第28話「言い換えの奪取」
聖女候補による厳かな奉灯、それを見守る列がほどける頃、南回廊で小さな悲鳴が上がった。
銀盆を抱えた少年補助役が、白い裾に足を取られてつまずいたのだ。盆の上の杯が滑るように落ち、葡萄酒が石床の上へ赤い地図を描く。それはあの日、インクをこぼしかけたリオネの姿を想起させた。
違いがあるとすれば、実際にこぼれてしまったこと、そしてここが容赦のない夜会であったことだろう。誰かが「聖女候補のお召し物が」と叫び、また別の誰かが「危ない」と声を上げる。人が駆け寄ったせいで、誰の袖が少年に触れたのかも、もう判然としなかった。
リオネは侍女たちに囲まれ、すぐ奥へ下がらされる。けれども視線だけは、その場へ釘のように残されていた。
(大事故ではない…でも、夜会では許されない乱れ…)
この一夜だけですっかり神経がすり減らされた私は、どのような言葉で割って入るべきか、その判断が大きく遅れる。
そしてこういう場合、私の隣にいる補佐役は、言われずとも代わりに動いてしまう。まるで『ルミア様ならそうした』とでも告げるように。
「下がってください。通路を空けて」
ラフィーが道を切り開き、やじ馬の壁を崩そうとした。
もちろん、声は柔らかいまま。
「リオネ様のお召し物は無事です。まずは給仕係を通し、床を拭く布をお願いします」
「ですが、今のは押されたのでしょう? わたくし、見ましたわ」
冷静に状況を収めようとするラフィーに対し、顔に年輪を刻んだ夫人が興奮を隠さずに言う。夜会慣れしているのだろう、『平穏よりも状況証拠を』とでも言いたげな口ぶりだった。
そんな相手でもラフィーは否定せず、いつものように主語を置き換え、刃ではなく言葉のヴェールで切り抜けようとする。
「押した、押していないの争いになりますと、退出導線全体が止まってしまいます。どうしてもとおっしゃるのなら、先に時刻と位置を記録しましょう。責任の切り分けはそれからでも遅くありません」
「けれど、怖い思いをした方もいるんですのよ?」
「はい、怖かったというお気持ちは否定いたしません」
夫人はなおも食い下がろうとしたが、ラフィーは正面からはぶつからず、補佐役の少年へとかがんだ。震える手から銀盆を受け取り、静かに目線を合わせる。
夜会の灯りを受けたその姿は、リオネとは別の神聖さをまとっていた。少なくとも、私の目には。
「提出文を作るのなら、見た順番と位置だけで。感想を先に置くと、誰かの言葉に飲まれてしまいますから」
わたしはそれを、何度も見てきました…そう続ける声に、その場のざわめきが一段ほど静かになる。
やがて駆けつけた給仕係が床を拭き、導線係が通路札を持ち直したことで、混乱は最小限にとどめられた。
(…助かりましたわ。わたくしがせねばならないことを、あなたは常に一歩先んじてやってのける。でも…)
ラフィーの手腕に自分の未熟さを痛感しつつ、私はどこかいやな予感を噛み殺していた。
手袋の下、紋章が疼く。冷たさと熱さが交互に走り、邪気の訪れみたいに皮膚を刺した。
「聞き取りにご協力願えますかな?」
「あ…」
そしてそれは、瞬時に的中した。
回廊の角、記録卓の前で、オレオン側近の一人が先ほどの少年へ聞き取りをしていた。それは協力の要請というには、あまりにも強い圧力だった。少年は蛇に睨まれた蛙みたいに固まっている。
「アストレア侯爵令嬢は、“怖かった”とは書かないようにおっしゃったのですね?」
「え、いや……」
「要するに、穏便に済ませるように迫られた…そう受け取ってよろしいですか?」
側近たちは穏やかだが、決して逃がさない。求める答えを口にするまで帰さぬという、尋問そのものの顔をしていた。
あと一押しされれば、少年は『そうだったかもしれない』と口にしてしまうだろう。
(おのれ…! でも…)
