Ⅸ
空間がねじれ、光のモヤをくぐり抜けた瞬間、全身を包んだのは冷たい石の湿気ではなく、眩いばかりの燭台の光と、濃密な香水の匂い、そして——数百人の貴族たちが上げる悲鳴と動揺のどよめきだった。
「ひっ……!? な、なんだ!?」
「今度は空間が割れて……人が降ってきたぞ!」
「あ、あれはカシウス殿下!? いや、しかし……!?」
耳を突く交響楽の調べが途切れ、グラスが床に落ちて割れる甲高い音が響く。
そこは、私たちが悪魔によって異界へ落ちた、あの王城の大夜会ホールだった。
時間は、ほとんど経過していなかったらしい。
悪魔が現れ、私たちが足元の亀裂に飲み込まれてから、ホールに集う人々にとってはほんの数十秒、あるいは数分ほどの出来事に過ぎなかったのだ。人々はまだパニックの渦中にあり、警備の近衛兵たちが剣を抜いて右往左往していた。
私は乱れたドレスの裾を静かに整え、足元を確かめた。
隣には、しっかりと自分の足で立ち、私を庇うように少し前に出たフェリクスの姿がある。彼の顔色は青ざめてはいるが、瞳には正気が宿っていた。私の心に少しだけ、安堵が灯っていく。どれだけ心を冷静に保とうと、目の前の光景を受け入れようとも、私の両手は恐怖で震えていた。
その時——。
「嫌ああああああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
夜会の天井を突き破るような、凄惨で凶悪な絶叫がホール全体に轟いた。
声の主は、私のすぐ足元に崩れ落ちていた女——リヴィア? だった。
彼女は自分の両手を眼前に掲げ、まるで呪われた遺体でも見るかのように、血走った目でそれを見つめていた。
その手は——枯れ木のように痩せこけ、深く落ちくぼんだ皮膚には茶色い斑点が浮き出、関節は歪に太く曲がっていた。
「わ、わたくしの手……? 何これ……何ですのこれぇっ!? 鏡! 誰か鏡を頼みますわ! 鏡を出しなさぁい!」
リヴィアは這いずるようにして近くの給仕の足元にしがみついた。給仕は悲鳴を上げて後ずさりし、銀のトレイを床に落とす。リヴィアはその磨き抜かれた銀のトレイを引ったくり、己の顔を映し出した。
「ひっ……ギ、ギャアアアアアあぁぁぁっ!!」
銀の表面に映っていたのは、可憐な伯爵令嬢の姿などではなかった。
深く刻まれた無数の皺、たるみ切った頬、歯の抜け落ちた口元、そしてツヤを完全に失い、束となって抜け落ちそうな真っ白な白髪。
そこにいたのは、今にも寿命を迎えようとしている、哀れで醜悪な「老婆」だった。
「違う……違うわ! これはわたくしじゃない! わたくしは可憐で美しいリヴィア・クラウディアよ! カシウス様に愛される、若く素晴らしい令嬢なのよぉぉっ!」
狂乱するリヴィアの横で、もう一つの絶叫が上がった。
「ぐ、ふっ……あ、あ……う、足が……腰が……っ!?」
カシウス王子? だった。
彼は立ち上がろうとしたが、曲がった腰と力が入らない膝のせいで、みっともなく床に這いつくばった。
彼の豊かな金髪は見る影もなく失われ、斑点だらけの頭皮が露わになっている。仕立ての良いタキシードは、小さく縮んで骨ばった彼の体にダブダブと不格好にぶら下がり、眼球は黄色く濁って不気味に落ちくぼんでいた。
「お、おい……アウレリア……! 余の手を引け……立ち上がらせろ……! 余は王太子だ……カシウス・ルシウス・アウレリアヌスだぞ……っ!」
しわがれた、掠れた老人の声。
かつての高慢な面影はどこにもない。歯が抜けた口から唾液を撒き散らし、震える枯れ枝のような指先で私のドレスの端を掴もうとしてくる。
ホールを埋め尽くしていた貴族たちは、あまりの不気味さに息を飲み、じりじりと後退していった。
『化け物だ』『呪いか?』『あの二人は誰だ?』という囁きが、漣のように広がっていく。
自分たちが一瞬にして老いさらばえ、醜い姿に変わり果てたという現実。
二人はそれを受け入れることなどできず、床をかきむしり、互いの顔を見ては悲鳴を上げ、狂ったように泣き叫ぶことしかできなかった。
私は、その惨状をただ静かに、冷たい目で見下ろしていた。
私は頭の中で、書物庫で紐解いた古文書達の記述を、カチリと音を立てて合致させていった。そして。
(……やはり、そういうことだったのね)
なぜ、あの井戸の底で、どれほど水と肉を貪っても「生理現象」が一度も起きなかったのか。
なぜ、胃の中に物が入っているはずなのに、身体の奥底に異様な違和感と疲労が溜まり続けていたのか。
悪魔は、一度たりとも人間に「恵み」など与えてなどいなかった。
