第19話「婚約者の席」
学園祭の開会式に先立つ公式昼餐会場は、本館奥の長広間でおこなわれる。高窓の光が白布の卓上へまっすぐ降り注ぎ、磨かれたカトラリーが冷たくそれを弾いていた。
誰がどこの卓へ座るかは入り口脇の掲示板へ貼り出され、来賓も生徒も皆がそこで一度だけ足を止める。無論、私も。
(…席次表の残酷さにも、随分と慣れてしまいましたわね)
足を止めるけれど、まじまじとは見ない。
紙の端を追うと、王太子席、学園長、聖堂陪席、名誉来賓といった、昼餐会主賓の錚々たる名が並んでいた。
そして当然のように、私の名前はそこになかった。代わりに少し離れた卓に、ヴァルドシュタイン公爵家令嬢としての席がある。王太子と同列ではあっても、隣ではない。
家名だけが記され、婚約者としての説明は消えていた。元より家名あってこその婚約だったけれど、今やそれ以外に価値はないと思われているのかもしれない。
(…しかも、オレオンのすぐ横にはリオネ…お膳立てにご執心ですのね)
王太子の横に置かれた名目、それは学園祭における聖堂陪席補助…リオネ・ヴィオレッタ・ド・グレイヴ。
近年、衆目だけでなく王太子からの注目も集めるようになった聖女候補。婚約者の代わりに隣へ置くには、慣例を破るに足る名目なのだろう。
それを実行する前になんの説明もなかったことに、私の腹の底はようやく冷えてきた。だとしても、いまだに恋が破れたような痛みは…ない。
「まあ…王太子様、やっぱり…」
「で、ですが、聖女候補様ですから…聖堂側の陪席として、自然…だと、思います…」
すぐ後ろからそんな声が聞こえる。扇子で口元を隠しながら振り向くと、そこにいた二人の令嬢の片方には見覚えがあった。おそらく、剣術の授業で手を痛めたあの後輩だろう。
気まずそうなやりとりに滲む気遣いが、冷えた腹へわずかに温度を戻す。それでも目が合う前に、私は掲示板の前からゆっくりと離れた。
こういうとき、長く呆然と見ていると『今になって冷遇を知った間抜けな悪役令嬢の結末』に見えてしまう。そんな姿を晒せば、あの後輩の精いっぱいの言葉まで無為にするだろう。
(…にしても。リオネを手元に置こうとしつつも、婚約という檻は維持する…お母様が教えてくださったように、殿方はかくも欲張りなのですね)
くくっ、と自嘲が漏れそうになり、また扇子で口元を隠す。
形式上は残された婚約関係。それでも公の席では私を遠ざけ、破棄とは言わずに配置だけを見直す…今さらながら、リオネもまた私の弱さゆえの被害者なのだと痛感した。
「確認はお済みですか? もう、先に行かれるなんて…水臭いです」
「レイナは優秀です、準備にさほどの時間も必要ありませんので」
後ろから近づく丁寧な足音に、ラフィエラが来たのだとすぐに察する。
…気配だけでわかるようになるなんて、私もこの子のことが言えませんわね…。
子犬のような抗議にすげなく返すと、彼女は掲示板を一瞥し、「あら…」と小さく息を吐いた。驚く様子がないのは、昨日のうちにこうした展開を読んでいたからだろう。
「婚約者席、という項目自体が消えておりますね」
「ええ、見事なものです。聖女候補の存在が正論となり、わたくしを追いやって、さらには隣もなくしている…」
ラフィエラが横にいると、私の口は軽くなるらしい。胸の内に沈めていた自嘲が冗談めいて零れ、それが甘えのようで自分に苛立つ。
それでも、口は止まってくれなかった。
「ルミアリエル様、お席はこちらです」
そのとき、広間係の教師がこちらへ近づき、私の卓を示した。家の格から考えれば失礼にはならず、それでいて周囲に『婚約者としては明らかに遠い』と理解させる位置だった。
