plan if future:その夢の萌し
リクエスト第1弾。
皆様が忘れたころにアップです。
――― 夢だ、これは夢だ
声がする。とても静かな、自分に言い聞かせるような声が。
――― 朝陽が昇るころ、この夢はきっと醒める
声がした。とても美しい、神様に祈っているかの様な声が。
ゆっくりと、暗い世界に光が射す。ザリザリとした感触が、どこか遠のいていくような不思議な感覚を味わいながら、鼻腔を伝う爽やかな甘さに鼻を鳴らす。
私の肩を揺するのは、一体誰だろう。この、静けさの中に激しさを滲ませた腕の持ち主はきっと―――
******
その世界は、暗闇だった。
「……き、珠城!」
「ふ、っぁ!?」
「まったく、図書室で眠るなんて、珍しいな」
肩を強く揺さぶられて、目が醒める。
深く眠っていた所為か、小さなその声も大きく、耳に響く。
あ、れ? ここは……
「……珠城、やはり疲れているんだな。俺にも、なにかできれば」
「た、ましろくん、大丈夫ですよ。ちょっとだけ、気が抜けて」
「珠城は、嘘が下手だな。そんなに色濃い隈を目の下に作っているのに、大丈夫なわけないじゃないか」
「本当に、大丈夫ですから。それより玉城君、なんだか急いでるようですけど……」
少しぼやけていた視界が、くっきりと見えるようになる。
やっぱり、私を揺すり起こしたのは玉城くん、副委員長のようだ。肩で少し浅い息をしながら、乱れた服や髪を直している。
いつも以上に饒舌な彼は、ほんの少しの間だけ視線を彷徨わせて、苦笑いを浮かべた。
なにか急いでいたのか、少しだけ汗の滲む肌を拭い、そして安心したように息を吐く。
「ああ、君を、探していたんだ。――― 本当に、心配した。無事で何よりだ」
淡い笑みを浮かべて、副委員長は心底安心したと目を片手で覆う。
本当によかったと、あまりにも優しく、あまりにも嬉しさに満ちた声で言うから、なんだか、少し恥ずかしい。
いったい何で、こんなにも安心したように、私を見つめるんだろう。ただ、眠っていただけじゃない?
何か、あったっけ? ――― あれ? なにか。
――― 妹……ゃーん! ほ……ほら朝だ……ー
――― バカイ……ト、狩……に……ぞ
――― ……た、……ら早く……備を。ゆ……動いて……、 に全部……れてしま……ぞ?
――― はぁ? とんね……ーの! そ……で意地……ねぇよ! のほう……、意……だろーが!!
――― さぁう……。我が愛……。目覚……時だ
「え?」
「どうしたんだ?」
「いや、いま」
私を呼ぶ、あまたの声が、笑みが、愛おしさが、ぶわっと押し寄せる。
今の声は誰だろう。ああ、きっと だ。あれ? 、だよね? あれ、なんで私、知って……
だって私、あれ、あれ?
柔らかな白い毛並みが頭を過る。でも、知ってる気はするのに、なんで? どこでみた?
芝生の上で、私は寝て、いや、あれは、いったい
「しばふで、しろい、けなみ」
「芝生で白いけな、み? なんだ珠城、なにか夢でも見ていたのか?」
「ゆ、め、夢?」
あれは夢というのにはやけに現実味を帯びていた。
だって、私を呼ぶ の声が、え? 私を、誰が?
