第35話「共犯の光」
準備の整った夜、それは逃げ場をほとんど失ったことと同義だった。けれど、帳の降りた世界はどこまでも静かだ。
自室の丸卓の上には、提出を終えた照会文の控えと役割分散案の写し、それからまだ片付けていない白の封蝋が残っていた。
残された紙の枚数だけ見れば、ここ数日の喧騒が嘘みたいに静かだ。それでも胸の内側だけは『まだやるべきことがあるのではないか』とでも言いたげに、静寂の中を右往左往していた。
「お茶をご用意いたしました。ほかになにかあればいつでもお呼びください…ただ、お二人ともお疲れでしょうから、なるべく早めにお休みを」
「ええ、ありがとう」
私とラフィーの分のお茶を置いてから、レイナは一礼して下がる。なにかあればすぐに駆けつけられる距離にいてくれるのだろうけど、今は私たちを二人きりにした。
その気遣いが、私をラフィーと向き合わせる。今の彼女は事務的なことは一切口にせず、ただ私たちの立てた戦略へ向き合うよう、こちらを見つつもどこか遠い目をしていた。
「…静かですわね」
「ええ、いい夜です。王都の灯りが遠く小さく滲んでおります」
私のつぶやきに、ラフィーはすぐ反応する。彼女が眺める窓の向こうには、まだ人の営みが続いていることを示す光が浮かんでいた。
その色合いに、自分に渡された白い封蝋を思い浮かべる。それに対する応答も、リオネを固定する名簿への進言も、すべて終えていた。
だからレイナの言う通りもう休むべきなのに、体のどこも眠りにつく気配がない。たとえずっと起きていても、朝日が昇れば新しい戦いが始まるのに。
準備が終わった直後の刹那を、私たちはまだ手放したくないのかもしれない。
「不思議ですわね。書類整理をしている最中は、終わりが見えずにうんざりしていたのに…結果を待つだけの今のほうが、不思議と落ち着きません」
「すでにわたしたちは出すべき紙を提出しましたから。後は向こうの反応待ち、そうなるのも当然です」
お茶を飲むラフィーは私よりも落ち着いているように見えて、その両目は燦々と冴えている。カップを持つ指先は優雅なままだったけれど、茶面に映る灯りだけが、ほんのわずかに揺れていた。
そうした様子が『緊張している』のだとわかるのに、多くの時間を費やしてしまった。
手袋を外し、膝の上に置く。もうやることがないというのに、指先はペンや剣を持とうと小さく曲がっていた。
「…怖い、のでしょうね」
あの日、教授によって教わったときのように、私は恐怖を自然に受け止めていた。
けれど、その重みはあの日と異なる。ラフィーはすぐには返さず、無言で続きを促した。
「誓約そのものではありません。制度として必要なものであれば、わたくしはどんなものでも受けて立つ…だから、怖いのは」
自分の指先をもう一度見る。恐怖によって、小さく震えていた。
「あの場へ立つ前に、敗者として形を整えられていることです。白で消されるにせよ、金で照らされるにせよ、誰かが書き記した紙の上で勝手に意味を決められる。それは…わたくしのために戦ってくれたあなたたちの気高さをあざ笑う、それにも等しい」
声は震えていなかった。だけど、努めて平坦に保たない限り、余計なものまで出てくるような気がした。
「…もしもここまでしても消されるのであれば、わたくしはなんのために前へ立ち続けていたのか、誰を守ろうとしていたのか、わからなくなりそうで」
口にして、自分本位だと嫌気が差した。だからこそ本音なのだと、残酷なまでに理解できる。
立ってきた意味。守ってきた規律。たとえ悪役だとレッテルを貼られ続けても手放さなかった、正しさ。
そのすべてが自分たち以外の誰かによって上書きされるのだとしたら、ルミアリエルという存在の意義まで見失いそうだった。
ラフィーは返事を探すように、呼吸を一拍だけ止めた。見つかるまで時間がかかりそうだったので、私が続ける。
「…あの頃の私は孤高なのではなく、孤独だった。公平でいようとしても遠ざかり、正しくあろうとすれば怖がられ、役に立つ言葉は好き勝手に切り取られる…そして最後には、いなかったことにされてしまう。もしも次もそうなるのなら」
思えば遠くまで来たように、視線が揺れる。その感覚の正体を、飾ることなく紡いだ。
「…さすがに、疲れますわね」
正しくあろうとすることは、いつも私を摩耗させた。
それでも止まれなかったのは、止まった瞬間に消えてしまうと思ったから。
婚約者としての名前が消えるだけならいい。だけど…ヴァルドシュタインそのものが消えてしまうとしたら?