「…異議がございますか?」
「…!」
不安げに尋ねられ、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
まだ言わないでください。大丈夫、わたしがいます。
手袋越しの人差し指に、ラフィエラの合図が伝わる。一度きりの動作なのに、私の皮膚はその感触を数度リフレインした。
腹立たしいほど的確なタイミングに、私は声を出さず教師へ礼をする。相手は揉めずに済んだことへ露骨に安堵して、「承知いたしました」と返事をした。
「…また使いましたわね」
「必要なら何度でも」
「…控えてくださいまし。あのときより人が多いのです」
「うふふ」
席へ向かいつつ小声で刺しておく。しかし彼女はふにゃふにゃと笑うだけで、きっとまたやるのだろう。
会釈しつつ道を空ける令嬢たちの視線を受け止めながら、王太子卓から離れていく。誰もが正しい距離の取り方を心得ているようで、余計な噂話はない。
代わりに向けられる視線の肌触りから、憐憫、納得、安堵を感じ取る。誰もが『自分が同じように外されなくてよかった』という気持ちを隠し切れていなかった。
卓に着くと、隣の席だけがぽっかりと空いていた。華やかな昼餐会の中で、ここだけが隔離されているように。
ここまで念入りだと怒りも笑いも通り越し、相手の必死さを哀れみたくなる。もっとも、憐憫を集めているのは私のほうだけれど。
だとしても…続くラフィエラの行動は、間違いなく哀れみに起因していなかった。
「昼餐会、どんな食事が出てくるか楽しみですね」
「…一応言っておきます。あなたの席、ここではありませんでしたわよね?」
「ルミア様のお隣が空いているのは、わたし用に確保されているから…なんという奥ゆかしい気遣いなのでしょうか?」
ラフィエラは当然のように隣の椅子へ手をかけた。
私が口の端をひくつかせているあいだも、慌てた広間係がやって来るまで、彼女は「ルミア様、今日はケーキも出てくるといいですね」などと世間話をしている。
…ケーキ…たしかに、出てきて欲しいですけれど…。
「あ、アストレア様…そのお席は」
「はい、ご用意ありがとうございます。ラフィエラ・セラフィーナ・ド・アストレア、来賓補佐の名目にてルミアリエル様と同席させていただきます」
困惑を意に介さず、ラフィエラは楽しげに続けた。
「王太子殿下のお隣は、学園と聖堂で十分お守りいただけているようなので。それでしたら、空席になってしまったルミア様のお隣を守る人間も必要でしょう? 本日は学園の外からいらっしゃる方も多いですもの、脇にだけ不自然な空白を残すことは配慮が足りない催しだと思われてしまいます」
柔らかい声で、相手の反論を先回りして封じる。そのやりとりに、近くの令嬢たちまでもが成り行きを見守るように、わずかに空気が張りつめた。
「…では、記録係へ一言いただけますと…」
「もちろんです、ありがとうございます」
来賓補佐という名目は正当性がありすぎるのか、広間係は反論を諦めて引いていった。
「…本当に、余計な気遣いばかり…」
「社交界の予行演習としては最適です。ましてや、ルミア様のお隣を誰も守らないというのなら…わたしがやらなくては。いいえ、誰にもやらせません」
「お、お馬鹿…! 言葉を選びなさい…!」
それは宣言として、あまりにも強すぎた。
たしかに社交界向きの気遣いとして成り立っている。けれど、あんなふうに言われては。
恐怖を覚えつつも、安堵する自分がますます憎らしい。
(こんなふうに動けば、向こうだってますますラフィエラを目障りだと捉える…わたくし一人の問題じゃなくて、アストレアの一族にまで及ぶ…なんでわかってくれませんの…!)