「珠城、疲れているなら部屋に戻って休んだほうがいい。いや、あそこでは十二分に休めないだろうから、先生に申し出て教職員寮で休んだ方がいいだろう。ああ、でもその前に、高橋や学園長に会いに行った方がいいかもしれない」
「高橋さんと、学園長? 今日、何か会議ありました?」
「いいや。ただ今日、アイツを探して、授業に参加できなかっただろう? しかも門限も過ぎてるし、なのに珠城が帰ってこないから、心配して……」
副委員長の眉が下がる。やっぱりいつも以上に饒舌で、ちょっとだけ強気な口調。
少し落ち着きなく視線を彷徨わせて、そしてその視線を私に向け、鋭く射抜く。
無事で何よりだ、と、さっきも優し気に言った言葉が、嬉しさを伴って響いた。
――― ああ、そうだ。今日は、朝から授業に来ない姫島さんを探して、授業を欠席することになってしまったんだった。中庭とか、噴水前広場とか、いろんなとこを捜し歩いて、結局見つからなくって。
図書館で少し休もうと思ってたんだった。それで少しだけ休もうと思ったんだけど、寝てしまったんだ。言われて窓を見ると、外は真っ暗だった。
ああ、どうしよう。寮の門限を過ぎてしまっただなんて、絶対に減点扱いだ。ただでさえ授業の欠席や遅刻を大目に見てもらっているのに、これじゃあ全部水の泡。
それに、副委員長の言葉からして、高橋さんや学園長、もしかしたらほかの人も私を探して歩いていたのかもしれない。それを考えると、申し訳なくて申し訳なくて。みんなが必死で探してくれていただろう間、一人寝てましたなんて、申し訳なさ過ぎて土下座したい。
「……本当に、ごめんなさい。ありがとう」
「珠城が謝ることなんて、何もないんだ。むしろ、何もできない俺の方こそ、本当にすまないと思っている」
「そんな、大丈夫だよ。姫島さんのことは、彼女はまだ学園のルールをしっかり把握しきれてないだけで―――」
「珠城。俺は、君を支える副委員長として、今の君の現状を許容できない。姫島愛美は確実に、狙ってやっている。この学園のルールを知っているにも関わらず、それを実行せず学園を混乱に陥れている。多くの生徒が被害に合い、困惑し、傷ついている。……その中で一番被害を被っているのは、他ならない君だ。俺たちを彼女から遠ざけることで守ってくれている君にとって、俺の行動は非常に危うく、君が築いたものを壊すことになるだろう。でも」
やっぱり、饒舌だ。いつもは一言二言、話さず頷くだけの日も多い無口な彼が、こんなにも長く話している。場違いなのは知っているけど、なんだか珍しくて、可笑しな気分だ。
けど、副委員長が話す内容はすべて、私を心配している言葉だった。私を守ろうと決心する言葉だった。私を支えようと前を向く言葉だった。
いつだって彼は、私を支えてくれていたのに。心が温かくなっていく。不思議と、視界が緩んでぼやけてくる。これは、涙の兆し。
いつだったっけ。ちょっと前にも、ほんのちょっと前にもこんな優しい気分に包まれた気がする。
それはもしかしたらさっきの、不思議な夢の時だったかもしれない。なんて言われたのか、なんて呼ばれたのか、誰がいたのか、それすら思い出せない儚げなものの中に、確かに私を包むものがあった。
「俺は、君の仲間だ。君の友人だ。君と共に努力する、同志だ。俺は、君が再び勉学に向かって努力し、以前と変わらぬ暖かで不変的な生活に戻るために、努力を惜しまない」
ごめんなさい、と言いたかった。伝えたかった。
貴方が想うほど、私はできた人間ではないということを。彼女を止めることが自身の有益な未来につながると、そう浅はかな思いを抱いていたことを。
ありがとう、と言いたかった。伝えたかった。
貴方の優しさにどれだけ救われたのかということを。生活が180度変わったことで渇いた、疲弊した心が潤っていくことを。
どうしようもないの、私は。
彼女を止め、周りに被害を寄せず、安定した学園生活を送らせることができたら、学園長は私を凄いと、優秀な子だとみてくれるだろうか、なんて。
浅はかすぎて、言葉すら生めない。私の勝手な思いは、逆に学園の困惑を招いただろう。
それにきっと、私一人が相手をするより、複数人で相手をした方がはるかに効率がよく、はるかに物事がうまく進んだだろう。それを妨げたのは、身勝手な思いで止めたのは、紛れもない、私。
私だって、変わらぬ日常を愛している。それは、毎朝のジョギングや、花の水やり、何気ないクラスメイトとの会話、渡り廊下の静かな自然、放課後に訪れるあの人との幸福。
私は、それらを愛していた。愛してやまなかった。
それが突然終わりを、―――え? 私は今、何を思った?