自分の弱さが招く結果としてはあまりの重さに、私は恐怖し、その感情を吐き出していた。そうすることの結果がどうなるのか、それも考えずに。
「はい、ルミア様」
長く待たされたラフィーの返事は、たったそれだけ。
大丈夫とは言わず、ただ肯定していた。それは否定されてばかりの私にとって、目の奥が熱を持つほど暖かく思えた。
「わたしも…怖いですよ。あなたがあの場で何を言うか、ではありません。それについては不安なんてない…だけど、その前に、勝手にどう読まれてしまうかが、怖い」
ラフィーの恐怖へ感応するように、私の紋章が熱を持つ。それはただ熱くなるだけではなく、肯定するような鼓動をはらんでいた。
「だとしても、わたしはその恐怖を誤魔化しません。勝てるとも言えませんし、大丈夫とも今は断言いたしません」
その率直さは、やっぱり私にとって好ましかった。
だって今の私は、見え見えの希望的観測を言われたとしても、それにすがってしまいそうだから。
だからそうした誤魔化しをしないラフィーに対し、衝動的に手を伸ばしていた。彼女もまた同じ気持ちだと伝えるように、卓上へ置いた私の右手へ、自分の手を優しく重ねた。
それは安っぽい慰めじゃない。むしろ逃がさないための、重さすら感じる重ね方だった。
「……」
お互い何も言えず、ただ重ねたまま。
それはこれまでで一番長い触れ合いで、手の甲の部分だけ彼女と一つになったような錯覚があった。
呼吸と鼓動までもが同調し、ラフィーの思考が伝わってくるよう。
『本当なら、全身であなたを包みたいのですが。それをしてしまうと、わたしも戻れなくなっちゃいますので』
大胆に見えて慎重な触れ合いをおこなう彼女は、今や貴族としては貴重な奥ゆかしさに溢れていた。
そうした気遣いこそが、今の私の深いところにまで馴染んでいく。
「…きれいに勝ちたかった。あなただけでなくリオネも、この世に存在するあらゆる残酷から無縁でいてほしかった。そのためにわたくしがいる、そう胸を張っていたかった」
ヴァルドシュタインの人間としては許されないようなつぶやきだった。
ラフィーはそれをたおやかに受け止め、微笑む。
「わたしもです。あなたにはただ前を向いてもらって、その正しさが人々を照らす…そうした様子を誰よりも近くで眺めていたかった。たとえ、王太子様を押し退けてでも」
「…とんでもない不敬だこと。冗談でも控えて」
「本気だとしたら?」
ラフィーの瞳には似合わない、サンアンバーすら焼き尽くす炎が灯る。冗談ではない、と自己申告しているようだった。
それに対する答えに窮しそうになると、彼女は自ら話題を変える。
「ですが、今はそれどころではありません。きれいに勝つのではなく、お互いが汚れたとしても一緒に引き受けて立つことを選びました。これはもう、共闘ではありません」
「…そうですわね」
残念ですが、とはもう言えない。
その現実に、一人で寂寥を感じた。
「ルミア様も汚れることを理解した上で選んでくださいました。ゆえにわたしはあなたをきれいな場所へ閉じ込めるのではなく、汚れることを厭わないあなたの隣にいます。だから」
ラフィーはそこで少しだけ手を持ち上げ、私の指を一本一本、ハープでもつま弾くように撫でていった。
それは書類に触れるときとは異なる、確かな体温が宿っていた。
「“共犯”です」
「共犯…ふふっ、そうですわね」
その言葉は共闘以上に、静かに、そして深々と胸へ落ちていった。あまりの自然さに、すぐ私の中で溶けていく。
それは、きれいに勝てなかった者同士の慰めではなかった。汚れると知ってなお逃げなかった私たちに、ようやく許された名前だった。
「嫌ではありませんの?」
「嫌ならば、白の封蝋を一緒に汚そうだなんて思いません」
「…その言い方だけはどうにかなりませんでしたの?」
「今は率直なほうが喜んでいただけると思いました」
生意気な…と思いつつ、喉の奥から漏れる笑い声を抑え切れなかった。
手の重なりが続く中、私は目を閉じる。触れる時間が長いほど私たちの中の“危ういもの”が育っていくというのに、今宵はそれが必要だと感じていた。
紋章の光を感じる。それはまだ弱々しくて、夜を照らすには足りない。それでも白い紙ではかき消せない程度に、私たちの存在を確かにしていた。
「もしも明日、わたくしがうまく立てなかったとしても…隣にいなさい、我が共犯者よ」
「はい。立つか立てないかは関係なく、わたしは唯一無二の共犯者であるあなたの隣に控えます…我がおひい様」
もはや遠慮はできず、命令形でそう伝えた。その裏側では、命じるのではなく願っている自分がいたけれど。
ラフィーはそんな裏側も見透かしたように、椅子を引いて立ち上がり、私の横に移動してからかしずいた。
その所作にぞくりと胸の奥でなにかがほどけ、慌てて首を振る。そのとき、控えめなノックの音が私を冷静にしてくれて、ラフィーは何事もなかったように椅子へと戻った。
「お嬢様、遅くに申し訳ございません。こちら、王城儀礼局より届いております」
レイナが入ってきて、卓上の空いた場所に細い白表紙の通知を一枚置く。その簡潔な説明だけで、何が起こるかが想像できた。
先ほどまで手が重なっていた卓の上に、無粋な紙切れが現実を告げる。
「『明朝第一鐘後、正式招請状送達』…ええ、来ますのね」
「はい、“金色”が」
読み上げると同時に、ラフィーが呼応する。
金とは書かれていない。それでも次に来るものが何であるかは、この場にいる全員が予期していた。
ラフィーとレイナを見ると、彼女たちは無言で頷く。全員が同じ恐怖を、そしてそこに立ち向かう勇気をたたえていた。
夜に浮かんだささやかな甘い時間は、まるで夢幻であったかのように消える。ただ残っているのは、手のひらと紋章に残る温度だけ。
たったそれだけのものであっても、明日訪れる処刑台への案内へ向き合えそうだった。




