Ⅷ
「は……ははっ! レバーだ! レバーがあるぞ! 勝った……余の勝利だあぁぁっ!」
カシウスは歓喜のあまり唾を撒き散らし、両腕を突き上げて叫んだ。
リヴィアも目を見開き、「出られる……ここから出られますのね!?」と手のひらを返してカシウスにしがみつく。
カシウスは迷うことなく、そのレバーを力任せに手前へと引き倒した。
ガコンッ……!!
重厚な仕掛けが噛み合う音が、井戸全体に小さく轟いた。
直後、ズズズ……と地鳴りのような振動が足元から伝わってくる。
私たちが立っていた井戸の円形底盤そのものが、巨大なエレベーターのように、ゆっくりと上昇を始めたのだ。
上空の小さな円形——外界へと続くはずの穴が、刻一刻と近づいてくる。
吹き下ろしていた冷たい風が、急激に強まり、髪を激しく揺らした。
「はははは! 見たか悪魔め! 余の執念と知恵が、貴様の仕掛けを打ち破ったのだ!」
上昇する床の上で、カシウスは大きく両手を広げ、高らかに高笑いを響かせた。
そして、勝ち誇った顔で私やフェリクス、リヴィアを振り返ると、何食わぬ顔でパンパンと手を叩いた。
「いやあ、みんな良く耐えてくれた! まあ、途中で少々取り乱して互いに冷たい言葉を掛け合ってしまったが……なーに、極限状態だったのだ、すべては水に流そうではないか! 余も寛大な心で、貴様たちの不遜をすべて許してやるぞ! これで助かれば、また元の王宮での楽しい生活が待っているからな!」
反吐が出るほどの軽薄さ。
あれほど私やフェリクスをなじり、リヴィアと命を削り合うような醜悪な奪い合いをした記憶を、まるで最初から無かったかのように上書きしようとしている。誠意の欠片もない、自分勝手な全肯定。
リヴィアもまた「ええ、そうですわねカシウス様! わたくしたち、絆を深め合いましたわ!」と嘘くさい笑みを浮かべ、先ほどまでの「無能な小豚」という暴言を脳内から消去していた。
私は何も言わず、ただフェリクスの手を強く握りしめていた。
床はぐんぐんと上昇し、ついに上空の穴へと到達する。
眩い光——いや、外界の光が私たちの視界を覆い尽くした。
ガタンッ!
激しい衝撃と共に床が停止する。
私たちは、ついに「井戸の外」へと押し出されたのだった。
「ふはあぁっ! 外だ! 脱出だあぁぁっ!」
カシウスが一番に井戸の縁を飛び越え、大地を踏みしめた。リヴィアもそれに続く。
私とフェリクスも、ゆっくりと立ち上がり、井戸の外へと足を踏み出した。
だが——。
外に出た私たちの前に広がっていたのは、希望に満ちた王都の風景でも、美しい緑の森でもなかった。
「な……なんだ……これは……?」
カシウスの声が凍りついた。
視界の届く限り広がっていたのは、赤茶けた、乾ききって幾重にもひび割れた死の大地だった。
木々の一本もなく、草の一すじすら生えていない。荒涼とした地平線が、どこまでもどこまでも続いている。
そして——その不気味な荒野のあちこちに。
ポッカリと口を開けた「井戸」が、無数に、何千、何万と並んでいた。
私たちが這い出してきたような石造りの筒が、地平線の彼方まで見渡す限り整然と打ち込まれているのだ。
「ひ……ヒィッ……! な、なにここ……どこですのここ……!?」
リヴィアが自分の腕を抱きしめ、ガタガタと震え出した。
脱出などではなかった。
ここは、ただのさらなる異界——膨大な数の「檻」が並べられた、無人の荒野に過ぎなかったのだ。
私は息を飲み、荒野の異常さに茫然とした。
そして、ふと気になって「空」を見上げた。
ここへ来る前、井戸の底から見上げていた、あの薄暗い円形の空。
今、外に出て見上げる空は、一面がどんよりとした不気味な暗闇に覆われている。
