がまだ窓硝子に残っているころだった。
その銀盆の上には茶器も菓子も載っておらず、代わりに厚い封筒が一通だけ置かれていた。その封蝋は離れた位置からでも一目でわかる、金色だった。
それでも以前のものとは、別物に見えてしまう。あの時の金には白薔薇のような余白があり、罠だとしても栄誉の建前と、社交の場へ招く最低限の礼法は感じられた。
けれど、今朝の金色には…それがない。全方向から光を反射してこちらを照らしてくるような、悪意のみで塗り固められた金箔に見えた。
「王城儀礼局より、正式招請状でございます」
レイナの声はいつも通り平坦で、こちらまで冷静にしてくれる。
けれど、銀盆を支える指先は目に見えてわかるほど硬く、その重みへ必死に耐えているように見えた。
「時間通り、まずは無礼を働かなかったことを評価すべきですね」
「どれだけ青と白を押し付けても退かなかったのですから、相手も金に足るべき相手と認めたのでしょう…遅すぎる判断ですが。レイナ、ご苦労様」
レイナが背負ってきたものを受け取るように、封筒を手に取る。その重さを感じとると、彼女をねぎらわずにはいられなかった。
ラフィーは私の隣に立ち、同じ目線でその封筒を見ている。向かい側でも斜め上でもないその位置は、胸の奥に小さな熱を灯した。
…昨日の重ねた手、まだ温度が残っているようですわね。
ラフィーが近いことはすでに受け入れたというのに、それに心身が馴染むにはもう少し時間が必要そうだった。
(…いい音。これがオレオンからの、最後の贈り物になるのでしょうね)
封を切ると、金の蝋が硬い音を立てて割れた。それは私たちの緊張感とは裏腹に、妙に明るく感じる。
もしかするとそれは、彼なりの婚約者への礼儀…手切れ金のつもりかもしれなかった。なんの色気も慈悲もないところが、私の知る彼の一面を形にしている。
その中には、三枚の紙が入っていた。
一枚目は、誓約儀式への正式招請。
二枚目は、列席および証言順の暫定表。
三枚目は、王城大広間の導線と、誓約台周辺の立ち位置を示した写し。
「…『王城白薔薇大広間における公開誓約儀式』。白薔薇の呪縛はまだ続きそうですわね」
「庭園の薔薇はこれからだというのに、気が早いですね」
最初の紙へ目を落とすと、そんな文言が書かれていた。末尾には王家印と、王城儀礼局の印が並んでいる。
公開。それを読み上げる自分の言葉は、驚くほど平坦だった。何を意図しているのかわかっていても、感情が前へと出てこない。
続くラフィーの声音もまた、事務官めいて淡々としていた。
「はい。観衆、立会人、証言者、聖堂側、保守派の列席…必要なものがすべて揃っています」
それが誰にとって必要なのかは、言われずとも理解できた。
私を一人の令嬢ではなく、ルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタインという悪の象徴として幕引きするための舞台装置だった。
婚約者としての立場をわきまえず、王太子を失望させた者。
聖女候補を圧迫し、神聖すら汚しかねない者。
公爵家の名を盾にし、周囲へ幾度となく不穏を招いた者。
そうした役割を用意しておき、最後は本人を誓約の場へと呼び出し、自分の罪を認めさせる。
(…ずっと金色に戻るべきだと考えていた。でも、そこにはもう、名誉なんてない…)
青、白を経て戻ったはずの金色は、逃げ場なく顔を上げさせるための照明だった。
その事実に向き合うと、こう表現するしかない。
「処刑台がついに完成しましたのね」
口にすると、レイナはかすかに息を呑んだ。小さな頃からそばにいる彼女の気持ちを推し量ると、そうとしか口にできなかった自分の語彙の少なさを悔やむ。
けれど、ラフィーは否定しなかった。
「はい。ですが、首を差し出す場所とは限りません。差し出すとしても、それがルミア様である必要はありません」
「たいした励まし方ですわね?」
「まずは構造、そして事実をお伝えしたかったのです」
昨日の触れ合いは何だったのかと思うような、色香のない返しだった。
だけどそれに対して「らしい」と感じた結果、少しだけ深く息を吐く。笑うことはできなくとも、呼吸は整っていった。
それに背中を押され、二枚目を見る。その表には、見覚えのある名が並んでいた。
王太子側近。保守派の家名。学園で噂を広げた家の子息たち…そして旧友となってしまったセシリアの名も、たしかに証言者欄に記されていた。今さら感傷は抱かない。
それよりも目を引くのは…リオネの位置だ。
「聖女候補は中央ではなく、聖堂側補助列の一角ですのね…ラフィー、あなたの一計が炸裂したようですわ。褒めて差し上げます」
「恐縮ですが…わたしはリオネ様の友人です。まずは役割分散による負荷の軽減を喜びたいところです」
その行を確認し、ラフィーにも見せる。彼女は嬉しそうにはせずとも、ただ穏やかな声で結果を受け止めた。
これは多分、救済と言えるほどのものじゃない。リオネは今も聖堂に縛られ、聖女候補であることを強制され、そのまま利用されるのだろう。
だとしても、彼女一人が中央に据えられることはなくなった。私たちの“主語を変える”という権謀術数が、紙の上で結果を出していた。
「…きれいなやり方でなくとも、こうして役に立つことがあるんですのね」
正面から道を切り開き、そこをリオネに歩いてもらうことはできなかった。だから、汚いと言われても仕方ない方法を採用した。
達成感と後悔の狭間で足踏みしていたら、ラフィーは私に視線を向ける。
「こういうやり方は、今後も必要になるでしょう。ルミア様、やはりいやですか?」
「好きにはなれないでしょう。しかし」
質問の意味はわかっていても、少しだけ考える。
