第二章『リリィ・ヴェール』⑧
――時は少し遡る。
夜羽と雫がリリヴェ部に向かっていた頃、百合花はもう一度アリカと話をするために学院長室へと再びやってきた。
「お姉さま、今度はどんなご用件ですの?」
ひとりでやってきた姉の姿を確認して、アリカは怪訝そうな表情で問いかける。
「渋谷さんから聞きましたわ。一之瀬美桜さんのこと」
「……そうですか。口の軽いお人ですわね」
特に表情を変えることもなく、すんなり聞き入れたアリカの様子を眺めながら、百合花はにやりと口元を歪ませた。
「やっぱりそういうことなのね、アリカ」
「……何の話です?」
姉の言葉に眉をぴくりと動かしたアリカは、辺りに誰もいないかどうか確かめるように周囲を見回す。
「一之瀬美桜さんは生きていた。それは良いでしょう。わたくしからしてみれば何の驚きもない、よくある話ですからね」
「……はい」
「問題なのは彼女が生きている事実ではなく、どうして死んだことにしていたのか、という点です」
百合花はアリカの座るデスクの前まで歩み寄ると、左手を机の上に置いて、じろりとアリカの瞳を見つめた。
「渋谷さんが嘘をついているとは思いません。ですが、真実を知っているとも限らない――そうでしょう、アリカ?」
「……お姉さまは、いったい何を知りたいのです?」
「もちろん真実を、ですわよ。今のわたくしは百瀬探偵事務所の所長、百瀬百合花なのですから」
「お姉さま……そのようなお遊び気分で人のプライバシーに土足で踏み入ることが許されるとお思いなのですか?」
アリカは真剣に、憤りさえ感じさせる声色で百合花に向けてそう言い放つ。
「アリカ。これはれっきとしたお仕事ですのよ。ちゃんと国に申請していますもの」
「そういう話ではありません!」
「いいえ、そういう話よ。貴女が学院長として生徒のプライバシーを守ろうとするのと同じように、わたくしが探偵として依頼主の望むものを手に入れようとすること――これに何の差もありません。そうでしょう?」
「むぅ……そういうところ変わりませんわよね、お姉さま」
どこまでも真面目な表情で話す百合花を前にして気圧されるアリカ。
「香菜さんがどこまで話したのかは知りませんけど、一之瀬美桜さんは一年前に起きたストーカー事件の被害者なのです」
「ええ、それは知っているわ」
「ストーカー行為を行っていた犯人は現行犯逮捕されました。美桜さんは軽症を負いましたが、命に別状はなく無事でした。ですが、一之瀬家の方々は美桜さんの身を案じ、戸籍上死亡扱いに――」
アリカがそこまで話したところで、唐突に百合花は手で机をバン!と叩く。
「そこよ、アリカ。わたくしはそこが腑に落ちないの」
「な、なんですかお姉さま。びっくりさせないで下さい」
「渋谷さんは言っていたわ。ストーカーは単独犯ではない可能性があって、この先もまた同じようなことになってはいけないからそうしたのだ、と。けれど、本当にそれだけの理由で戸籍を塗り替えてまで死んだことにするかしら?」
百合花はじっくりとアリカの目を見つめて、
「もっと別の理由があった――いいえ、そもそもストーカー事件なんてもの自体がでっちあげなのだとしたら?」
「なぜ、そうお思いに……?」
「だって、ストーカー事件で命に関わるような目にあった自分の娘を死んだことにして、ただのゲームのために海外留学させるなんて、あまりにおかしいでしょう?」
「リリヴェのことですか? それは確かにそうかもしれませんけれど、ご両親と共に海外へ行かれていますし、ストーカーから逃すという利点もあったのでは?」
アリカの言葉を聞いて、百合花は微かな笑みを浮かべる。
「……なるほど、少し邪推が過ぎたようですわね。ごめんなさいアリカ、妹を疑うような真似をして」
「えっ? いえ……あたくし、疑われていましたの?」
「アリカでも知らないのだとすると、渋谷さんも知らないのでしょうね。これは少し厄介な事件になりそうですわ」
「事件……? お姉さま、いったい何の話をしていますの?」
アリカは心底わからないと言った様子で百合花に問い詰める。
「一年前のストーカー事件。被害者は一之瀬美桜さんだけではありません」
「――えっ?」
百合花の口から語られる衝撃的な言葉に、アリカは思わず己の耳を疑った。
「一番の被害者の名前は小鳥遊雫。彼女は事件の後遺症で生死を彷徨っていましたが、なんとか一命を取り戻し、ひと月ほど前に病院から退院しているのです」




