第32話「誓約の恐怖」
誓約書の雛形が卓上に現れたのは、数日後の小夜会でのことだった。
主広間から少し外れた談話室の丸卓に、その写しが一枚だけ。厚手の羊皮紙にはまだ誰の名も入っていない空欄、その下には紋章を媒介にするための記載欄があった。蝋を落とす位置まで、薄く印がつけられている。
(これほどの存在感があるのに、誰も正面から触れようとはしない…触らぬ神に祟りなし、ですか)
周囲を見る。若い令嬢たちは扇で顔を隠すように覗き込み、子息たちは近くを通っても最後まで写しを手に取らない。給仕役の少女でさえ、無意識のうちに距離を取っていた。
誰にも触れられることなく、それでも部屋の中央へ置かれ続ける。表向きは真実を縛るための厳正な仕組みなのに、社交の場においては誰もが『自分の名前がそこに書かれるかもしれない』という怯えを向けていた。
「もしも立たされてしまったら、もう終わりですわね」
「嘘が露見するかどうか、ではありませんのよ。そんな場に名前を出された時点で、もう負けたも同然」
遠巻きから声が聞こえる。声音には余裕がありそうなのに、近づくことすら恐れているのは明らかな距離だった。
同時に、正確でもある。
(真実の場が怖いのではなく、そこに立たされることが恐ろしい…)
社交界において、敗北とはあらかじめ予約されたもののようだ。配置に従って下される、裁きというにはあまりにも陳腐な結果。
だから皆、自分の名がそこへ記されないよう、その場に立たされないよう立ち回る。社交界デビューして間もないというのに、私は早くも現実の姿に失望しそうだった。
「今宵は金色か、ルミアリエル・エルネスティーヌ・フォン・ヴァルドシュタイン」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこに立っていたのは魔法適性試験の担当教授だった。
あのとき私の適性を飾りではなく力として見てくれた、数少ない大人だ。その威厳ある嗄れ声は華やかな小夜会において異質の響きを放ち、あの写しのように誰も近づけない威圧感があった。
私も背を正し、怯えを見せないように振る舞う。
「ご無沙汰しております、教授」
「うむ、楽にせよ。この場には珍しい気骨のある人間がいると思ったら、そなただったとはな。つい声をかけてしまった」
「恐縮です。誓約の重みについて考えておりましたわ」
かつん、杖をつく硬質な音が響く。その音が鳴るたび、近くから人が逃げていくようだ。
教授の目は私の招待状の色を眺めるように、どこかまばゆいものを見るように細められていた。
「誓約は必要だ、社会がルールに則って回るための力となる…しかし、誓約を誓う場ほど誰も彼もが逃げたがる。嘆かわしいことだとは思わんか」
「…おっしゃるとおりです。あそこへ立つくらいなら、多少の誤解は飲み込むほうがいい…それが賢明なことだとは、思いたくありません」
教授は躊躇なく丸卓へと近づき、まっすぐに写しを見据える。私も自然とそれにならい、ゆっくりと歩みを進めた。
周囲はそれを物珍しそうに一瞥しつつも、余計な噂を立てることはない。おそらく、この教授の胸元を彩るいくつもの勲章──魔法学に関するものが多そうだ──がそうさせていた。
「年齢を重ねた賢しい者は、若い世代に『少し具合が悪いことにして欠席するといい』と教えることもある。あるいは、『名前を覚えられる前に身を引け』とな。しかし、そうして誓約から逃げて何が解決する?」
「…いいえ、わたくしは解決するとは思いません」
「うむ」
私の返事を正しいとも間違っているとも言わず、ただ教授は頷いた。
多少の誤解や偽証、誘導。それらはいつも“多少”という言葉で矮小化されるけれど、積み重なれば真実を曲げる。
