第21話「翻訳の行き違い」
屋敷で英気を養った翌朝。私室の机へ置かれた記録束には、新しい仕切り紙が増えていた。
薄灰色の紙片には、レイナらしい癖のない字でこう書かれている。
『口頭伝達は変形しやすいため、文書との差異にご注意を』
「…有益な時間だったようですね」
レイナらしい実直な忠告に、つい独りごちる。
昨夜の会話を思い出せば、これがただの注意書きではないことはわかった。
言葉は記録になる前に、誰かの口で少しずつ形を変える。善意で書かれた文ですら、別の場所では悪意に汚されるかもしれない。
歯ぎしりしたくなる。自分の言葉だけでなく、そばにいる善良な人間までもが折られようとしている状況は、あまりにも腹立たしかった。
それでも私は学校へ戻る。こうして心を砕いてくれる存在のためにも、決して逃げない。
紙片を記録束の一番上へ差し込み、朝食の支度へ向かった。
*
午前の講義はレイナたちの献身もあり、つつがなくこなせた。けれど、問題はこのあとだった。
講義後に向かった学園祭実務室には、関連した提出物の束が集まり始めている。
(開会式当日の導線、来賓案内、補助役の交替記録……小さな不備でも、積み重なると骨ですわね)
一枚ごとの負担はさほどでもない。だが、こういうものほど後回しにすると腐る。
「相変わらず几帳面ですわね」
「ええ、先日はレイナさんと楽しくお話ができましたので」
長机の上には通達文の控えと各係の報告書が並び、ラフィエラは不足箇所へ逐一付箋を貼っていた。
ほかの人間にも見やすいように、そして自分が確認したことを明確にするため。その手つきに感心しつつ指摘すると、ラフィエラはふんわり笑う。
「…レイナと会うこと、そして話すことはわたくしが許可しました。けれど、『余計なこと』まで教え合うのを許した覚えはありません」
「ご心配には及びません。わたしもレイナさんも『ルミア推し』ですから、ルミア様に関わる内容で余計なことなんて一つもありません」
「ちょっと…! レイナに余計なことを吹き込むのはやめてくださいまし!」
…やっぱり、昨日のわたくしの判断は間違いだったのでしょうか…。
ラフィエラの意味ありげな微笑みに、ぞわぞわとした不安が背中を駆け巡る。けれどそれは、討論のような疲労を背負わせはしなかった。
「失礼いたします。開会式に関する報告書をお持ちしました…」
控えめなノックに無駄話を打ち切って振り向く。立っていたのは一年の補助役と思わしき少女で、私を見た途端にわかりやすく肩を強張らせた。
たしか昨日、北棟の来賓導線で名を呼ばれていた顔だ。それ自体は問題ではない。けれど、差し出された紙を受け取って内容を見た瞬間、手が止まった。
『南回廊にて、来賓導線へ誤って搬入車を入れかけた。ルミアリエル様に止められ、怖くなった。以後、気をつけたいと思う』
私の名前があるのはいい。実際に止めたのだから。
けれど、このまま残すにはあまりにも不十分だった。
「あなた、名前は?」
「は、はい、フェリスと申します」
「フェリス。『怖くなった』というのは感想であって、記録にはなりません。いつ、どの位置で、誰が搬入車を押していたのか。何が怖かったのか。反省すべき点はどこなのか、きちんと書きなさい」
つい声が硬くなる。責めるつもりはない。けれど、この曖昧さが身を滅ぼすことを知っているから、そのまま残すわけにはいかなかった。
「も、申し訳ございません…これが適切だと、先輩方に」
「謝罪は求めておりません。それと、指摘を受け入れることは大事ですが、自分の頭で考え、自分の言葉で──」
そこで、ラフィエラが椅子を引いた。
その小さな音はいつもより間がなく、柔らかな笑みのまま、机に置いた指先だけが紙端を強く押さえていた。
「大丈夫ですよ、フェリスさん。怖かったこと自体は悪くありません、ただ…」
ラフィエラは報告書を覗き込み、少女と目線を合わせて微笑んだ。
言い方は柔らかい。けれどそれは、相手を逃さないよう真綿で縛るような踏み込みだった。
「あとから誰かが困らないように、順番と詳細を整えましょう。今から書き直しても咎める人はいませんし、あなたの失点にもなりません」
「…で、では…搬入車を押していたのは私ではなく、二年の案内係です。私は後ろで札を持っていて、止まりきれなくて」
「…なら、そう書けば結構です。止めた位置も覚えている範囲で。反省点も、もう少し具体的に」
フェリスは何度も頷きながら、近くの机で書き直しを始めた。その必死な姿に、私とラフィエラは少しだけ昔の自分を思い出す。
だからこそ気づけなかった。少し離れた棚の脇から、二人の上級生がこちらを見ていたことに。
*
数分後、整え直された報告書が戻ってきた。
「時刻、位置、搬入車を押していた二年案内係の名、怖いと感じた理由……必要なものは揃っていますわね」
「ええ、これなら記録として残せます」
特に筆圧の強い部分…『怖くなった』という短い語を、ラフィエラと一緒に眺める。
そこだけが妙に濃い。感情だけを先に正式なものとして残そうとしたみたいだった。けれど今は修正が重なり、『大事故につながると思ったら怖くなった』という反省文になっている。
書類は一枚ごとなら軽い。だが束になれば、空気ごと重くする。『言い方が怖かった』『止められて泣きそうになった』…そうした文が事実の顔をして残れば、いつか牙をむく。