あの井戸の天井から投げ落とされていた水袋と油紙の包み。あれは、外界からの食料などではなかったのだ。
あれは恐らく——喰らった者自身に作用する「未来の時間」そのものを凝縮した、異物だったのだ。「時間・生命の法則」を局所的に書き換えられる力は、並みの悪魔の域を完全に凌駕していた。私たちが無事に帰還できたのは、奇跡というより、高位の悪魔特有の「殺すこと」に興味がないという性質だろう。
二人が井戸の中で水袋を開けて一口飲むたびに、肉を千切って噛み締めるたびに、彼らは自分自身の未来の寿命を削り取り、それを一時的な「満腹感」と「偽りの活力」に変換していた事実。
一回目の投下で「三人分」、二回目で「二人分」……。
悪魔はただ物資を減らしたのではない。彼らが貪り食えば喰らうほど、彼らに残された「未来の時間」そのものが激減していたのだ。恐らく悪魔は、悪趣味な観察を長引かせる為に減らしたのだろう。
二人は、自らの欲望と意地汚さゆえに、互いに未来の時間を奪い合い、我先にと貪り食っていたに過ぎない。自分自身の若さを自分の歯で噛み砕き、自分の喉へと流し込んでいたのだから、排泄など起こるはずもない。すべては彼ら自身の肉体と寿命を消費する自傷行為だったのだから。
ゾッとするような、狂気を孕んだ陰険な罠。
もし……もし私が、あの古文書などの知識を持っていなかったら。
もしも私が、空腹と苛立ちに耐えかねて、カシウスたちと食料を奪い合い、あの水袋などに口を付けていたら。
今頃、私もまた、あの床でしわくちゃの皮膚を抱えて、狂乱していたかもしれない。
背筋を、氷の刃で撫でられたかのような猛烈な戦慄が駆け抜けた。
私の掌に、冷や汗がじんわりと滲み出る。
知識は、力だ。
そして、冷徹な自制心こそが、真の盾だったのだ。
『悪魔は偽りを語り、決して施さぬ。奴らの言動に耳を貸すな。――それこそが、悪魔の牙城で生き残る唯一の術』
古代の偉大な先人が残した、あの血の滲むような警告。
その言葉の本当の重みが、今さらながら私の胸に鉛のように重くのしかかっていた。正直、心から信じていたと言えば嘘になる。
私とフェリクスは、一口もあの食料に手をつけなかった。
心を凪に保ち、余計な代謝を抑え、悪魔の差し出した毒を拒絶し続けた。だからこそ、私たちは「若さ」を奪われることなく、元の姿のままこうして帰還することができたのだ。
「うあああぁぁっ! アウレリア! 余を助けろ! 魔法だ、解呪の魔法をかけろおぉっ!」
カシウスが這い寄り、私の靴に縋り付こうとする。
「離れてください、カシウス様」
私はドレスの裾をひらりと翻し、一歩退いた。
「助けるも何も……私は何もできませんわ。あなた様がご自身の欲望に従い、ご自身の意志で選択し、喰らい尽くした結末に過ぎません。……自業自得、という言葉すら、今のあなた様には勿体無いほどです」
「な……なに……っ!?」
「さようなら、カシウス様。そして、リヴィア様。あなた方が望んだ『満たされた時間』のツケを、どうぞ残りの人生で支払ってくださいまし」
私が冷ややかに言い放つと、近衛兵たちがようやく正気に戻り、錯乱して暴れる二人を取り押さえに駆け寄ってきた。
「放せ! 余は第一王子だぞ! 離せぇぇっ!」
「嫌あぁぁっ! わたくしを見ないで! 見ないでくださぁぁいっ!」
老いた悲鳴と惨めな絶叫を残し、二人は夜会ホールから引きずられて出されていった。
それが、社交界が目撃した、カシウス・ルシウス・アウレリアヌスとリヴィア・クラウディアの最後の姿だった。
─
後に聞いた話では、二人は完全に心を病み、精神を崩壊させたという。
カシウスは鏡を見るたびに悲鳴を上げて自傷行為を繰り返し、リヴィアは暗い部屋に閉じこもって一日中自分の髪をむしり取っていたそう。当然、婚約は白紙となり、二人とも表舞台に顔を出すことは二度となかった。
だが、私にはまだ、やるべき重要な仕事が残されていた。
カシウスが正気を失い、廃人同然となったことで、彼がそれまで行ってきた悪行や言いがかりの責任が、弱者へ向かう危険性があったのだ。特に、あの井戸の底でカシウスから「帰還したら地下牢にぶち込んでやる」と脅されていたフェリクスを守らなければならない。
私は、ある御方の元へ向かった。
東部国境の討伐戦から緊急帰還し、王城の執務室で甲冑を脱ぎ捨てていた人物——第二王子、クリス・ルシウス・アウレリアヌス殿下である。
「アウレリア……公爵令嬢か。無事で何よりだ……兄上の件は聞いた。信じがたい事態だが……君に怪我がなくて本当によかった」
クリス殿下は、兄であるカシウスとは似ても似つかない人物だった。
