Ⅵ
カシウスは不機嫌そうに目を閉じ、無視決め込もうとしていた。
「黙れ。貴様と話す舌など持ち合わせておらん」
「ねえ、カシウス様……答えてくださいまし」
リヴィアはふらりと立ち上がり、カシウスの方へ這い寄った。その顔は蒼白で、瞳は大きく見開かれている。
「わたくしたち……ここに来てから、どれくらい経ちましたかしら?」
「知るか! 時計もない穴ぐらで、そんなものが分かるわけがないだろう!」
「そう……分からないですわ。でも、絶対に丸一日……いえ、二日以上は経過しているはずです。だって、あんなに何度も食料が落ちてきて……わたくしたち、それを全部食べましたもの」
「それがどうした! 喰わねば死ぬのだから当然だろう!」
「……そうじゃありませんわ、カシウス様」
リヴィアの手が、震えながら自分の腹部に触れた。
「わたくしたち……あんなにたくさん水を飲みましたわよね? 干し肉も、固いパンも、二人で何度も、満腹になるまで食べましたわよね?」
「だから何が言いたいんだ、回りくどい!」
「……催さないのですわ」
「は……?」
カシウスが不審そうに眉をひそめた。
「な、何のことだ?」
「生理現象ですわ!」
リヴィアの声が急激に裏返り、井戸の壁に怪しく響き渡った。
「……一度だって、一回だって起こっていませんのよ!!」
「……っ!?」
カシウスの身体が、弾かれたように跳ね上がった。
井戸の底に、凍りつくような冷気が走る。
「なっ……な、何を言っている……貴様、狂ったか……?」
「狂っていませんわ! よく考えてみてくださいまし!」
リヴィアは自分の髪を掻きむしりながら、恐怖に満ちた目でカシウスを見つめた。
「わたくしたち、ここに来てから、一度でもトイレに行きたくなりましたか!? あれだけ大量の水を胃袋に流し込んだのに! あんなにパンを喰らい尽くしたのに! 体の中から何一つ、外に出ようとしていないのですわよ!!」
「ば、馬鹿な……! そんなはずが……」
カシウスの顔から、一瞬にして血の気が引いていった。
彼は慌てて自分の下腹部に手を当て、自分の記憶を急ピッチで遡りはじめた。
ここへ落ちてから。
カシウスは第一の水袋をほぼ独占し、豪快に飲み干した。第二の水袋も、第三の水袋も、渇きに任せて喉へ流し込んだ。
人間がそれだけの水分を摂取すれば、当然、数時間以内に強い尿意に襲われるはずだ。ましてやここは寒く、湿気が強い。通常であれば、体温低下に伴って排泄の周期は早まるはずなのだ。
だが——ない。
思い出そうとしても、そんな欲望を感じた記憶すらない。
私やフェリクスも、食べていないとはいえ、ないのは不自然だろう。
それどころか、胃の中に溜まっていたはずの感覚すら、重みすら、どこか不自然に薄れているような気がする。
「な、なんだ……これは……!? 余が食べた肉はどこへ行った!? 余が飲んだ水はどこへ消えたんだ!?」
カシウスは自分の腹をさすり、叩き、恐怖に目を見開いた。
「ひぃっ……! あ、悪魔の毒か!? あの食べ物は幻なのか!? それとも……余たちの体が、もう人間ではなくなっているというのか!?」
「嫌……! 嫌あぁぁぁっ!!」
リヴィアが頭を抱えて石床に転がり、狂乱の悲鳴を上げた。
「わたくしの体の中で、何が起きているの!? 食べたものが消えていく……食べたものが、わたくしの中で何かに化けているのよ!! 助けて、カシウス様! 助けてぇぇっ!」
「寄るな! 気味が悪い、余に触るな!」
カシウスは悲鳴を上げるリヴィアを突き飛ばし、狂ったように壁際に逃げ込んだ。
生理現象の不在。
それは、私たちが信じている「現実のルール」が、この井戸の底では完全に崩壊していることを突きつける、決定的な異変だった。
食べる。飲む。だが、何も出ない。
自分たちが体内に取り込んだものが、果たして本当に「水」や「肉」なのか?
それとも、何か恐ろしい異物を体内で育成させられているのではないか?
あるいは、自分たちはすでに死んでいて、これは地獄の永劫の拷問なのか?
理由の分からない現象ほど、人間の精神を根底から粉砕するものはない。
「あ……あああ……アウレリア! アウレリア、お前なら知っているだろう!?」
カシウスが血走った目を私に向け、膝で這い寄りながら叫んだ。
「お前は本ばかり読んでいただろう! 悪魔の知識があるんだろう!? 教えろ! これは何の呪いだ!? どうすればこの腹の中の不気味な感覚が消えるんだ! 教えろ、余の命だぞ!!」
「そうですわ、アウレリア様!」
リヴィアも涙と泥にまみれた顔を上げ、すがるような、しかし呪詛の籠もった声で叫ぶ。
「あなたが黙っているからこんなことになるのですわ! あなたが悪魔学なんて不吉な本を読むから、わたくしたちまでこんな呪いに巻き込まれたのよ! なんとかしなさいよ! 公爵令嬢でしょう!? わたくしたちを助けなさいよ!!」
責任転嫁。
恐怖に耐えかねた二人の精神は、ついに破綻をきたし、あらゆる異常の原因を外部へ——私へと擦り付け始めた。
「お前が夜会で陰気だったからだ!」
「あなたが余計な知識を持っているからだ!」
「お前が冷たい顔をしているから、悪魔がつけ込んだんだ!」
「全部、全部アウレリア様のせいですわ!!」
井戸の底に、二人の狂気じみた罵詈雑言が渦巻く。
かつて王国の頂点に立つはずだった王子と、その愛妾。その醜い崩壊の姿が、暗闇の中で浮き彫りになっていく。
「ひっ……ひぐっ……アウレリア様……」
フェリクスが私の服を強く掴み、恐怖に身を震わせる。
「大丈夫です、フェリクス」
私はそっと彼の背中をさすり続けた。
私は二人の喚き声に対して、一切の言葉を返さなかった。
否定も、肯定も、解説もしない。
ただ、静かに二人を見つめる。
(すう……はあ……)
心の波を静める。
息を吐き出し、体内を巡る血流を冷やしていく。
カシウス、リヴィア。
あなたたちが今直面しているのは、悪魔が仕掛けた「真の檻」の姿に過ぎない。
身体的な恐怖、理解不能な異変、そして逃げ場のない狭小空間。
精神が脆弱な者から順番に、己の生み出した恐怖の幻影に呑まれ、狂気へと落ちていく。
悪魔の常套手段だ。
あなたたちが私を責め立てれば責め立てるほど、その貴重な酸素と体力を消費し、己の首を自ら絞めていることに、どうして気づかないのか。
「答えろアウレリア! 何か言ったらどうなんだ!!」
カシウスが壁を拳で叩きつけ、爪から血を流しながら叫ぶ。
私はただ、静かに目を閉じた。
暗闇の向こう側で、悪魔が満足そうに、くすくすと笑っている気配がした。
恐怖の毒は、すでに彼らの全身に回りきっている。
次に降ってくるものが何であろうと、彼らはもう、正気でそれを受け止めることはできないだろう。
私は絶望の深淵に沈み込んでいく二人の叫び声を子守唄代わりに、どこまでも冷たく、静かな精神の底へと、さらに深く潜っていった。