「ふう…こういうのが多いと、書類作成に関する講義はもっと増やすべきだと感じますわね」
「おっしゃるとおりです。誰もがルミア様みたいに、一枚一枚へ真実を込めてくれるのならよかったのですが」
隣にいる人間にしか聞こえない小さなぼやきに、ラフィエラも同じくらいの声で返す。それでも彼女の手は止まらない。
横目で見れば、私が立てた角を、書き手が萎縮しない形へ整え直している。いつものように、受け取られる言葉へと翻訳しているのだ。
(…必要なこと。だけど、そのきれいな手つきは、今日は少しだけ鋭すぎる…)
自分の中に生まれた冷たい吐息に、背骨がごくわずかに震えた。
そして提出を終えた別の生徒が部屋を出ていく刹那、入れ替わるようにして廊下から密やかな声が流れ込む。
「書き直してもお咎めなし、どういうことかしら?」
「今のうちに整えろ、ということでしょう? あんなことが続きましたもの、警戒されているのでは?」
笑いを含む軽い噂話。
手元の紙から目を離すと、開け放した扉の向こうで、先ほどの上級生たちがわざと聞こえるような位置に立っていた。
屋敷で過ごす時間があると、こういう声に晒されずに済む。だからこそ、耐性が少し鈍るのかもしれない。けれどフェリスまで勝手な想像に巻き込まれるのは…そう思ったときだった。
「違いますわ」
「…ラフィエラ様?」
私が口を開くより先に、ラフィエラは立ち上がっていた。
上級生たちのほうへ向かい、会釈しつつ訂正する。
微笑みは崩れていない。なのに、先日のレイナと同じ種類の鋭さが、その奥で薄く光って見えた。
「記録の精度を上げるために協力してもらいました。誰かにとって都合よく直させる、そんなことは決してありません」
「まあ、そういう意味でしたの?」
「もちろんです。余計な誤解が生まれたら、皆様のお名前まで検めないといけませんから」
「あら、それはそれは…失礼いたしました」
上級生たちは肩をすくめ、あくまでも上品に去っていく。
これで誤解が払拭できたと考えるのは、いささか楽観的だろう。去り際の彼女たちの目には、まだ疑いが残っていた。私は何度も、ああいう目を向けられてきたからわかる。
「誤解があると、皆様のお名前までもが疑わしく見えてくる…わかっていただけたらよかったのですが」
「…そうですわね。でも、先ほどの言い方は」
「え?」
戻ってきたラフィエラに声をかける。彼女は親切だ。けれど、それが他人の口からも同じ形で語られるとは限らない。
先ほどの訂正も、『名前が残る前に直せ』という脅しのように受け取られはしないだろうか。
…ラフィエラ、あなたは。なぜ今日は、そんなにも強く迫るのです?
「…いいえ、なんでもありません。続き、済ませますわよ」
「はい、お任せを」
続きは口にできなかった。理由はわかる。
先日、限界を迎えた私を、この子もレイナも責めずに支えてくれた。その二人が手を組んだせいで、もう歯止めが利きにくくなっているのだとしても、私に「危ないからやめなさい」とは言えない。
(けれど、わたくしを助けようとして…その助けが、自分自身を裏切ることになったら?)
作業を再開したラフィエラの横顔は、ぞっとするほど美しく、業物の刀身みたいに冴えていた。
そこから振るわれる刃が、彼女やレイナを傷つけるのだとしたら。そう思うと、これまでのような軽口も出てこない。
…それを寂しいと思ってしまった自分を誤魔化すのも、そろそろ難しかった。
いつも通りに見えるラフィエラへ何も言えないまま、私たちは慎重に書類整理を進めていった。
*
午後になって実務室から解放されると、本館中央廊下の掲示板に新しい通達文が貼り出されているのが見えた。
『公開模擬裁定の開催日程について』
白い厚紙には校章の押し印があり、人を集めるのに十分な格式を漂わせている。
私とラフィエラは足を止め、内容を確認した。
七日後。本館大講堂。傍聴可。
発言順、証言提出期限、事前記録の閲覧申請について。
整然と並ぶ文面は、断頭台の刃みたいに冷たかった。
(誰が前列に座り、誰が証言を出すのか。どの言い回しが正式なものとして固定されるのか…)
そのすべてが、わずか七日後に決まる。
「…早いものですね」
「ええ、逃さないために急いでいるのでしょう。兵は拙速を尊ぶ、とはよく言ったものです」
書類整理から離れたせいか、いつもの軽口が戻る。けれど、その奥に闘争心が混じっているのも明白だった。
「怖い思いをした方は出してよいのですって」
「穏便に済ませるよう迫られた件も、証言になるのでは?」
ラフィエラの視線の先、掲示板前ではすでに口頭伝達が始まっていた。
先ほどの話も提出物として固まりつつあり、名前を出さずとも誰のことか察せずにはいられない。証言の提出期限は三日後、思ったよりも近い。
それについても何か言おうとして、やめる。ラフィエラもまた、似たような沈黙を保っていた。
(…並んで立っているのに、会話が遠い。だけど私たちは、今さら離れるわけにもいかない)
歪められた言葉が、まもなく証言として固められる。だからこそ、私たちもすぐ動かなければならない。
それでも今すぐ交わせる言葉を見つけられないまま、私たちは掲示板の白い紙を眺めていた。春の光を反射するそれは、目が痛むほど明るかった。




