Ⅲ
ごく、ごく、と喉を鳴らす下品な音が、静まり返った石の空間に響き渡った。
「ふはあっ……! 生き返るぞ! やはり水は最高だな!」
カシウス王子は革の水袋から豪快に水を煽り、口の端からダラダラと溢れさせた。冷たい水滴が彼の顎を伝い、上質なシルクのシャツを濡らし、さらには足元の乾燥した石床へともったいなく垂れ落ちていく。一口一口を噛みしめるように味わうでもなく、ただ喉の渇きに任せて粗雑に流し込んでいるだけだ。水滴が床にしみ込んで消えていくのを見ても、彼は一切の痛痒を感じていないようだった。
「まあ、カシウス様、わたくしにも早く! 喉がカラカラで死んでしまいそうですわ!」
リヴィアがカシウスの袖をすがりつくように引っ張り、水袋を奪うようにして自分の口へ運んだ。彼女もまた、品性を投げ打って水を喉に流し込む。唇から溢れた水がピンクゴールドの髪を濡らし、首筋を伝っていったが、拭おうともしない。
ふたりは争うようにして第一の水袋を瞬く間に干し上がらせると、今度は油紙の包みを乱暴に破り取った。
「肉だ! 干し肉があるぞリヴィア! 硬いが、噛めば味が滲み出てくる!」
「おいしいですわ、カシウス様! わたくし、このような貧しいお食事は初めてですけれど、カシウス様と一緒ならなんだか特別な冒険のようですわ!」
むさぼり喰う、という表現がこれほど似合う光景もないだろう。
固い保存パンを強引にちぎり、干し肉と共に口の中へ押し込んでいく。カシウスの口元からはパンの屑がぽろぽろと零れ落ち、リヴィアは油のついた指を品悪く舐めた。二人とも、ここがどれほど危険で、いつ次の物資が落ちてくるかも分からない脱出不能の暗闇であることを、完全に忘却しているかのようだった。
私は、彼らから数歩離れた壁際で、ひんやりとした石に背を預けたまま、静かに座り込んでいた。
膝の上で交差させた両手に視線を落とし、ただゆっくりと、胸の奥深くまで息を吸い込む。
四秒かけて吸い、八秒かけて吐き出す。
体内を巡る血の巡りを意識し、動悸を鎮め、心拍数を限界まで下げる。
(すう……はあ……)
耳を澄ませば、自分の脈打つ音が遠くで聴こえる。
外界の雑音——カシウスたちの下品な咀嚼音や、甲高い笑い声——を、意識の網の外へと弾き飛ばしていく。
今の私に必要なのは、無駄な感情の起伏を一切排することだ。
怒りも、焦燥も、恐れも、すべては貴重な水分と酸素を消費する無駄な燃料に過ぎない。ただ心を凪の状態に保ち、意識を氷のように冷たく澄み渡らせる。思考を無駄に巡らせる必要すらない。身体の細胞ひとつひとつを休ませ、代謝を極限まで落とすことだけに集中する。
「おい、アウレリア! 貴様、何すまし顔で目を閉じているのだ!」
不意に、カシウスの苛立った声が静寂を破った。
干し肉を半分ほど平らげ、満足げに腹をさすっていたカシウスが、私を不快そうに睨みつけている。
「気味が悪いぞ! こんな状況だというのに、よくもそんな風に落ち着いていられるものだ。……ああ、そういえば思い出したぞ。お前は昔からそうだったな。王立学園の時も、優雅な茶会や夜会の輪に入ろうともせず、いつも薄暗い図書室の隅で気味の悪い古文書ばかり漁っていた!」
カシウスは吐き捨てるように言い、手に残ったパンの屑を床へ放り投げた。
「あの頃からお前は鼻持ちならない女だった。聖書だの、悪魔学だの、異端の歴史だの……女の身でありながら、そんな役に立たない知識ばかり溜め込んで何になる! 現にどうだ、それだけ本を読んできたお前が、今この状況で何か役に立ったか? 魔法一つ使えず、出口一つ見つけられず、ただそこで固まっているだけではないか!」
