第18話「契約魔法の制約」
契約魔法のための紋章学講義は、感情の逃げ場を廃するような雰囲気に満ちていた。
教室にはいつもの教本のほかに、小さな媒介物もいくつか並べられている。銀の指環、家紋入りの封蝋、署名済みの羊皮紙。どれも手のひらに乗る程度の大きさなのに、卓上では妙に存在感があった。
(…思えば、あの女には…契約の有無に関係なく、振り回され続けたものです)
私にとってそれらはすべて、ライバル令嬢との日々を思い出させる。人の関係は契約だけでは成り立たないのだと、こんな形で思い知らされる今に心がざわついた。
『契約魔法は気持ちではなく、【同意】【媒介】【記録】にて成立する』
担当教授は最初の一行を黒板に書き記し、それが授業の開始を告げる。
いずれの単語も契約の重みを感じさせた。
「諸君も知っていると思うが、好意は契約の効力たりえない。条件、同意、媒介、記録…これらが揃って初めて、“結び”は法と魔法の両方で意味を成す。我々の社会を構成する婚約、盟約、後見、いずれも同じだ」
どの単語も現実を伝えるのに十分な重さがあったけれど、一番私たちを意識させたのは、きっと『婚約』。
(私たちにとって婚約は、契約の一種であり魔法。そこに含まれる感情は、家同士の政治の前ではあまりにも儚い…)
教授はそうした教室の機微をあえて無視するように、媒介物の一つである欠けた封蝋を見せた。
「同意があっても、媒介が脆弱ならいつか争いとなる。記録があっても、誰がいつ触れたか残っていなければすり替えられる。契約とは成立の瞬間より、その後に揉めない形を先に作る術であり、そして魔法だ」
かつては口約束。それが書類として残るようになり、やがて魔法の力でもってより強固になったもの…それが契約。
そうした社会の繁栄は、私たちにどれほどの幸福と、そして責任を与えてきたのだろうか?
「逆に言うと、同意が曖昧な契約は脆くなる。誰と誰のためなのかわからないと、記録は意味を成さなくなる。好意といった感情だけで契約を履行しようとすれば、待ち受けるのは破滅だ」
その言葉に、机上の指環がやけに目に付いた。
(…オレオンとの婚約に使われた媒介物も、これくらい冷たい光を放ってましたわね)
聞いたところによると、庶民にとっての婚約は『恋愛』が結びとなるらしい。それを羨ましいと思ったことはない。
私は恋を知らない。知らないものを羨むのは、夜空の星に手を伸ばすようなものだった。
だからオレオンとの婚約も、恋の始まりではなく…もっと静かで、もっと重い合意でしかなかった。
*
歴史あるヴァルドシュタイン公爵家と、偉大なる王家。
その家名を結ぶ政治契約が結ばれたとき、幼い私は意味の半分も理解していなかった。ただ、格式のある広間で羊皮紙に互いの家名が並び、媒介として細く優美な指環が示され、居並ぶ大人たちが満足げに頷いていた光景だけは覚えている。
だから私も「これはいいことなんだ」と思い、まだ私の指には大きかった指環を、お母様に支えられながら見つめていた。そのときは、こんな淑女になりたいとさえ思ったものだ。
だけどお父様は普段以上に厳しい表情で、王家側の証人が「これで両家はより安定する」と告げる様子を無言で見つめていた。あとでお母様が「ルミアはあの人から強く愛されているのですよ」とこっそり教えてくれたから、誰も幸福とは言わなかったその光景に対しても、私は無邪気に喜んだ。
あのときの私の頷きが、果たして同意と呼べるものだったのかは、今でもわからない。
そして当時のオレオンは、今ほど露骨に冷たくはなかった。
何度接しても好意を見せてくれたわけではないけれど、少なくとも私を“王家のために必要な存在の一つ”とは認めてくれていた。王家と公爵家が並び、公爵令嬢が王太子に尽くす。その絵面に価値があったから、だろう。