立場の弱い人間を気遣うような顔で、後ろ手に刃を隠して迫る。その見飽きた邪悪さに、つい一歩を踏み出す。
けれど、それ以上進めなかった。ここで私が割り込めば、『またルミアリエルが圧をかけた』という手札を与えるだけだと、冷静な自分が理解してしまったから。
ラフィーの翻訳は、人の言葉を受け取れる形へ整える技だった。私の立てた角を幾度も丸め、私だけでなく周囲まで助けてきた。
だが今、側近たちはその整え方そのものを逆手に取っている。「怖かった」という感想へ「威圧された」という骨組みを差し込み、記録へ固定しようとしていた。
記録卓の脇では写し係が二部目を作っている。一部は王太子側近へ、もう一部は儀礼局へ渡るのだろう。
(…甘かった…わたくしたちは…)
この場では、失言よりも整えられた文言のほうが恐ろしい。反論の余地を奪い続ける悪意は、夜より深い黒に染まっていた。
*
主広前へ戻る手前、列柱廊でラフィーが私へ追いついた。
いつもの位置、半歩後ろ。振り向いた先の双眸には、何も悪くないのに罪悪感を抱いている、脆く美しい責任感が宿っていた。
「…先ほどの聞き取り、見ましたの?」
「…はい。わたしの言い回しが招いたことです、弁解の余地もありません」
予想通り、ラフィーはすでに現状を把握していた。なんでも見通すその目が、今は自分を傷つける刃になっているのが、あまりにも痛々しい。
丁寧に謝罪をしてくる様子に、私は首を振った。
「責めてはいません。あなたでなくとも…いいえ、わたくしが同じことをしていたなら、もっと深い場所へ刃を立てられていたでしょう。そしてわたくしは、それを恐れて何もできなかった」
「…ルミア様」
ラフィーは間違っていない。強くて、正しくて、恐れを知らなかった。だから、その優しさが傷つけられた。
共闘を誓う前の私なら、その傷へ塩を塗るような言葉をかけていたかもしれない。今の私はそこまで愚かではない…そう思いたい。けれど、鋭さは消えない。
「…今夜は、わたくしから少し距離を取りなさい。必要事項以外、話しかけないほうがいいでしょう」
「……」
「…これは言い訳です。あなたがわたくしと話すたび、その言葉はわたくしの名を冠するようになる…これ以上、あなたの優しさを汚してはなりません」
「……はい、承知しました」
返答は従順だった。けれど、その前にほんのわずか睫毛が伏せられ、白手袋の指先が一度だけ強く重なった。
突き放すつもりはない。それをするのなら、共闘なんて受け入れないのだから。
だとしても胸が痛む。自分の言葉よりも、ラフィーの罪悪感へ寂しさが宿ったことが。
(…お父様、お母様。なぜ人間は、優しい人から傷ついていくのでしょう…わたくしではなく、なぜ、この子が…)
ちょうどそのとき、主広間にて次の舞曲が始まった。
人々は何事もなかったように列を作り、給仕は銀盆を片手に広間を行き来する。床の赤い染みは、悪い夢みたいに消えていた。
それでも言葉の痕跡だけは残り、学園から外へ、外から夜会へ、そしていつかは宮廷へと語り継がれていくのだろう。
(…責めずに距離を置くこと、それもまた残酷ですわね…)
夜会は多くのことを教えてくれたけれど、その事実が一番無慈悲に思えた。
*
以後の歓談において、ラフィーは命じたとおりに動いた。
紹介順、導線、席札の確認。必要な報告だけを、最低限の言葉で告げる。聞き慣れた軽口がなくなることは、こんなにも落ち着かなかった。
(…なんて冷たい笑顔…無理に笑うこと、ありませんのに)
その微笑みは仮面みたいに整いすぎていて、温度がまったく感じられない。春の陽光みたいな少女は、冬の雲をまとった大人になっていた。
「…少し付き合いなさい。連絡事項があります」
見ていられない…そんな理由で動く私は、やはり未熟者なのだろう。それでも後悔はなかった。