「そうですわよ、カシウス様!」
リヴィアが待ちかねたとばかりに追従する。彼女はカシウスの肩に顎を乗せ、嘲笑を浮かべながら私を見た。
「わたくし、覚えておりますわ。学園の定期試験の時、アウレリア様は徹夜で分厚い論文をお書きになっていたのでしょう? カシウス様やわたくしは、優秀な家庭教師や優秀な従者に要点をまとめさせて、要領よく満点を取っていましたのに。時間をかけてガリ勉をするなんて、要領が悪い証拠ですわ。努力しか能がないから、そんな陰気なお顔になるのですのよ」
カシウスとリヴィアは顔を見合わせ、満足そうにクスクスと笑い転げた。
学園時代、カシウスが提出した課題のほとんどが、側近や下の身分の生徒に強迫まがいで代筆させたものだったこと。リヴィアが試験のたびに裏で手を回し、問題用紙を事前に不正入手していたこと。それらは当時の学園内で誰もが知る、口に出せない秘密だった。
正当な努力を「要領が悪い」と切り捨て、他人の成果を搾取することを「賢さ」だと信じて疑わない。二人の精神性は、あの頃から一ミリたりとも成長していなかった。
私は閉じかけた目をほんの少しだけ開け、彼らを静かに見つめた。
言葉は返さない。ただ一言も発さず、仮面のような微笑すら浮かべず、無機質な瞳で彼らの姿を捉える。
「……な、なんだその目は! 何か言いたいことでもあるのか!」
カシウスが私の無言の視線に気圧されたのか、急に声を荒らげた。
「言いたいことがあるならはっきり言え! 『カシウス様、どうか食料を分けてください』と泣きついてみろ! そうすれば、この齧りかけの肉の脂身くらいは恵んでやらないこともないぞ!」
それでも、私は答えない。
ただ、静かに目を閉じる。
すう、と息を吸い、はあ、と吐き出す。
会話に応じること自体が、貴重な唾液と体力を削る行為だ。カシウスがどれほど挑発しようと、彼の言葉には何の価値もない。放置しておけば勝手に一人で興奮し、勝手に体力を消耗してくれる。
「チッ……気味の悪い女だ。放っておけ、リヴィア。どうせ寒さと腹減りで、喋る気力もないのだろう」
「うふふ、そうですわね。哀れなアウレリア様。高貴な公爵令嬢が、こんな穴の底でひもじく死んでいくなんて……お可哀想に」
カシウスは苛立ちを紛らわすように、二本目の水袋の栓を抜いた。
またしてもガブガブと豪快に水を取り込み、喉を潤す。
その時だった。
「……ひっく、……うぅ……」
部屋の片隅から、小さく、堪えきれないようなすすり泣きが漏れた。
見れば、フェリクスが膝に顔をうずめ、背中を小さく丸めて震えていた。
「おい、フェリクス! うるさいぞ! 何が悲しくて泣いている!」
カシウスが不機嫌そうに一蹴する。
「す、すみません……カシウス様……ただ、お腹が減って……それと、すごく、寒くて……」
フェリクスの着ている下級騎士の制服は、生地が薄い。井戸の底の空気は夜が深まるにつれて急激に冷え込んでおり、壁から伝わる湿気が容赦なく体温を奪っていた。フェリクスの唇は青紫色の変色し、歯がガチガチと音を立てて鳴っている。
「ハッ、寒いくらいでガタガタ抜かすな! 貴様、それでも王国の騎士か! ……そうだ、良いことを思いついたぞ」
カシウスの目が、ギラリと嫌な光を帯びた。彼は立ち上がると、足元がおぼつかない様子でフェリクスへと歩み寄った。