「制度を否定せず、それでも自分はそこへ近づかぬようにする…そうした臆病さを上品に隠すことばかり上手くなる。そうやって社交界へ出ていった人間は変わってゆくのだ。しかし、そなたたちは違うようだな」
教授は談話室の入り口に振り返る。そこにいたのはラフィー、私の補佐役だった。
彼女は周囲との会話を硬質な笑顔で受け流しつつ私のほうを見る。目が合うと教授へも会釈し、二人揃ってそれに頷いた。
まもなくそちらへ。抜かりなく進めております──そう言いたげに。
彼女はこの瞬間も、あの日誓ったとおり言葉の刃で周囲と斬り結んでいるのだろう。教授との会話を続けている私は、少しだけ彼女に申し訳なくなった。人が寄りつかない教授のそばは、戦場における緩衝地帯めいていた。
「手に取って、見てみるがよい」
「…失礼します」
教授に促され、私は丸卓の写しへ手を伸ばす。傍らに立っていた書記見習いが息を呑み、緊張した面持ちで羊皮紙を差し出してきた。
(欄は簡潔…同意者名、立会人、媒介紋章…それに、虚偽時帰結)
たったそれだけ。しかし、たったそれだけで人はここまで怯えてしまう。
同意と媒介が揃えば、嘘は紋章へと帰結する。盛大な見せ物にしようとしている割に、簡素で乾いた荒野へ立たせるような一枚だった。
「そなたが恐れるものはなんだ? 事実か? それとも事実が紙へと残されることか?」
「…違いますわ。誓約が舞台装置として利用され、そこに立たされる人間が見せ物として仕立て上げられること…正しさをないがしろにして、敗者の輪郭を押し付けられることです」
「真実は怖くないのか?」
「怖くありません。しかし、真実を話す前から裁かれる者として立たされることは…怖い」
教授との問答で、私は恐怖の姿を理解した。
私は今も、嘘を縛る力である誓約を必要なものだと信じているし、自分の魔法適性がそれであることに誇りを持っている。
けれど人は制度の正しさよりも、誓約の場にあげられた人間の恥と敗北を見ている。真実は“そこに立たされた事実”によって霞み、立たされた人間へ傷を刻むのだ。
「…怖いです。しかし、怖いことと逃げるかどうかの判断は別でありたい」
「左様。恐怖を知らぬは蛮勇、恐怖を知って立ち向かえば勇気となる。そなたの誓約が誇り高いままであることを願う。そして、調停の力を持つ者と手を取り合わんことを」
ラフィーがこちらへ向かってくるのと同時に、教授は会話を切り上げてゆっくりと歩き去った。歩くたびに杖の音が追従し、向かう先から人の集まりが切り開かれていく。
気付けば、胸の硬さがほんの少しだけやわらいでいた。恐怖を認めて縮こまるのではなく、どう制するか考えられるようになったからだろう。
小夜会によって詰まっていた呼吸が、ゆっくりと通っていった。
*
「教授、もうお帰りになられたのですか? わたしもお話を伺いたかったのですが…」
「心配しなくとも、また会えますわよ。私たちはまだ学生、そしてあの方は教師なのですから」
ラフィーと一緒に談話室を出ると、回廊の一段低い明かりに出迎えられた。広間に比べ、温度も低く感じる。
それでもまだ音楽はこちらまで届いていて、その音とラフィーの声を聞きながら、角を曲がった先の窓際で立ち止まった。
「…ルミア様、よいお顔をされています。おとぎ話の勇者のよう」
「お世辞が上手いのね。あいにく、この世界には魔王なんていませんから…本当に勇者になってしまえば、その力を危険視されて幽閉されそうですわね」
「うふふ、ルミア様なら黙って閉じ込められるつもりはないでしょう?」
「無論ですわ」
もっとも、今の状況もそう変わりありませんが。そんな皮肉は口にせずとも伝わるので、窓に触れながら息だけ吐いた。