中庭へ出る小扉の前でラフィーを呼び止める。彼女は「かしこまりました」と崩れない笑みのまま、それでも素直に従ってくれた。
私は給仕係から受け取った温茶を一つ差し出す。彼女は少しだけ目を丸くした。
「…ええと…そう、喉を冷やすと、声まで硬くなりますわよ」
…もしかしなくても、わたくしは人付き合いが苦手なのでは…。
自分の不器用な言い方に、口元がひくつく。
けれど杯を受け取ったラフィーの表情から、わずかに力が抜けたのを見て、何もしないよりはましだと信じられた。
「…お気遣い、ありがとうございます」
「…先ほどの命令ですが、あなたを切り捨てたい、とは思っておりません」
「わかっていますよ。私たちは共闘者なんですから」
「わかっていない顔をしていたから、我ながら似合わないことをしたんですのよ」
珍しく、ラフィーは困ったように目を伏せた。お茶を一口飲み、静かに息を吐く。
「…こういうことは、これまでもなかったわけじゃありません。でも、それでもわたしは笑って誤魔化してきた…なのに、今宵はうまくいかないんです」
「……」
「わたしが全然お役に立てないのって、もしかしたら初めてかもしれませんね」
調子に乗っているみたいな言い方だったけれど、半分しか本当ではない。彼女は有能で、今も役立っている。ただ、それが敵にとっても役立ってしまっただけだ。
「……あ」
見ていられない、だけじゃない。そうすべきだという衝動が、迷いを追い越した。
私は彼女の袖口へ、指先だけ触れる。
「手を離せ、とは言っておりません」
「…存じております」
「わかっていない顔です。この距離は、あなたを守るために置いたつもり…あなたを一人にはしません」
何を口走っているのだろう。その疑問に、紋章と頬が同時に熱を帯びた。
それでもラフィーはゆっくり息を整え、仮面の下から、ようやく少しだけいつもの笑みを取り戻した。完全ではない。その不完全さが、かえって救いだった。
「…ルミア様がそう言ってくださるのなら、わたしはまだ戦えます」
「当然です。わたくしの補佐なのですから」
「はい。今度は言い換えられたとしても、決して折られない形で整えてご覧に入れます」
「…物騒なのは控えなさい」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
そのささやかな息継ぎが終わった直後、硬い靴音がこちらへ近づいてきた。
「ヴァルドシュタイン公爵令嬢、ルミアリエル様。公開聴聞並びに断罪審議予告会への正式招請でございます。受領署名を」
すぐさま手を離して振り向くと、王城儀礼局の徽章をつけた書記官が、銀盆に白表紙の封書を二通載せていた。
白蝋の封。端に黒金の細線。祝意ではなく、手続きの冷たさを示す色だった。
余計なことを考える前に署名すると、書記官はもう一通を持ち上げる。
「アストレア侯爵令嬢、ラフィエラ様。証言文整理への関与に関する照会、ならびに同席資格の仮制限通知です」
ラフィエラは一瞬だけ目を細め、それでも私と同じく丁寧に署名した。用事は終わったとばかりに書記官は去っていく。
封書へ差し込まれていた別紙を開く。見出しは、『事前紹介事項』。
一、南回廊小騒動における威圧発言の有無
一、アストレア侯爵令嬢による証言文言調整(穏便化要請)の有無
一、聖女候補保全を名目とした導線干渉の有無
たった三行で、王太子側近の仕事の速さを知る。
今夜の出来事は、すでに私たちの手を離れていた。
ラフィーを見る。せっかく取り戻しかけた息継ぎは、言葉の安全地帯ごと奪われて、ふたたび静かに引き締まっていた。
招請が届いたことで、断罪は予告ではなく確定した。わかっていたはずの展開が、夜会の奏でる音の上で、くっきりと姿を持っていた。




