Ⅴ
上空の円盤から差し込む薄ぼんやりとした光が、ゆっくりと白み、再び暗くなり、また白む。
それが太陽の運行による昼夜の変化なのか、それとも私たちを弄ぶ悪魔が見せる幻影に過ぎないのか、もはや定かではない。この脱出不能の井戸の底において、時間は意味を失い、ただ重苦しい生存の徒労だけが積み重なっていた。
「返せ! それは余のものだと言っているだろうが、リヴィア!」
「嫌ですわ! 離してくださいな、カシウス様! わたくしにだって生きる権利がありますわ! あなたばかりガブガブとお飲みになって、わたくしにはほんの数滴しか分けないなんて、あまりにも酷すぎます!」
狭い石造りの底で、見苦しい罵声が幾度目かの猛威を振るっていた。
一回目の投下で届いた「三人分」の物資を、二人で一気に貪り尽くした後の話だ。
満腹感に満たされたのも束の間、塩分の強い干し肉と興奮のせいで、二人はあっという間に激しい渇きに襲われた。二回目の投下があったのは、どれほど時間が経過した頃だったろうか。その時落ちてきたのは、初めより少ない、二本の水袋と二包みの干し肉だった。
その二回目も、カシウスとリヴィアは互いの顔を引っ掻かんばかりの勢いで奪い合い、二人で分け合って飲み食いしてしまった。
そして今、三回目の投下があったばかりだ。
カツン、と乾いた音がして中央の床に転がったのは——水袋がふたつ。食料の油紙がふたつ。
ついに物資は、完全に「二つ」が標準になり、固定されていた。この後も予測も容易だった。
「ふたつしかないのだぞ! 良いかリヴィア、よく考えろ! 余は王太子だ! 余の命は一国の存亡に関わるが、貴様のような伯爵家の小娘一人死んだところで、世界は何一つ変わらん! だからこの二つは、両方とも余が保持するのが当然の理屈だ!」
カシウスは血走った目でふたつの水袋と食料の包みを、まるで赤子を抱くように両腕で必死にかき抱いていた。その姿には、かつて王立学園で「高貴なる大公の血筋」と持て囃されていた面影など微塵もない。服は汚れ放題、髪はカビと汗で束になり、表情は餓えた野犬そのものだった。
「ふざけないでくださいまし!」
リヴィアの金切り声が井戸の壁に反響し、鼓膜を痛烈に刺激する。
彼女のあざとい可憐さの仮面は、すでに跡形もなく砕け散っていた。整えられていたはずのピンクゴールドの髪は乱れ飛び、血の気の引いた顔に塗られた化粧は泥と涙でドロドロに溶けている。爪をむき出しにしてカシウスのタキシードに掴みかかり、力任せに引っ張った。
「誰のおかげであなたが今まで持ちこたえられたと思っていますの!? わたくしが『カシウス様は凄いですわ』『カシウス様がお救いくださいますわ』とおだてて差し上げたから、あなたは惨めに泣き叫ばずにいられたのでしょう!? この無能な口先男! 役立たずのくせに威張らないでくださる!?」
「な、なんだと……!? 貴様、今なんと言った! 余を無能だと叫んだか!?」
「無能ですわ! 大無能ですわよ! 夜会で悪魔を煽ったのもあなた! ここへ落ちてからただ喚き散らして何の解決策も出せないのもあなた! わたくし、学園の頃からずっと思っていましたのよ! あなたはただの威張り散らした小豚だってね! アウレリア様に捨てられそうだからってわたくしに逃げてきた、情けない男の癖に!」
「黙れ、この性悪な売女めが!」
カシウスの顔が怒りで真っ赤に沸騰した。彼は抱え込んでいた水袋の一つを振り上げ、リヴィアの肩を力任せに殴りつけた。
「キャッ……!」
リヴィアは悲鳴を上げて石床に転がった。だが、彼女もタダでは起き上がらない。倒れ込みながらも、カシウスの脚に噛み付かんばかりの勢いでしがみつき、長くて鋭い手入れされた爪を彼の太ももへと突き立てた。
「痛い! 痛い! 離せ、この魔女め! 貴様など、もとよりアウレリアの気を引くためのただの飾りだったのだ! アウレリアの冷たい視線から逃れるために、扱いやすいバカな女を側に置いただけだ! 余が本気で貴様のような浅はかな女を愛すると思ったか!」