不意に途切れた記憶が、咽かえる夏の日を伝える。今は、何月だっけ。
「今は、何月でしたっけ」
「え? 何月、今は、5月だろう。明日から、試験だ」
5月。明日が試験。
今の季節、咽かえるような暑さも、なにもないはず。咽かえる夏の日なんて、去年? ううん、去年の夏はそんなに暑くなかった。
それじゃ、咽かえる夏の日はいったい、いつの事だろう。
ぐるぐるめぐる記憶。でも全然思い出せなくって、緩く頭を振った。
目の前の副委員長はちょっと戸惑い気に、私の試験は別室で行われる、ということを教えてくれる。
「学園側の決定だ。第1学年主席の君には、安心して試験に臨めるように、取り組めるように、静か且つ安全的な場所で試験を行うことが決まった。……これで、彼女に邪魔されずにできるだろう」
「ッ玉城くん、まさか―――っ!」
「……俺たちのクラスはもちろん、他クラスや他学年からの署名を集め、学園側に提出した。学園長はこれらを受け入れ、君のために、今回の特例を許してくださった」
―――これくらいしかできなくて、すまない。
もう、泣きそうだった。
今が何月だとか、不思議な夢だとか、そんなことを放り投げてしまうくらい。私は、ナニを考え、ナニを思い出そうと、していたんだろう。ここに、私を包む優しさがあるのに。
泣きじゃくって、泣きじゃくって、嬉しさで涙のダムができそうだ。
みんなの、その行動が、私の支えだった。
これくらいだなんてこと、全然ない。試験は、学力特待生である私にとって何より重要なものだ。これで主席を保持しないと、私は学園にいられなくなる。
今回の試験ほど、不安なものはなかった。だから、みんなのその行動が、私にとってどれだけうれしいことか、副委員長は知ってるだろう。
夢にあった愛おしさは、きっとみんなの愛おしさだったんだろう。
ありがとう、と呟いた。零れる涙と、喉の奥が熱くて、ちょっととぎれとぎれになってしまったけれど。
「……珠城。たぶん今日は珍しく饒舌だなって思っているのだろうが、自分でも驚いているんだ。俺もこんなに話せるんだなと思っている。口下手で上手く伝えられているか不安だが、もう少しだけ、俺に君の時間を貸してもらいたい。珠城、君は自分をやや卑下しすぎている場面がある。そして、君は何かを誤魔化そうとしたり、隠そうとしたりすると曖昧な笑みを浮かべるクセがある。他のひとは気づいていないようだが、俺は解っているつもりでいる。珠城、君はもっと素直になってもいいと思う。他の誰かが本当の君を否定しても、君の信頼する仲間は、俺は絶対に君を否定しないし、受け止める。だから―――」
涙が少しずつ、ちぎれていく。
ぽた、ぽたり、なんて音がして止まる。
副委員長の、厚い壁を打ち破るような静かな眼差しが私を捉えた。
「もう少しくらい、心を開いてもいいと思う。なんて、君には迷惑かもしれないが」
その言葉を聞いた瞬間、私は力強く首を横に振った。
迷惑だなんて、全然ない。むしろ副委員長の言葉を聞いて、こっちが迷惑をかけてごめんなさいって、それを強く思った。
なんでって、だって勝手に心を閉ざしてるのは私の方で。欺いているのは私の方で。隠しているのは私の方で。暖かさをもらってばかりで、何も返せていないって思う。
副委員長が私の手を軽く握った。その手は暖かかった。
暖かいな、なんて、副委員長が小さく呟いた。そして珍しく、その顔に淡い笑みを浮かべる。
「珠城、さぁ、学園長室に行こう」
「え?」