でも、答えに迷いはなかった。
「嫌いであっても、必要性からは目を背けません。その勇気をくれたのは、ほかならぬあなたなのですから」
「…ありがとうございます。その言葉だけで十分です」
十分、という部分に力と熱がこもっていた。それもまた、ラフィーの本音なのだろう。
そのまま三枚目も確認する。導線図には大広間の入口、控室、証言者の待機列、誓約台の位置が細かく記されていた。
自分の位置を確認する。そこは大広間の中央よりもわずかに前、観衆からよく見える場所だった。
それだけでなく、王族席からも、聖堂側からも、保守派の席からも見下ろせる場所。オレオンの関与を確信するしかない、よく考えられた配置だった。
「…あなたの名前は、わたくしの半歩後ろにありますわね」
「“列席補佐”、ですか。同伴ではなく補佐、過剰な気遣いには反発したくなるものなのに」
相手の作った名目に、『言葉を変えれば距離も変えられる』という意図を感じる。そしてそれは、ラフィー…アストレアをぎりぎりまで巻き込まないという、ある種の気遣いにも見えた。
私たちの約束を押し戻しつつ、配慮だと言い張れるやり口。それが手遅れであることに気付けないのは、相手の最大のミスかもしれなかった。
「…半歩。近くて遠い、いつもの距離ですわね」
「ええ、紙の上では」
私が導線図を指で叩くと、ラフィーは珍しく皮肉を込めた笑みを浮かべた。
もはや王族ですら、彼女を意のままにすることはできないのだろう。それができるとしたら、その存在は。
「ルミア様。向こうの指定通り、わたしは補佐として入ります。けれど、半歩後ろという指定まで守るいわれはありません」
「そう言うと思っていましたわ…では、どうなさいますの?」
「あなたの隣に立ちます。これは王族でも聖堂でも歪められない、わたし自身の意思です」
あまりにもはっきりとした、ともすれば…“告白”とも受け取られかねない、強い言葉だった。
逃げ道がないからこそ、強く出て行く…ラフィーらしいしたたかさだった。
レイナはその誓いの証人であるかのように、私たちを見て頷く。それは貴族に認められるよりも、ずっと心強く感じた。
ならば私も、同じところへ立ちたい。金の招請状を見下ろし、願うように口を開いた。
「わたくしも。あなたを連れて行くのではなく」
いくつもの言葉が浮かぶ。論戦であれば小賢しいものを選ぶのだろうけど、今必要なのは…きっと、これ。
「隣に立つものとして、あなたを選びます」
しん、と静まり返る部屋の中で、時計の針だけが唯一の音源だった。
ラフィーはすぐには答えず、万感の思いが駆け巡ったように目を伏せる。それはほんの一瞬だった。
そして彼女はスカートを持ち上げる礼をした。それは従者になるためのものでも、補佐を請け負うためのものでもない。
舞踏会でダンスの相手を自ら望むような、貞淑でありながらも自然な動きだった。
「承知しました、ルミア様。あなたのラフィーが、どこまでもお供します」
その返事はただただ、静かに胸の奥へと落ちていった。
レイナはそれを見届けたあと、やや申し訳なさそうにもう一枚の紙を差し出す。銀盆に載せられたそれは、厳かな誓いを現実へ引き戻すには十分な質素さだった。
「本日正午までに、拝受印を返送とのことでした。儀式は明朝第二鐘、王城白薔薇大広間にて執り行われるそうです。急かすようになってしまい、申し訳ございません」
「あなたは悪くありません。しかし、早いものですね」
「急ごしらえの舞台装置は、かくも忙しないのかもしれません」
真顔で口にするレイナに、ラフィーが口元に手を当てて笑みを押し殺した。
…この冗談は、ちょっと物騒だから反応に困りますわね…。
「…レイナ、あなたも物騒なのは控えなさい。時と場所は選んでいるとわかっていますが」
「失礼しました。しかし、自分の都合で放置したり急かしたりする方々の相手をしていると、どうしてもお嬢様の応援をしたくなるのです…これは私個人だけでなく、使用人一同の意見でございます」
「…ふう。屋敷の皆まで過剰な期待を抱くのなら、応えたくなってしまうものですね」
澄まし顔のレイナに、屋敷で待ってくれている皆を思い出す。
誰も彼もが、離れた場所から私を信じてくれている。
その当たり前が、今はひどくありがたかった。
「それと、旦那様からも言伝が」
「…お父様も?」
「はい。『己が正義に背くな』…以上です」
「…ますます、逃げるわけには参りませんね」
「うふふ、そのつもりもないのでしょう?」
「無論です」
受領書へ手を伸ばす。もしも一度撤退するのなら、印を押さないという選択肢もあった。あるいは、体調を理由に遅らせることもできる。
…そして、お父様の判断を待つという名目もあった。今さっき、それはなくなったけれど。
そんな親の愛情は、私に最後の印を押させた。
「…今も怖いです」
「はい」
「しかし、その恐怖は…わたくしを支配するには、あまりにも間違っている」
自分で扉の前へ立つ決意をしたあと、確認するように独りごちる。
でもそれは、独り言にはならない。私には、私を孤独にしない人たちがいてくれるから。
「だからこそ、わたしはあなた以外の人の言うことなんて聞いてあげません。半歩後ろを歩けと言われたら…勇み足になって、半歩前に出るだけです」
「出来過ぎた偶然ですこと…ふふっ」
支度を始めるレイナを見送り、私はラフィーに向き直った。
あの夜のように、手は繋がない。それでも、手を差し出していた。
「行きましょう、ラフィー。金色の光が照らす、その先へ」
「はい。あなたの隣で、輝きの向こうへと」
たとえその先にあるのが処刑台だとしても。
私は一人じゃない、だから歩き出せた。




