第34話「主語を変える救済」
王城から戻ったあと、自室の卓上に白の封蝋と、リオネの名が書かれた控え室名簿を並べる。本来なら役割の違う二枚は、どこか似た顔をしていた。どちらも人を都合のいい位置へ固定する紙だからだ。
(白の封蝋は外縁へ、名簿は中央へ。向かわせる方向が違うだけ)
レイナが置いてくれたお茶はすでに冷め、室内の光もオレンジ色へ変わっていた。
口元を湿らせ、黙考する。白の封蝋は私たちを遠ざけ、名簿はリオネを中央へ押し出している。違うのは、別つための作法だけ。
私は名簿上のリオネの名前を見つめる。力強い太さで書かれたそれには、聖女へ過酷な運命を押し付ける寓話めいた連なりがあった。
役割の代替なし。導線の固定。補助役は聖堂側の指定のみ。
控え室から祈祷列まで引かれた細い線は、逃げ道のない廊下によく似ていた。その短い記載は、リオネの足下から退路だけを奪っている。まるで『聖女様は逃げない』と盲信するように。
「直接介入すれば、敵の思うつぼですわね」
「ええ。近づけば圧力、退けば見殺し。どちらを選んでも、向こうにとって都合のよい物語になります」
何度も考えて導き出した結論へ、ラフィーは頷く。リオネとは個人的な親交が続いているというのに、どこまでも冷静で分析的だった。
でも、彼女が冷たい人間だとは思えない。そう思うには、すでに過ごした時間が長すぎた。
「…ならば、放置しろと?」
「そんなことをすれば、リオネ様は潰れてしまいます…いいえ、潰される、と表現すべきでしょう。望まぬことを背負わされ、拒めず、破滅するまで逃げられない」
最初から放置の選択なんてなかったのだろうけど、一応尋ねる。結果は愚問だった。
これまでのように、善意だけでリオネに退路を与えることはできない。学友という個人の関係が利用されないよう、控え室へ近づけまいと誘導されたのだ。
ラフィーの“導線変更”ですら、今は『証言対象への介入』と見なされる…聖女候補の奉灯がもたらした光は、早くも風前の灯だった。
「…わたくしが聖堂側へ抗議すると」
「『公爵家が聖女候補の配置へ口を出した』とされます。ルミア様、今はまだ正面から対立してはなりません…その気高さは、どうかわたしの前だけで」
ダメ元で提案してみる。もちろん、ラフィーは侘びしげに制した。
白の封蝋へ視線を移す。それはやっぱり、リオネの置かれた状況にそっくりだった。
正面から不当な扱いだと訴えれば、排除された人間の感情として処理される。
黙って受け取れば、そのまま外縁へと置き直されるだけ。
朝のラフィーによる抵抗は、制度を知る人間ゆえの選択肢だった。
そんな回りくどいことしかできない現状は、私にとって。
「…嫌な舞台に上がらされたものです。三文芝居ですら、もっとマシな台本をもらえる…」
「おっしゃるとおり。ですので、ここは“別の舞台”を作ってみませんか?」
リオネをもう一度救いたい。けれど、現実に向き合うと頭が痛い。
そんな気持ちを吐露すると、ラフィーは役割分担表の写しを自分のほうへ引き寄せた。
細く白い指が、リオネの名ではなく見出しの列をなぞっていく。
「“主語”を変えましょう」
「主語?」
「『リオネ様を助ける』ではなく、『候補を一人だけ中央へ固定する仕組みが危うい』と書くのです。名前を主語にすれば私情、列を主語にすれば整合性になります」
ラフィーは祈祷列の見出しを指先で軽く叩く。小さな音は硬質で、少しだけ落ち着いた。
「個人を象徴へと固定できるその仕組みを、こうして開きます」
ラフィーは白い紙に、新しい制度の青写真でも書くようにペンを走らせた。その動きを、黙って追う。