けれど、聖女候補であるリオネが“より象徴として扱いやすい存在”になってからは違った。
国を思って筋を通せば通すほど、私は従順なお飾りから遠ざかる。フェンシングでも討論でも彼が望むような形で負けてやることはできなくて、ただ私は、『あなたは誰よりも正しくないといけないからこそ、誰よりも強くなって』と願っていた。
それは私にとっての正しさでも、オレオンにとってはエゴだったのだろう。
優しいからこそ揺れやすく、周囲が勝手に意味を足していける聖女候補が現れたことで、私との婚約は“いかにして正当に終わらせるか”という縛りになった。
距離を取り、席をずらし、噂を泳がせ、正義を悪へと反転させる。そうして私は、いつか“王太子には元々ふさわしくなかった悪役令嬢”という記号へ押し込められていくのだろう。
その小さな悪意の積み重ねの中にあっても、私はなお、失恋の痛みを知ることができなかった──。
*
教授が杖で床を叩く音により、私は今も痛痒を訴えない心を現在へと引き戻す。
「契約は相手を縛るためだけのものではない。順番と責任を、あとから奪わせないための枠組みでもある…契約は大きな力だが、ゆえに悪用も、なにより反故にすることも許されぬ」
羊皮紙の端をめくる教授の言葉に、思わず顔が上がる。
(記録、署名、封蝋、立会人…ラフィエラが残そうとしているものと、同じ)
まさかこうして授業でも振り返ることになるなんて思わず、ついラフィエラのほうを見る。彼女は真面目に講義へ耳を傾けていて、決して私のほうを見ない。
それでいいはずなのに、彼女を見ただけでわずかにでも熱を持ちそうになった紋章を押さえながら、私もまた講義へと集中した。
*
講義が終わったあと、教室を出る流れへ身を任せるふりをして、なんとなく──ええ、本当になんとなく──ラフィエラの近くを通る。すると彼女は、何も言わずに私の隣へ並んだ。
「うふふ、お迎えをしていただけるなんて…顔、緩んでしまいます」
「…何たる見当外れな言葉ですか。バカなことを言ってないで、行きますわよ」
「はいっ…わわっ」
「もう、言ったそばから…」
彼女の軽口に応じつつ、それでも隣り合って教室を出ようとした直後だった。
後ろから歩いてきた令息を避けようとしたラフィエラは足をもつれさせ、危うく倒れそうになる。私はほとんど反射的にその手を取って、なんとか転倒を阻止した。
ラフィエラはきょとんと私を見たかと思ったら、ぽうっ、と頬に桃色の花を咲かせた。その顔に、私までも「余計なことをした」と理解して手を離す。
「…あの、危ない場面での合図、決めておきませんか?」
「…本当に唐突ですね、あなたは…」
離れていった手を惜しむように、ラフィエラは一瞬だけ自分の手へ視線を落とす。その仕草に、心がむず痒くなった。
「これからも隣にいるなら、『話すな』『待て』『今は引け』、それくらいは決めておいたほうが役立つと思うんです」
「犬みたいですわね…」
「ですが、言葉を挟む暇すら惜しい場面はあるでしょう?」
「…ふむ」
公開討論、聖堂での講話、来賓茶会。言選りの時間が惜しい場面は、確かにある。
教室を出た廊下はすでに人もまばらで、この合図を自分たち以外に知られることもない。
「…一応聞きますが、どんなものですか」
「手袋越しに人差し指に触れて、一度なら“まだ言わないで”」
「…二度なら?」
「即座に離れてください。あとはわたしにお任せを」
「大した自信で…」
「こんなふうに、ですね」
その勝手な取り決めをどんなふうに断ろうかと思っていたら、ラフィエラは手袋越しに、私の人差し指にそっと触れた。
その短い接触は、身振りのついでとでも強弁できそうなほどささやかだった。けれど、そこに意味が生まれた瞬間、私の紋章は落ち着かなげに明滅する。喉までせり上がっていた言葉が、その一触で行き場を失った。
