第二章『リリィ・ヴェール』⑨
あの日、私は死んでいてもおかしくなかった。
「可哀想になァ。友達に売られた気分はどうなんだ、あ?」
カビ臭い公衆便所。醜悪な社会のゴミ共。クソまみれの掃き溜め、地獄に堕ちた自分。悲劇のヒロインぶった最悪の――トモダチ。
「いやだ、いや! 私は逃がしてくれるって言ったじゃない! やめて、やめてよ!」
「いーから黙って見てろって。地味なお友達だけじゃ俺らも満足できねーっての。コイツが終わったら、お前も後で可愛がってやるからよォ?」
一之瀬美桜は優秀だった。
茨薔薇女学院という、ここ数年で誰しもが憧れる学校となった学院の生徒で。
リリヴェのオンライン大会では何度も優勝し、当然ながら私なんかじゃ手も足も出ない実力の持ち主で。
容姿端麗、成績優秀、なんの非の打ち所もない完璧な女の子。
でも、ひとつだけ、ダメなところがあった。
『雫、貴女いつまでたっても下手よね。もう少し動画とか観て勉強したら? というか、私とリリヴェやってるのにずっと下手なままなんて……貴女、才能ないんじゃない?』
彼女は、少し、性格が悪い子だったのだ。
『ご、ごめんね……もっと頑張るよ、私』
でも私は嫌いじゃなかった。
だってずっと傍にいてくれたから。
こんな私でも見捨てず、諦めずに声をかけ続けてくれたから。
ただほんの少しだけ、他の人より頭が良くて、その分、他人を見下してしまうようになっちゃっただけなんだ。
「いや……いやぁ! どうして私がこんな目に合わなきゃいけないの!?」
ガタイの良い筋肉質な男に押さえつけられながら便所の床を舐めるように這い蹲る彼女の姿を見て、私はこれから自分に起こる不運なんてどうでもよくなるほどに、得体のしれない感情を抱いていた。
「大丈夫だよォ、眼鏡ちゃん。大人しくしてくれたら痛くはしないからさ。そのうちきっと気持ちよくなってくるはずだからさァ」
よくわからない豚の鳴き声のような嗚咽の出る音をぺちゃくちゃと鳴らしながら私の服を脱がしている男のことすらも、私は気にならなかった。
「助けて……助けて誰か! ねえ雫、なんで貴女はそんな顔してるの!? 私が汚されてることがそんなに面白い!?」
わからない。意味不明。
私はこの状況の悲惨さも、自分がとんな顔をしているのかも、何もかも理解できないまま、ただひとつだけの感情を心のうちに秘めていた。
からだじゅうを這いずり回るうじ虫のような感触。
ぬめぬめ、ぬめぬめと、私のからだが、ずぶずぶずぶと、溶けるように、萎れるように、枯れるように、どろどろどろどろと、壊れていって。
気が付くと、私はぐちゃぐちゃになっていた。
「おい、息してねーんじゃね? 首絞めすぎだろ、死んじゃうよそれじゃあ! ギャハハ!」
「うるせぇなぁ、こんな時じゃねーとできねーだろこんなプレイ。あぁ、でもこれじゃもう使いもんになんねーかァ」
「ウソ……やめてよ、もう満足したでしょ!? 近寄らないで! いやぁあああああ!」
遠くで、声がする。
いつもいつも聴いていた、美しくて、可愛くて、凛々しくて、どこまでも綺麗な、女の子の声が。
私は、このまま死ぬんだろう。
後悔は――ない、といえば嘘になるけれど。
本当は最後まで、この目でしっかりと眺めていたかったのだけれど。
あれだけ完璧だった彼女が、なすすべもなく地に伏して堕ちていく姿を、私は、これまで感じたことのない気持ちで、ずっとずっと見つめ続けていたかった。
「おい、お前ら何してる!?」
「うわっヤベ、サツだ! 逃げろお前ら!」
「逃がすか! 取り押さえろ!」
――消える、消える。
視界が、音が、私のこの気持ちが、消えていく。
「大丈夫かい、君!」
「はい……ぐすっ。怖かった……」
「他には――うわっ!?」
ああ、なんて言えばいいんだろう。
この気持ちを、なんと表現すべきなんだろう。
わからない。わかりたい。でもきっと、わかってはいけない。
それに、わかったとしても、私はもう、ここで終わりなんだから――