「嫌! 渡さない、渡さないわ! 水をよこしなさい! 肉をよこしなさい!」
「引き剥がせ! おい、フェリクス! 何を見ている、この女を叩きのめせ! 余を助けろ!」
カシウスが狂ったように叫ぶが、私の隣で小さくなっているフェリクスは、ただ耳を塞ぎ、体を丸めてガタガタと震えることしかできない。
「ヒッ……ひぃっ……助けて、アウレリア様……恐ろしいです……恐ろしいです……」
「大丈夫ですよ、フェリクス。見なくて良いのです……」
私はフェリクスの頭を優しく自分の胸元に抱き寄せ、彼の耳をそっと手で覆ってあげた。
醜悪。まさに醜悪の極みだ。
愛を誓い合い、互いの欲望を満たし合っていた「理想の男女」が、生き残りのための資源がほんのわずかに減っただけで、爪を立て、肉を削ぎ合う獣へと変貌する。
悪魔はこの光景を上空から見下ろし、腹を抱えて笑っていることだろう。人間の尊厳など、空腹と渇きの前には一片の紙くずよりも軽いのだと。
(……すう……はあ……)
私は彼らの怒号を背景として処理しながら、再び呼吸をする。
冷気が皮膚を刺す。お腹の奥が痛むような空腹感がないわけではない。喉の奥が張り付くような乾きを感じないわけでもない。だが、私はそれを「単なる物理的な現象」として客観的に認識するに、必死にとどめていた。
胃が空腹でキリキリと痛み、思考すらも朦朧とし、眠ることすら苦痛で叶わない。
しかし、パニックを起こせば、心拍数が上がる。
感情を爆発させれば、体内の貴重な水分が涙や汗となって余計に失われる。
怒りに任せて相手を殴れば、筋肉が余計なエネルギーを消費する。
王立学園の静謐な図書室で、古文書のページをめくっていた、あの心地いい日々を、ページを捲るように必死に思い出す。
悪魔学、古代宗教、精神統制の術、極限状態における人間の心理記録。学園の教師たちは「令嬢が嗜むような優雅な学問ではない」「そのような偏った知識など、将来の公爵夫人としての役に立たない」と眉をひそめていた。カシウスに至っては「気味が悪い」と一蹴し、リヴィアは「ガリ勉」と蔑んだ。
だが、どうだろう。
その「役に立たない知識」こそが、今、私に絶対的な冷徹さをもたらしている。
悪魔が仕掛ける罠の基本は「動揺」と「自滅」だと書物で目にした。
己の精神の主権を握り続けている限り、悪魔は私を内側から破壊することは絶対にできない。だから私は、なにがあっても自分を見失わない。この氷のように冷たい心の静寂こそが、私の唯一にして最強の城塞なのだから。
──
「はあ……はあ……はあ……っ!」
どれほどの時間が経過しただろうか。
取っ組み合いの喧嘩を繰り広げていた二人も、ついに体力の限界を迎えたらしい。
カシウスは壁に背をもたれかけ、荒い息を吐きながら、水袋ひとつと肉の包みひとつを 死守していた。リヴィアはその足元で、ズタズタに破れたドレスを纏い、奪い取ったもう一つの水袋と肉を抱え込んで、獣のような目つきでカシウスを睨みつけている。
結局、彼らは互いを殺し尽くすほどの体力すら残っておらず、二つに減った物資を一つずつ分かち合う(というよりは、奪い合った末に妥協する)形に再び落ち着いたのだ。
井戸の中に、荒い息遣いと、食べ物を貪る下品な音だけが響く。
クチャクチャと音を立てて固い肉を噛み砕くカシウス。
ゴクゴクと音を立てて、水袋から直接水分を喉に流し込むリヴィア。
二人は言葉を交わさない。相手が隙を見せれば、残りの食料を奪い取ろうという殺意を瞳に宿しながら、無言でただ胃袋に物を詰め込んでいく。
それから、しばらくの沈黙が訪れた。
二人が満腹感——あるいは、束の間の喉の潤いを得て、うつろな目で天井を見上げていたその時だった。
「……ねえ」
リヴィアの口から、掠れた声が漏れ出た。
先ほどまでのヒステリックな絶叫とは違う、どこか異様な、怯えを含んだ低い声だった。