「…体に触れる意味、ありますの?」
「あります」
「あなたにとっては、でしょう?」
「もちろんです。そして、いつかルミア様にも意味を感じていただけるようにがんばります」
きっぱりと肯定するラフィエラに対し、私は言い返すのをやめた。
私にとっても意味があるとか、ましてや触れたいとか…そういうのではない。そう思っても、ニコニコしているラフィエラへ押し付ける拒絶は出てこなかった。
「ルミアリエル。機嫌がよさそうだな」
その直後、廊下の向こうからオレオンが現れた。見飽きた側近二人を連れて、こちらへと歩いてくる。
その通りすがりとしては圧力のある歩みに、逃げるようにすれ違うという選択肢は潰された。
…いや、そもそも上機嫌ではないのですが。
「最近、目立つ振る舞いが多いと聞いている」
「その場において必要なことを、学園の規定に従ってお伝えしておりますわ。目立つつもりはございません」
一礼して返すと、側近たちは露骨に眉をひそめた。言い返せない正論だとわかっている顔だった。
「婚約者としての体裁をないがしろにすれば、それも規定を乱すことになる」
「…お言葉ですが」
「それだ。お前が不用意に異を唱えれば、王家と公爵家の不和として見られるぞ。できることなら、今からでも自分一人の正しさではなく、全体の体面を優先してもらいたいものだが」
私の正論を封じるように、正論の顔をした都合が押し付けられる。
「学園祭にせよ、公開討論にせよ、私の婚約者としての振る舞いを守れ。無用な解釈が続くようなら…」
「っ…」
これが暴言であれば、いくらでも反論を重ねられたのに。
体裁を崩しているのはどちらなのか。婚約をがらんどうなものにしたのは誰か。公の場で私を外し始めたのは誰か。
…私から“より都合がいい象徴”へ乗り換えようとしているあなたが、なにを。
(……! ラフィエラ……?)
そのとき、手袋越しの指が、私の人差し指に一度だけ触れた。
大丈夫、何も言わなくていいんです。
合図の意味が、あの子の声で脳内を反響する。
一瞬だけ触れられた手を握りしめる。喉元まで熱くなっていた言葉は、その一触で静かに沈んでいった。
「…理解したならいい。お互い、煩わしいのもいやだろう」
そう言ってオレオンは通りすぎ、その刹那、ラフィエラへ視線をやった。『余計な補佐は控えろ』とでも言いたげな目だ。側近たちもまた、私を“言い返さなかった女”として記憶に刻もうとするように無言で続く。
ラフィエラはそれに礼を返しつつも、口元に浮かぶ笑みはどこか不敵に見えた。
彼女の考えていることを想像するのは、少しだけ怖かった。
「…早速使いましたわね」
「ええ、使いました。伝わって嬉しいです」
自分の人差し指を顔の前に掲げ、勝利宣言でもするようにもう一度笑う。
その大胆不敵な態度とは裏腹に、彼女の指はごくごくわずかにこわばっているようにも見えた。
「あなたにも怖いもの、ありましたのね」
「もう、ひどいですよルミア様。わたしだって、か弱い淑女なのですから」
「なら、おとなしく口を閉じて震えていたらどうです?」
「そうですね、わたしが口を開かなくても世界がルミア様へ優しくするようになったら、そのときは」
多分、あの場ではあれが正解だった。
あそこで言い返せば、残るのは『婚約者としての立場をわきまえない女』という記録だけだったのだろう。すでに私を縛る名目でしかなくなった婚約は、オレオンにとってまだ武器の一つなのかもしれない。
(…本当に、減らず口ばかり…でも)
ラフィエラが口にした、叶うことのなさそうな願い。けれどそれは、あの短い触れ合いにて一瞬だけ現実へ近づいたように見えて。
婚約という冷たい檻の中で唯一のぬくもりだと、錯覚しそうになった。




