Ⅶ
ぽたぽたと、定期的に落ちてくる食料や水。
でも、誰一人とて、拾う者はもういなかった。
しかしカシウスの口は、制動の利かない機械のように回り続けていた。
怨嗟、逆恨み、言い訳、そして終わりのない愚痴。彼が撒き散らす不快な言葉の濁流は、狭い井戸の壁に跳ね返り、鼓膜を容赦なく叩く。
「……だいたい、余がこんなところで酷い目に遭わねばならんのは、すべてあの忌々しい弟——クリスのせいだ! あいつが余の代わりに東部国境の討伐戦へ赴いたから、余にこんな災いが降りかかったのだ! 兄である余を立てず、手柄を独り占めしようと先走るから、王都の結界が緩み、悪魔などという不快な化け物を招き寄せたのだぞ!」
あまりにも破綻した論理。
そもそも、東部国境の討伐戦は第一王子であるカシウスが本来、指揮を執るよう指名されていた務めだった。それを「泥臭い戦場など余の肌に合わん」「腹が痛い」と理由をつけてサボり倒し、押し付けられる形で引き受けたのが弟のクリス殿下だったのだ。弟が前線で血を流している間、カシウスは王都で夜会に興じ、リヴィアと戯れていたに過ぎない。
己の怠惰と敵前逃亡を棚に上げ、手柄を奪われたと被害妄想に耽る姿は、見苦しさを通り越して哀れでさえあった。
そして、カシウスの怒りの矛先は全方位へ撒き散らされる。
私への罵倒はもちろん、隅で震えるフェリクス、挙句の果てには、先ほどまで抱き合っていたリヴィアにまで向けられた。
「リヴィア! 貴様も貴様だ! 男を立てるどころか、非常時にヒステリーを起こして余の足を引っ張るとは何事だ! 貴様のような頭の軽い女、最初からただの暇つぶしだったのだぞ! アウレリアの爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ!」
「なんですってぇ!?」
リヴィアの金切り声が響き渡った。
自分の愚痴を言われて黙っているような女ではない。彼女は血走った目でカシウスに飛びかからんばかりに身を乗り出した。
「どの口がそれを言いますの、この豚王子! わたくしがどれだけあなたを持ち上げて差し上げたと思っているのですの!? 『カシウス様は素晴らしい』『さすが第一王子様』って、心にもないお世辞を言いまくってあげたから、あなたは調子に乗っていられたのでしょう!? アウレリア様に相手にされない腹いせにわたくしを利用しておいて、今更被害者ぶらないでくださる!?」
「黙れ、この性悪女! 誰に向かって口を利いている!」
「事実を言って何が悪いのですの! この役立たず! 口先だけの弱虫!」
再び始まった、果てのない醜い罵り合い。何度同じ事を繰り返すのだろうか。
互いの尊厳を削り合い、醜悪な本性を晒し続ける二人。
(……静かに、心を凪に……)
私は彼らの叫びを背後に聞きながら、膝元で震えるフェリクスにそっと手を伸ばした。
彼の肩にかかっていたショールが、先ほどのカシウスたちの暴れようの煽りを受けてズレ落ち、彼の細い身体が剥き出しになりかけていたのだ。
「フェリクス、寒気は大丈夫ですか? ショールをかけ直しましょう」
「あ……アウレリア様……すみません……」
私は優しく声をかけながら、彼の背中にショールをかけ直そうと両手を広げた。
その時だった。
上空の遥か高みから落とされる、かすかな月明かり。
いつもなら、円形の底の中心をぼんやりと照らしているだけのその光を——私の広げた布地が、ほんの数秒間、遮った。
光と影の位置が、わずかにズレる。
斜めに影が差し込み、それまで常に真上からの光に白飛びして押し潰されていた石床の表面に、かすかな「凹凸の陰影」が浮かび上がった。
(……? これは……)
私の動きがピタリと止まる。
文字だ。
濡れて泥がこびりついた石床の表面に、影の角度が変わったことで、古代神聖語のくびれのような刻印が、くっきりと浮かび上がっていた。
ずっと、気づかなかった。
この井戸の構造上、上空からの光線は常に真上から均一に照射されていた。影ができないため、浅く刻まれた文字の溝は光の中に埋もれ、ただのひび割れや泥の汚れに見えていたのだ。光を遮り、斜めからの影を作って初めて見える——隠された刻印。
私が唖然としてその床の一点を見つめていると、不自然な私の硬直に、喧嘩をしていたカシウスが気づいた。
「おい……アウレリア。何をボーッと固まっている? ……ん? なんだそれは!」
カシウスが血走った目をギラつかせ、ドタドタと足音を立てて寄ってくる。
「なんだ、一瞬何か光ったぞ!? おい、何か隠していたのか、アウレリア!」
「落ち着いてください」
私は極めて冷静な、平坦な声で答えた。
「これは……ここから脱出するための、重要な手がかりかもしれません」
「何だと!? 脱出の手がかり!?」
カシウスの表情が一瞬で歓喜と欲望に歪んだ。
彼は私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、力任せに私とフェリクスを押しのけた。
「退け! 邪魔だ、ええい! 退け雑用係! 余が見る! 余が最初に見つけるのだ!」
「きゃっ……!」
「うわっ!」
私とフェリクスは弾き飛ばされ、湿った壁際に倒れ込む。
カシウスはなりふり構わず地面に四つん這いになると、刻印のある場所の泥を、素手で猛烈な勢いで掘り返し始めた。
バシャッ! ドサッ!
「いやあぁぁっ! 何するのですの、カシウス様! 汚い泥を撒き散らさないで!!」
カシウスがなりふり構わず爪を立てて泥を掻き分けたため、泥水と湿った土の塊が飛び散り、すぐ後ろにいたリヴィアの顔面や破れたドレスへ容赦なく直撃した。リヴィアは髪を振り乱して金切り声を上げ、カシウスの背中をボカボカと叩いて罵倒する。
「黙れ! 静かにしろ! ここから出られるかもしれないんだぞ! 邪魔をするな!」
カシウスはリヴィアの非難など目に入らない様子で、狂ったように床を掘り返し続けた。やがて泥が取り払われ、平らな石の板が露わになる。
カシウスはそこを、力任せに足でドカン、ドカンと強く蹴りつけた。
ガン! ガン! カン……!
響いた音は、それまでの重苦しい石の打撃音とは明らかに異なっていた。
軽やかで、どこか響き渡るような、不自然な音。
まるで——その石板のすぐ下に、広大な「空洞」が存在するかのような音だった。
「ひ……響いている……! 下に部屋があるぞ! 抜け道だ! 余の言った通りだ、悪魔め、仕掛けを用意していたな!」
カシウスは狂喜乱舞し、顔を床に擦り付けるようにして目視し始めた。
押し倒されていた私とフェリクスも、体制を立て直してそこを凝視する。
確かに見えた。
石板の周囲に、髪の毛ほどのわずかな「隙間」が四角く走っている。周囲の石床とは明らかに切り離された、可動式の床だ。
「開け……開けえぇぇっ!」
カシウスは壊れた爪から血を流しながら、隙間に指をねじ込み、力任せに引き持ち上げようとした。メリメリという鈍い金属音が響き、石板がズレる。
そこにあったのは、下層へ続く階段などではなかった。
石板の真下に掘られた小さな凹み。そこにぽつんと存在していたのは——古びた、真鍮製の頑丈な「鉄のレバー」だった。