「今の名簿は“聖女候補だから中央に固定する”という前提で組まれています。でも、誓約前の状況ではそこが弱点にもなります」
「弱点…ああ。証言や象徴性が絡む存在を祈祷列の中央へ単独で固定すると、聖堂側の中立が疑わしくなる…最初から中立だったかはさておき」
その通り、とラフィーは満足げに同意した。下手な褒め言葉よりも、頬が熱くなる。
それでも余計な反応はせず、儀式側の不備を探すように名簿を眺める。
「リオネ様の救済は主張せず、『誓約前の感応儀礼において、単独象徴列そのものが偏りを生む』と進言すれば、候補の複数化や導線再編ができます。誰か一人を中央に据える体裁を崩すのです」
聞き慣れたラフィーの説明は、最後まで聞かずとも続きが予想できた。だからこそ疑問がくすぶる。でも、横やりは刺せなかった。
「たとえば、『象徴祈祷を単独ではなく、輪番の補助列へと落とし込む』という具合に。そうすれば、リオネ様だけが“聖女として見られる場所”に縛られなくなります」
「…たしかに、そうすれば救う相手の名前は出さなくともいいかもしれません」
「はい。必要なのは『誰を守るか』ではなく、『誰も固定できない舞台設計』ですから」
ラフィーのほぼ完成した青写真を見て、再確認する。
これならリオネを庇った形にはなりにくく、主語は個人から役割分担へ移っていく。今朝の事務処理への介入と似ていた。
だからこそ、きれいには見えない。社交界に参加した立場で何を今さら、と思う。
だとしても…正面から手を伸ばせない代わりに名簿の線をずらす救い方は、ヴァルドシュタインでありたい私に疑問符を突きつけた。
「…正直に言います。迂遠ですわね」
「はい。そして、ルミア様が好む方法ではないとも思っています」
ラフィーの返事は穏やかで、嫌みも落胆も含まれていない。
だからこそ、胸に刺さる。それは多分、ラフィーの『望まれなくても、こうするしかない』という決意の痛みなのだろう。
(…今さら『正面から守りたい』なんて言えるわけがない。だけどわたくしは、ただ…リオネを息のしやすい場所へと引っ張り出したかった)
椅子に背を預け、聖女候補の顔を思い出す。
そのほとんどが私への怯えを含んでいたけれど、少しだけ笑顔も浮かんできた。ラフィーも交えた報告会…という名目のお茶会。あの時だけは、リオネもただの学友の顔をしていた。
願わくば、あの時のように心穏やかでいて欲しい。でも手を伸ばせば、リオネを『怯えた聖女候補』に仕立て上げ、利用される理由を増やすだけだ。
「…先に言っておきます、あなたのことではありません。しかし、そのやり方はきれいとは言いにくいです」
「ええ、『汚い』と言われても仕方ないでしょう。ルミア様に気を遣わせてしまいましたね」
ラフィーは否定しない。以前の言葉通り、汚れることを恐れない人に見えた。
「気を使った覚えはありません、しかし…きっと向こうも、きれいなやり方なんて考えていないのでしょう」
「残念ながら。清く正しく救おうとすれば、いつまでも主語は向こうの手のひらで転がされます」
「…でしたら、次はどのように書くのですか?」
短い沈黙を破り、ラフィーに尋ねる。
すると彼女は驚きこそしなかったものの、瞳の輝きが変わった。サンアンバーの視線が紙に向き、盤面を動かすように解説を再開した。
「『聖女候補を固定してはならない』、とは書けません。しかし、『誓約前感応儀礼における象徴列単独固定は、中立性を損なうおそれあり。候補複数化または役割分散を要請』ならどうでしょう?」
「誰を救うか、とは書かない。だからこそ、“避けるべきこと”を伝えるわけですね」
「そうです。リオネ様が責められるような構図から、儀礼そのものへ責任を分散します」