今からでも遅くない。あの日、この子を切り捨てるために使った言葉を…もう一度。
けれど、それはもう出てくる気配がなかった。
それどころか、隣の空席にこの子の気配があることで、胸は一息ついてしまう。
昼餐会が始まるまで意味ありげに睨んでも、ラフィエラは「お茶もケーキも甘いといいですね」なんてのんきなままだった。
*
昼餐が始まっても、料理を味わう余裕はなかった。
理由は隣にいるラフィエラ…ではなく、前方の卓。
(オレオン、わたくし相手と違って穏やかですこと…リオネは、随分と微笑みを作るのが上手くなって…)
オレオンは学園長へそつなく応じ、リオネは聖堂陪席として微笑みを顔へ張り付けていた。乾杯のたび視線が二人へ集まり、王太子の金の刺繍に聖女候補の白が寄り添う様子は、絵本の表紙めいて完璧だった。
その外へ押し出された私の卓には、淡い金のスープと香草を散らした白身魚、艶のよい焼き菓子が並ぶ。けれど匙を入れても味は薄く、喉を通るころには冷たい水のようだった。
それでも完璧な作法で食事を続けるラフィエラがいることで、私たちは完全に排除されているわけではなくなる。
「ヴァルドシュタイン家は展示監修もなさっているとか」
「導線の調整には心を砕かれたと聞いております」
どれも当たり障りのない問いかけばかり。けれど、誰一人として婚約については触れない。そのくせ向けられる目にはそれを尋ねる色が含まれていて、見ているだけで疲労が積み重なった。
指先が冷え、返事のたびに喉の奥が少しずつ狭くなる。それでも必要なことを率直に答え続けていたら、ラフィエラが横から私の返事に丸みを持たせる。
「ええ、皆様にお怪我がないように」
「はわぁ…さすがでございます」
討論の際もそうしたように、私の言葉の角へ薄い布をかける。たったそれだけで、尋ねてくる人間たちの態度まで軟化していった。
(…今日に限っては、それが救いに感じている…悔しいですわね…)
ラフィエラがかけるその布は、私の存在を朧にする。けれどオレオンのように『存在を否定する』という乱暴なものではなく、悪意から隠してくれる覆いに近かった。
給仕が優先順位に迷い、私への水差しを後回しにしかけたときも、ラフィエラは何も言わず私たちのグラスを整え、柔らかく相手へ促す。前方の卓から、オレオンの視線が一瞬だけこちらをかすめた気がしたが、次の瞬間にはもう消えていた。
「そろそろ立礼ですね…一緒に行きましょう」
「…っ。いえ、ちょっとだけ一人に」
全員が席を立つころ、私の足は自分一人の重さを支え切れないほど力が抜けていた。それでも姿勢だけは保ち、一人で広間の外へ出る。廊下に出た瞬間、壁際の石の冷たさが妙に心地よかった。
「ルミア様」
「…一人にして、と申し上げたはずです」
「おつらそうでしたので」
「なら、ほうっておいて」
突き放すように返したつもり、だった。
細った声はラフィエラを追い払うには至らず、それでも最後の一歩の距離は詰めてこない。じいっと、少女と淑女の狭間に揺れる愛らしい顔を向けられて、今も広間で繰り広げられる語らいが遠くに感じた。
ラフィエラは…私を弱くするのではなくて。
私は元々弱かったことを教えるような、そんな女性でもあったのだろう。
「…屋敷に戻れば休めます」
「ええ、久々の休養ですもの。でも、戻れるまでは…わたしに支えさせてください。戻れたらレイナさんがいますので、わたしも安心できます」
「…よくわかってますのね」
あの屋敷に戻れば、ラフィエラと少しのあいだだけ離れる。だから、自分の弱さを見つめ直したい。
そう信じて口にしたら、ラフィエラは知ったような返事をした。それが私を奮い立たせ、また戦場へと戻らせる。
彼女は、私の肘を取ろうとはしない。代わりに、私がよろめいたらすぐに支えられる位置にいる。すぐに介入しないその甘さは、味のわからなかったケーキよりもよっぽど甘かった。
今日の疲れは、とくにひどい。嫌われることに慣れていても、公の席で静かに消されるということは、私一人で耐えるには厳しい戦いだったのだろう。
正体不明の重みに耐えながら歩く私の側を、ラフィエラは片時も離れなかった。