しかし——よく見ると、空の両端、地平線と接するギリギリの部分だけ、色が違っていた。
わずかに白みがかった、濡れたような光沢を帯びた「膜」のようなものが、空全体を包み込んでいる。
(……待って。あの丸み……あの縁のカーブは……)
私の頭の中で、すべての線が一つに繋がった。
鳥肌が、全身の皮膚を奔走する。
これは、空ではない。
暗闇に見えていた黒い円は——巨大な「瞳孔」だ。
両端の色の違う部分は——「白眼」だ。
私たちが「天井」だと思っていた暗黒の空全体が、一つの尋常ではない大きさを持った、巨大な「悪魔の目玉」そのものだったのだ。
悪魔は、空そのものとなって。
この無数の井戸が並ぶ荒地を、上空からじっと、見下ろしていた。
私たちが井戸の底で醜く争う姿も。
カシウスが必死に泥を掘り返す姿も。
希望を抱いて地上へ這い上がってきたこの瞬間すらも。
悪魔は巨大な単眼となって、ただ静かに、愉悦を込めて観察していたのだ。
「あぁ…………」
その絶大な存在のスケールと悪意の深さに、言葉を失い、喉を鳴らすことしかできなかった。カシウスとリヴィアは上空の異形さにすら気づかず、ただ荒れ果てた大地の広大さに絶望してへたり込んでいる。
その時だった。
私たちの目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
パチパチと漆黒の火花が散り、宙に浮くようにして、一面の「光るモヤ」が現れる。
それは長方形の形を形作り、まるで姿見の鏡のように荒野の中に鎮座した。
モヤの向こう側に見える景色——。
それは、絢爛豪華なシャンデリア。
煌びやかなドレスを纏った貴族たち。
グラスを傾け、談笑する人々。
私たちが囚われる直前までいた、あの王城の「夜会ホール」の光景だった。
帰還の扉。
悪魔が気まぐれに見せた、現実世界への出口?
「あ……あああつ! 王宮だ! 夜会だ! 助かる、助かったぞ!!」
カシウスの目が歓喜に跳ね上がった。彼は恐怖も不気味さもすべて吹き飛ばし、光るモヤに向かって猛ダッシュした。
「待ってください、カシウス様! わたくしを置いていかないで!」
リヴィアも形振り構わずカシウスの服を引っ張り、二人は互いを肘で小突き合い、突き飛ばし合いながら、我先にとその鏡の中へ飛び込んでいった。
あんなに凄惨な争いを繰り広げたというのに、彼らは何一つ学ばず、最後の最後まで己の欲望だけを優先して消えて行った。
残されたのは、私とフェリクス。
「ア……アウレリア様……僕たちも……」
フェリクスが私の服の端を握り締め、半泣きで私を見上げていた。
「ええ、行きましょう、フェリクス」
私は優しく微笑み、彼の背中にそっと手を添えた。
「あなたはよく頑張りました。先にお行きなさい」
「は、はい……! ありがとうございます、アウレリア様……!」
フェリクスは私の手に促され、意を決して光るモヤの中へと足を踏み入れ、その姿を消した。
一私は鏡をくぐる直前、足を止め、ゆっくりと振り返った。
そして頭上に広がる、あの天を覆うほどの巨大な「悪魔の目玉」を、真っ直ぐに見つめ返した。
風が吹き抜ける。
視線と視線が、遥かな高みと地表で交差する。
悪魔が、心の中でくすくすと哂っている感覚が伝わってきた。
『面白かったぞ』とでも言いたげな、冷酷で圧倒的な愉悦。
私は逃げなかった。
目を逸らさなかった。
恐れに顔を歪めることも、命乞いをすることもなく、ただ氷のように冷たく、澄み渡った瞳で、その悪魔の眼球をじっと凝視し返した。
悪魔の瞳孔が、ほんのわずかに、愉しげに揺れた気がした。
私は、そのまま背を向け、光り輝くモヤの中へと足を踏み入れた。
現実の世界へと戻るために。