ラフィーの進言は乾き切っていて、事務作業の延長線上にしか見えなかった。少し前の彼女であれば、もっと優しい干渉を試みていたのだろう。
ラフィーのペン先が、リオネの名の上で一度だけ止まる。けれど彼女は、そこへ何も書かなかった。名前を書けば救済が私情になる。だからこそ、見出しのほうへ線を引いたのだ。
「それの提出先は?」
「王太后側近室と聖堂次席室の両方へ。片方だけでは握り潰されます。名目は…『列席補佐からの儀礼整合照会』がいいでしょう」
「白の封蝋を受け取った人間がこのような進言をするんですもの、私的な救済には見えにくいことでしょう…外縁の立場に感謝ですわね」
抜け目ないラフィーの書き込みに、私も少しだけ口元を歪める。
すでに存在しないものとして扱われた人間たちだからこそ、見えない場所で干渉できる…なんとも皮肉だった。
「添付書類はどうしますの?」
「現行名簿の写し、待機順の控え、それから過去の奉灯記録ですね。“単独固定を避けた先例”があれば、聖堂側も便宜ではなく整合として受け取らざるを得ないでしょう」
「…もしもあの頃からあなたが準備していたとしたら、素直に『怖い』と褒めてあげますわ」
「ひどいです、ルミア様…わたしはただ、リオネ様を思っての行動が今になって花開いたと信じてますのに」
多分、それは本音だろう。リオネを助けるラフィーの横顔に、王太子側のような冷たさはなかった。
だとしても、あらゆるものを利用する私たちは、きっときれいじゃない。
「…本当に、きれいなままではいられませんのね」
「そうですね、そう思います…幻滅しましたか?」
「ええ、自分に対してはいつも。だから」
呼吸を整え直す。そこまで勇気がいることでもないのに、ラフィーと向き合うのはいつでも体が熱を帯びた。
「あなたの提案を、あなたと一緒に選びます。綺麗事での敗北よりも、理詰めの汚れを背負って隣に立ちますわ…正面から戦うときも、裏側から働きかけるときも、わたくしは共に筆を執りたい」
それはきっと、共闘とは異なる…別の名前を持った関係を、私自身が受け入れる言葉でもあった。
今はまだ、それに名前を付けられない。形が見え始めていても、戦いは終わっていないのだから。
代わりに私は役割分担表を引き寄せ、自分の手で余白へと短く書き足す。
『候補固定は中立性を損なう』
ただそれだけ。でも、不思議と納得した。
「これで、わたくしも共犯者ですわ」
ラフィーを見つめ、気負わず笑ってみせた。
彼女は一瞬だけ呼吸を忘れ、すぐに笑い返してペンを持ち直す。
そしてラフィーは、私の書いた行の下へ自分の字を重ねた。
『役割分散案を別紙添付』
別紙、名簿、導線、待機順…何食わぬ顔で制度を正す点がつながり、ようやく救済の形になり始めた。
これが通れば、リオネを中央から逃がすのではなく、中央という場所そのものをほどける。誰も“聖女役”として一人で立たされない形にする。
ちょうどそのとき、扉の外でレイナの足音が止まる。彼女は何も尋ねず、奉灯記録の綴りと受領控えを置いてまた後ろに下がった。
「レイナさん、さすがですね」
「当然です、わたくしの侍女なのですから」
持ってきてくれた書類へ手を伸ばしたとき、私とラフィーの指先がわずかに触れた。
本当なら、今すぐ作業を始めたい。けれど、すぐには離せなかった。
手袋の内側、紋章が小さな熱を帯びる。目が合うと互いに苦笑して、名残惜しさを押し殺した。
「わたしたちの主語、誰にも奪わせないようにしましょう」
「ええ、もちろん。誰を潰すかという三流の悲劇を…どう潰せなくするかという一流の喜劇へ」
その書き換えを、私たちはためらわない。
今夜綴る物語は、まだ始まったばかりだ。