「この子、君のお友達かい!? どうしてこんな酷いことに……いや、ともかくまずは救急を――」
――そこまでが、ずっと眠っていた私の中に残っていた記憶。
次に目が覚めたのは、病院のベッドの上。
意識が戻ったのは奇跡だと言われて、私は「ああ、運が良かったんだ」なんて呑気な感想を浮かべた。
それからしばらくの間、私は事件のことを思い出せなかった。
一時的な記憶欠乏症らしい。何かのきっかけで戻ることもあるから今は安静にね、と優しい先生に言われた。
でも、ひとつだけ覚えていることがあった。
「もしもし。小鳥遊と申します。あの、美桜さんはいらっしゃいますか……?」
『……小鳥遊、雫さん?』
「は、はい。ええと、美桜さんは――」
『美桜は死んだのよ、一年前の事件でね! もうこれ以上関わらないで下さる!?』
「えっ? そ、そんな……美桜が……?」
それきり、私は一之瀬家との連絡を絶たれてしまった。
美桜が死んだ、なんて非現実的な事実だけを突きつけられて。
「先生、私の記憶……どうしたら戻りますか?」
「うーん……そればかりはわからないんだ、ごめんね。早く戻る患者さんもいれば、一生戻らない患者さんもいてね。小鳥遊さんは記憶もそうだけど、身体だって生死の境目を彷徨っていたほどだ。まずはこうして生きている奇跡を喜んで、ゆっくりリハビリから始めていこう」
一年前、と一之瀬家の人は言っていた。
そんなに長い時間を私は知らない間に消費してしまっていたのだ。
ショックはそこまでなかったけれど、とにかく私は美桜のことが気になって仕方がなかった。
一年前のニュースを調べた。
そこには女子学生を狙ったストーカー事件として記載があり、死亡者の名前に美桜の名前が載っていた。
けれど、そこに私の名前は載っていなかった。
記憶がなくとも何となくはわかっている。私がこんなことになったのは、間違いなくその事件に関わっていたからだ。
生き延びたから載っていないのか、それはよくわからなかったけれど、ともかく過去のニュースでは確かに美桜が死亡したと報道されている。
先生たちも、私の両親も、何故かこの事件に関しての話は一切しなかった。
なにかがおかしい。私がこんな風になったこと、美桜が死んだこと――どうして私はすべて忘れてしまっているんだろう?
「リリヴェの公式大会……え、今年は日本でやるんだ……」
ふと目にしたそれは、かつて美桜と共に遊んでいたリリヴェの広告。
『私、いつか海外に行ってリリヴェの大会に出るのが夢なのよね』
なんて、美桜が言っていたことを思い出す。
そんなことは思い出せるのに、一年前の事件――その一部分だけが綺麗さっぱり消えてしまっていた。
それから私は、リリヴェのオンライン大会で『OMI』を見つけ、いてもたってもいられなくなって、嘘をついて人を騙し、彼女の通っていた学院へと向かって、そうして――
「ふ……ふふ、あは、あはは」
笑った。
わけもわからないまま、自分が自分でなくなってしまうような、口元を酷く歪ませて、震えた声を弾ませながら。
「あー、思い出した。思い出しちゃったよ、美桜」
私は、すべての記憶を取り戻していた。
「そっか、そうだよね。美桜があれぐらいで死ぬわけないか。私だって生きてるんだもん。美桜が私より弱いわけないもんね。ふふ……あはは!」
嬉しかった。
トモダチが生きていたことが。
あの日、ぐちゃぐちゃになった私がこうしてまだ生きていることを、美桜に伝えられることが。
きっとまた、彼女は私のことを見下しながら、それでも手を取って引っ張ってくれるのだろうということが。
――そして、なによりも。
「……ああ、あの顔。私、もう一度、見たいなあ」
親友だと思っていた人間に裏切られ、肥溜めの如き地獄の底へ突き落とされて、それでもなお汚れきった自分よりも絶望した表情を浮かべていた、あの顔が――
「絶対に見つけ出すからね、美桜」
――私は、それだけが鮮烈で、鮮明に忘れられなかったのだ。
/黒百合・了