「高橋も、みんなも、学園長も、待ってるんだ。君が帰ってくるのを、待ってるんだ」
そして私の手を握ったまま、いつも通りの声のトーンでペースで、はっきりと告げる。
副委員長の目の奥にあった、穏やかな光に目を見開いた。
やけに饒舌で、やけに雄弁な目に、やけに多彩な表情。今日の副委員長はいつも以上に不思議で、いつも通り優しい。
そんな副委員長と肩を並べながら歩く。閉館時間を過ぎてしまってるはずの図書館を出た時、外には柔らかな表情を浮かべる司書・笠木さんが立っていた。
いつも通りの穏やかな表情で、笠木さんはクスリと笑った。そんな笠木さんとの会話を思い出して、私もついつい笑みを浮かべる。たぶん、にやっとしてると思う。
笠木さんは「困ったさん」と私を呼んだ。すみません、と言うと、「本当に困ったさんね。こういう時は『ありがとう』がいいわ」と言って、私の頭を撫でてくれる。そしてありがとうございますと言うと、とても嬉しそうに笑ってくれた。
それが、とても嬉しい。信じられないくらい嬉しい。
「今日はなんだか、いいことばかり」
「……珠城、あの女にかけられた迷惑を忘れていないか?」
「それ以上に、いいことばかりだったんだよ」
「俺は、君の友人として、許容できない。あの女が許せない。……何より許せないのは、助けられない自分なのだが」
少し拗ねたような、そんな感情を覗かせる副委員長が横を向いた。
相変わらず、横を向いても綺麗な顔立ちは際立つばかりで、まったく損なわれない。サラりと髪が揺れると、副委員長の切れ長の目が私を映した。
……本当、副委員長は心配性で、そして責任感が強い。
クスリと笑うと、副委員長は心外だと言わんばかりに少しだけ唇を尖らせた。
「玉城くん、私って本当に幸せなひと。なんたって、私の身を案じてくれる友達がいる。私を心配する友達がいる。私の痛みを自分の痛みのように思って、代わりに怒ってくれる友達がいる。……私、いつか不幸が一斉に降りかかってきて、何もかも失いそうな気がするよ」
「彼女によってかけられた被害は紛れもなく不幸な事だろう。これ以上の不幸が君に襲い掛かってくるなら、天界に住まうという神様とやらは職務放棄をしてることになるな」
「ふふ、やだなぁ玉城くん。この3年間、私が感じてきた幸福の対価にしてはあまりにも優しすぎるよ。こんな出来事じゃ釣り合わないくらいの幸せを感じてるのに、姫島さんと一緒にいて受ける被害だなんてきっと、ほんの一部。ああ、怖いなぁ」
「……なんだか、同じ話を前にもした記憶があるのだが、珠城。だったら―――」
「『そこから立ち直るために、いっぱい幸福になればいい』だったよね? 不幸からまた幸福になるためにって、玉城くんは言ってたね。うん、そうだと思うよ。だから私、いまこれだけ幸せなんだと思う」
本音だった。
全部、本音だった。
覚えていたのかって、副委員長は小さく呟いていたけれど、うん、覚えてるよ。
忘れるわけがなかった。あんなにも印象的な答え、後にも先にもないよ。……と言っても、あの質問をしたのは副委員長だけなんだけどね。
副委員長はやっぱりどこか納得がいかないみたいで、尖らせたままの唇を少しだけ開いて、だったら俺も同じだ、と小さく呟いた。
「俺も、信じられないくらい幸福で温かい日々を過ごしている。そんな俺も、きっといつか不幸になるな」
「玉城くんが? ……なんだろう、想像できない」
「来る。だって、俺は珠城が思っている以上に幸せだ」
「玉城くん―――」
「これなら同じだろう? 君も俺も」
