Ⅳ
「フェリクス、その上着を脱げ」
「え……? カ、カシウス様……?」
「聞こえなかったのか! その騎士団の上衣を脱げと言っているのだ! リヴィアが寒がっている。この石床は冷たくて痛いのだ。貴様の上着を敷物にして、さらにリヴィアの膝掛けにする!」
「そんな……! カシウス様、これを取り上げられたら、僕は凍えてしまいます……!」
フェリクスは泣きそうな顔で自分の上着を強く抱きしめた。
「口答えする気か! 雑用係のお前の体温などどうでもいい! リヴィアに万一のことがあれば、貴様の首が飛ぶと思え! ほら、さっさと脱げ!」
カシウスは強引にフェリクスの胸元を掴み、服を引っ張った。
「ああっ! やめてください、カシウス様! お許しください!」
「黙れ! よせ、引っ張るな! 破れるだろうが!」
「まあ、カシウス様! ステキですわ! わたくしのためにそこまでしてくださるなんて!」
リヴィアは手を叩いて喜び、フェリクスが怯えて必死に服を押さえる様子を、まるで滑稽な見世物でも見るかのように楽しんでいる。
無抵抗の弱者を痛めつけ、支配欲を満たす。
カシウスにとって、この暴力は己の保身と万能感を確かめるための安易な手段なのだ。
カシウスはフェリクスを蹴り飛ばすようにして倒すと、半ば強引にその頑丈なウールの上着を剥ぎ取った。
「ヒッ……うぅ……うっ……」
上着を奪われ、薄いシャツ一枚になったフェリクスは、石床に丸まり、寒さと惨めさで激しく身体を震わせた。カシウスはその上着をリヴィアの肩に優しくかけてやり、リヴィアは「まあ、暖かいですわ!」と満足げに微笑んだ。
私は静かに立ち上がった。
足音を立てず、ゆっくりとフェリクスの方へ歩み寄る。
「あ……アウレリア様……?」
地面に伏せていたフェリクスが、涙で濡れた瞳を上げて私を見上げた。
私は彼の前で優雅に膝をついた。
そして、自分の羽織っていた上質なシルクとウールの混紡ショールを取り外すと、丁寧にフェリクスの細い肩へと巻き直してあげた。
「あ……ダメです、アウレリア様! そんなことをしたら、アウレリア様が寒くなってしまいます……!」
フェリクスが慌ててショールを返そうとする。
「心配いりませんよ、フェリクス」
私はそっと彼の手に触れた。氷のように冷たくなった彼の指先を、私の両手で包み込む。
そして、彼だけに聞こえるような、穏やかで優しい声をかけた。
「静かに。深く息を吸いなさい。私に合わせて……はい、吸って……吐いて……」
「あ……は、はい……」
「体力を無駄に使ってはいけません。泣くことも、叫ぶことも、今は毒になります。私の体を貸してあげますから、少しこちらへ寄りなさい」
私はフェリクスの身体を引き寄せ、寄り添わせた。
互いの体温を感じられる距離。彼がこれ以上冷えないよう、背中を優しくさすってあげる。
「アウレリア様……僕、僕……申し訳ありません……僕が不甲斐ないばかりに、あなたにまで……」
フェリクスの目から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちた。だが、先ほどまでの絶望的な怯えは消え、そこには温かいものへの縋りつきがあった。
「謝る必要はありません。あなたはよく耐えています。騎士として、とても立派ですよ」
私は微笑み、彼の縮れた髪を優しく撫でてあげた。
「ハッ! 何をやっているんだか!」
後ろからカシウスのあざ笑う声が聞こえた。
「落ちこぼれの雑用係と、気味の悪い女の慰め合いか! お似合いだぞ、二人とも! せいぜい抱き合って凍死を待つが良い!」
「うふふ、アウレリア様も物好きですわね。そんな薄汚い下僕を抱きしめるなんて。公爵家の品格が疑われますわ」
リヴィアもカシウスに寄り添いながら、蔑むような視線を送ってくる。
だが、私には分かっていた。
彼らがいくら言葉で攻撃してこようと、その声に焦りと苛立ちが混じり始めていることを。
「……ねえ、カシウス様」
しばらくして、リヴィアが少し不安そうな声を漏らした。
「なんだい、リヴィア?」
「その……わたくし、急にお腹が痛くなってまいりましたの……。それに、喉もまた渇いて……」
「なに? さっき水を飲んだばかりではないか」
「だって……なんだか口の中がカラカラいたしますの。それに、このふたつ目の水袋、もう半分くらいしか残っていませんわ……」
カシウスの顔色が、一瞬で変わった。
彼は慌てて自分たちが抱え込んでいる水袋を持ち上げた。
「な……なんだと!? 馬鹿な、余たちはまだそんなに飲んでいないぞ!」
「カシウス様が最初にガブガブとお溢しになったからですわ! わたくしのせいではありません!」
「なんだと!? 貴様、余に口答える気か! 誰のおかげでその水と肉にありつけたと……!」
暗闇の中に、不協和音が響き始める。
短時間での過剰な水分摂取、塩分の高い干し肉。
そして何より、過度な興奮と怒りによる体温の上昇と発汗。
彼らは知らず知らずのうちに、自らの手で脱水症状と疲労を加速させていたのだ。
与えられた資源を計画性もなく貪り、暴利を貪ったツケが、想像以上の速さで彼らを苛み始めている。
「カシウス様……喉が渇きましたわ。水袋をくださいな」
「ダメだ! これは余の分だ! 貴様はさっき余より多く飲んだろうが!」
「そんな! ひどいですわ、カシウス様! わたくしを守ってくださるとおっしゃったのに!」
さっきまで愛を囁き合っていた二人のはずが、早くも醜い醜聞を撒き散らし、水袋を奪い合おうとしている。
私はフェリクスを抱きしめたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
(すう……はあ……)
静かに、心を凪に保つ。
感情の波を一切立てず、深く、深い意識の底へと潜っていく。
悪魔が投げ込んだのは、ただの食料ではない。
「人間の欲望」という名の、猛毒だ。
その毒が彼らの体を侵し、互いの絆をズタズタに引き裂き、自滅へ向かっていく足音が、暗闇の中でハッキリと聴こえていた。
私は静寂の中で、その破滅の曲が最高潮に達する刻を、ただじっと待ち続けていた。