ラフィーは微笑みながら私の隣に並ぶ。先ほどまで周囲と渡り合っていた名残か、白手袋の指先だけがわずかに強く重ねられていた。
「…ルミア様はお強いんですね」
「いいえ、わたくしは怖い。誓約そのものではなくて、それを利用して世界を歪める行為が。その行為によって、不当に傷つけられる者がいることが」
「…わたしも怖いです」
失礼だとは思いつつも、意外だと感じた。
私の臆病風に吹かれたような本音を笑い飛ばすかと思いきや、ラフィーは冗談には見えない声音で返事をする。
「ルミア様は真実を恐れません。ですが、そんなあなたを貶めるために場を整え、そこに立たされるというのは、怖いんです」
「……」
「しかも今回は、誰もがそれが正しいという顔で参加している。正しいと思えばこそ、傷つく人間がいても自己責任にされる」
こんなことなら、ラフィーにも教授の話を聞かせてあげたかった。彼との会話で恩恵を受けたのが自分だけという偶然に、少しだけ理不尽さを感じてしまう。
「…わたしの大切な人が真実を話したとしても、周囲は“断罪される人間”として先に読まれてしまうことが」
「…ふふっ」
同じ恐怖を抱えていたのだと知って、張りつめていたものが少しだけほどけた。何もおかしいことはないのに、つい笑ってしまった。
ラフィーは月を見るのをやめて私のほうに向き直る。普段はなんでも見透かすくせに、今は「なんで笑ったのですか?」と腹の底から不思議に思っているみたいだった。
「怖いと思っている自分を認めてあげなさい。勇気とは、何も考えずに立ち向かうことではない…教授からの受け売りですが」
「…よいお話を聞けたのですね」
ラフィーはくすっと笑い、体ごとこちらへ向き直る。
「怖いです。しかし、そう思っていてもあなたの隣に立つことを選びました」
「負けることを強いる舞台であっても?」
「はい。誰かに立たされるのではなく、自ら立つことを選んだ…そう胸を張りたい」
胸元に手を添えるラフィーの姿は、とても力強かった。
だから私も頷き、戦いへの誓いを新たにする。
「あなたの言葉がまた誰かの都合で汚されることは怖いですが、だからこそ、隣で正しさを証明するまで降りる気はありません」
「…ならば、この場で誓約をしてみましょうか」
自分の紋章に触れる。熱はなく、それでも曇っていないことは明らかだった。
月を映す窓ガラスみたいに、どこまでも透き通っているよう。
「わたくしは立ちます。宮廷の舞台へ」
「はい」
「あなたはどうしますか?」
「ルミア様の隣にいます。誰よりも近く、誰よりも正しくあるために」
その宣言に、紋章が一瞬だけ光った気がした。
彼女の返答は短く、いつものような触れ合いも、慰めの言葉もない。
ただ真実を誓うようにお互いの気持ちをさらけ出し、並べ、そして向いている方向を揃えた。
*
夜更けに部屋へ戻ると、レイナが机の上に新しい札を置いた。
「次回参列確認のための、補記札です」
「封書でもない、仮確認用ですか」
「そのようです。正面からの使者ではなく、裏手の実務便で届きました」
その挨拶もろくにない受領印だけを求める手順に、社交界らしい段階的な冷遇を感じ取る。
手に取って封蝋の色を確認すると、ますますそれを見せつけられた気がした。
(輝きを失ったような金…いえ、白になる前の宣告ですか)
それに触れると、指先まで冷えていく。
席次未定、前室待機…その案内に、中央から外すまでの猶予だと悟る。
「いきなりは突き落とさず、舞台開演に向けて下げていく…社交界らしいですわね」
レイナは神妙に頷き、私から札を受け取ってしかるべき場所に保管する。
誓約にまつわる噂を思い出す。紋章が曇るという話に、輝きを失いつつある封蝋が重なった。
その丁寧さを失わない根回しに、近い将来訪れる白を予期していた。