いつも通りの口数に戻って、いつも通りのやさしさを貫く。副委員長は、小さく笑みを作った。
これなら平等だと、不平等なんてないと、私に言うような静かさで。気づけば後少しで学園長室につく距離になってから、私は自分が笑っていることに気付いた。
副委員長が着いたぞと言う頃には戻っていたけど、信じられないくらい嬉しそうな笑顔が私の顔に浮かんでいた。
そこに確かに、私たちの幸せな日常の記憶があるのだと、じわりと胸が暖かくなる。
朝起きてやる単純な作業が、学校に来て確認する時間割、交わす挨拶や微笑みが、ちゃんと在ったんだって、そう思える。
ガチャリと、副委員長が学園長室の扉を開ける。とても、満ち足りた気持ちだった。
「――― だからっ、私たちにたまちゃん探しに行かせてくださいよ! 罰則なんてそんなの、いくらで受けますからッ」
「駄目だ。これは学園のしきたりであり、親御さんから君たち生徒を預かった身としては、君たちの安全を守る義務がある。……彼女のことは私が探そう。どのような手段を使ってでも、必ずだ。だから君たちは、彼女が戻ってきた時のために、安心できる場所を作ってほしい」
「ッそ、んなの、待ってるだけなんて、いや、ですよ……ッ」
「だが―――」
「――― お取込み中申し訳ないのですが、珠城を連れてきました」
……副委員長凄すぎ、って思ったの、たぶんこれ以上のヤツはないよ、うん。
「ちょっ、まっ、玉城!? え、たまちゃん連れてきたって、え?」
「え? って、だから珠城を連れてきたんだ。そんなことも解らないのか馬鹿め」
「さり気なく馬鹿にしないでッ! ……ぅあぁ、うーっ、たまちゃぁぁああんんん!!」
私よりも4㎝くらい背の高い高橋さんが、私を抱きしめる。
走り回ったからかな、ちょっとだけ乱れた服装のままで、少し泣いていた。
苦しいよ、っていうと、だって心配してたんだって、高橋さんが涙声で言った。ごめんなさい、って返すと、ありがとうがいいな、って言う。うん、ありがとう、ありがとう高橋さん。
少し潤んだ視界に、学園長が映った。黒い革製だと思われる椅子に座って、少しだけ乱れた髪型に、少しだけ汗ばんだ顔を拭きながら、私をじっと見つめていた。
それはもう穴が開きそうなくらい、じっと。ぐっと見開いた目の中に、私が映っているのも見える。これでもかって潤んだ視界が、さらに潤みそうになる。
そんなに、よかったなんて、安心したなんて、そんな眼差しを向けないでほしい。たった一人の生徒のために、そんな顔を、しないで。
「本当に、すみません。高橋さんも、みんなも、学園長も。私の所為で、とんだご迷惑を……」
「たまちゃんっ、たまちゃんは何も悪くないよ! ぜんぶ、全部あの女が悪いんだっ! アイツが、たまちゃんを困らせるのが、わるいんだっ」
「高橋さん……」
「唄ちゃん、あたしも高橋の言葉に賛成だよ。っていうか、ここにいるみんな、それに賛成だよ。唄ちゃん、本当に何も悪くないじゃん。むしろ、唄ちゃんが世話してやってんじゃん。あたしみたいなバカでもわかるよ。唄ちゃんは、なんにも悪くない」
「千鳥さんまで……」
私を抱きしめたままの高橋さんが、やっぱり涙声のまま言うと、その隣にいた千鳥さんもはっきりとした声で言った。
その千鳥さんの後ろにいるみんなに視線を移すと、みんなもまた、強く頷いた。
私の後ろにいる副委員長が、ほら、と小さく言う。みんな受け入れてくれるだろう、と自慢げに、嬉しそうに。