短く切り揃えられた金髪に、凛とした強い意志を秘めた蒼穹の瞳。過酷な戦場で鍛え上げられた体躯と、何より他者への深い思いやりと誠実さを備えた、真の英傑だった。戦場での勇猛さは兵士たちから「アウレリアヌスの獅子」と称えられ、平民からの人望も極めて厚い。
「クリス殿下。お忙しいところ申し訳ありません。本日は、折り入って二つのご相談と直談判に上がりました」
私は背筋を伸ばし、堂々と殿下を見つめた。
「一つは、カシウス殿下の従士であったフェリクス・セルウィリウスの処遇についてです。彼はカシウス殿下の理不尽な暴言と虐待に耐え続けた被害者であり、あの忌まわしい……異界においても私を助けてくれました。カシウス殿下の失脚に伴い、彼が罪を着せられるようなことがあってはなりません。どうか、正式な手続きを経て、彼を我がヴァレリウス公爵家の私兵・親衛隊へと移籍させていただけないでしょうか」
クリス殿下は驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように深く頷いた。
「……なるほど。兄上の雑用係として不当な扱いを受けていた青年騎士か。噂で少し耳にしていたが、兄上はそこまで落ちぶれていたとは……。君がそこまでして庇うということは、彼は誠実な人間なのだろう。分かった、王室からの移籍手続きは私が責任を持って処理しよう。彼にとっても、君の元へ行くのが一番の救いになるはずだ」
「感謝いたします、殿下。……そして、もう一つ」
私はふっと微笑み、優雅に一礼した。
「第一王子の廃嫡に伴い、次期王位継承者はクリス殿下、あなた様になります。……つきましては、空位となった王太子妃の座、そして公爵家との絆を確固たるものとするため……私、アウレリア・ヴァレリウスを、あなた様の正式な婚約者としてお納めいただけますでしょうか? 後に来る一報ですけれど、直接お伺いしたく……」
クリス殿下は一瞬、ハッと息を飲み、それから顔をほころばせて力強く頷いた。
「願ってもない申し出だ、アウレリア。ここだけの話、私としても、君のような聡明で気高き女性を妻に迎えられるなら、これ以上の誉れはない。正式に決まった際は、君を一生かけて幸せにすると必ず誓おう」
こうして、事態は極めて迅速に、そして完璧に決着した。
─
あれから、数年が経過した。
王宮の広大な庭園。満開のバラが咲き誇るあずまやで、私は温かい紅茶を楽しんでいた。
「アウレリア様、お茶の準備ができました」
声をかけてきたのは、仕立ての良い公爵家の騎士服を纏った青年——フェリクスだった。
かつての怯えて縮こまっていた弱々しい面影は消え、その瞳には凛とした強さと、自尊心が宿っている。彼は私の専属護衛として日々剣の腕を磨き、今や公爵家でも一目置かれる立派な騎士へと成長していた。
「ありがとう、フェリクス。あなたも座って」
「いいえ、僕は護衛ですので」と微笑む彼の手元は、かつてのように震えてなどいなかった。彼は奪われた人間の尊厳を取り戻し、自分の意志で私を守る道を選んでくれたのだ。
「やあ、二人とも」
軽やかな足音と共に現れたのは、私の夫であり、この国の次期国王であるクリスだった。
彼は執務の合間を縫って私に会いに来てくれたらしく、笑顔を浮かべて私の隣に腰掛けた。
「クリス様。お仕事は順調ですか?」
「ああ、君がアドバイスしてくれた内政改革案のおかげで、東部領地の復興も順調だ。本当に君は私の最高の妻だ」
クリスは私の手を優しく包み込み、その甲に愛おしそうにキスを落とした。
清らかな風が吹き抜け、バラの香りが鼻腔をくすぐる。
(……すう……はあ……)
私は静かに息を吸い、胸を満たす温かな空気を噛みしめた。
暗く、冷たく、底の抜けたあの井戸。
己の欲望に溺れ、崩壊していった愚者たち。
そして、上空から私を見下ろしていた、あの悪魔の巨大な目。
あの地獄のような暗闇の中で、私が死守し続けた「自分自身」という誇り。
それがあったからこそ、私は今、この光に満ちた平穏な日々を勝ち取ることができたのだ。
「どうしたんだい、アウレリア? 遠くを見つめて」
クリスが不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。
「いいえ……なんでもありませんわ、クリス様」
私は愛する夫に向かって、心からの優雅で美しい微笑みを向けた。
「ただ……今、この場所がとても幸せだと、そう思っていたんです」
光あふれる世界で、私たちはこれからも歩んでいく。
悪魔の爪痕など微塵も残さぬ、力強く、誇り高き人生を送りながら。