私の視界が、一気に明るくなる。その代りに、目が熱くなって、鼻腔の奥もツーっとしてきた。頬が、濡れてる、そんな感覚もある。
私の真正面で、椅子に座る学園長が目を見開いている。なんでだろう。何に驚いているんだろう。
「珠城、泣いている」
「え?」
「涙が溢れている。泣いているんだな、珠城」
そう言われて、私は自分の頬を触ってみた。
ほんとだ、濡れてる。手にびっしょりと、水に濡れていた。
ぽろり、ありがとうと言う言葉が零れ落ちる。ありがとう、ありがとう、ありがとう。
私を心配してくれて、私を支えてくれて、私を探してくれてありがとう。本当にありがとう。
「しあわせだな」
しあわせだな、ってそれが声を伴って響くと、本当にそうだなって心がぽかぽかになる。
声が幸せの色に染まる。
うん、ってみんなが返してくれて、そうだねって言ってくれて、もっともっとぽかぽかになる。
いいなぁ、幸せって、こんなに満ち足りる。
あの後、ダム決壊とまではならなかったけど、ひとしきり泣いて、落ち着いた頃には寮に戻ることになった。
とはいっても、帰るのは副委員長や高橋さん、みんなだけで、私は今日の事情説明というか、学園長と共に授業の公欠届と門限破りの理由を書いた手紙を上層部に提出するので、このまま学園長室に残ることになった。
学園長は疲れてるところを悪いな、って言っていたけど、むしろありがとうございますって思った。なんでって、好きな人と居れる時間ができるのって、すごく嬉しいもん。……あ、なんかもんって言ってて悲しくなってきたな。
みんながまた明日ねーって言って出ていく。一番最後に出ていった副委員長は、何故か学園長に深くお辞儀していて、学園長も神妙な面持ちで頷いていた。
それに対して首を傾げると、学園長はちょっと苦笑いを浮かべて、首を傾げ返した。
「……あの、学園長、本当にすみまっ―――」
「あ゛ー、ほんと、心配した」
――― どこにもいないって聞いて、心臓が止まると思ったじゃねぇか
視界が、暗くなった。
ふわっとした、薄い汗の香りと花の香りが鼻腔へと飛び込む。
頬に、上質な布が擦り寄る。腰に頭に、力強い何かが伸びて私を引き寄せる。
私って今、学園長に抱きしめられてる?
「ほんと、どこを探してもいなくて。何かあったんじゃねぇかって、嫌な事ばっか想像しちまって」
「がくえんちょ―――」
「泣いてねぇかなって、苦しくねぇかなって、俺」
次第に、声が震えていく。
ぎゅぅって、強く抱きしめられる。
息が、苦しい。
「もう駄目だな。唄のことばかり考えてて、もう、心配で心配で、息もできない」
――― 息もできないのは、私の方だ
そんな甘く、蕩けるような目で見ないでほしい。
心配で仕方ないんだって、慈しむような声で呼ばないでほしい。
だって、そんなの、勘違いしてしまう。
愛されてるって、そんなのありえないのに、お願いだから、やめてください。
勘違いして、違うってわかった後にどうなるかなんて、知ってるから。
せめて、傍にいるくらい。愚痴を聞くだけの間柄でもいいから、傍にいるのを許してくれるだけでいいから、だからどうか。
奪わないでほしい。貴方の傍にいられるチャンスを、限りなくゼロに近いパーセントを、これ以上下げないでください。
振り向かせたくてたまらなくて、頑張っている私の思いとは裏腹に、叶わないってわかってる理性をこれ以上、くるわせないで。
泣いてしまいそうだ。勘違いして、本当に、甘えてしまいそうだ。
「唄」
お願い。
「唄」
お願いだから、どうか。
「唄、俺は後悔したくない」
右耳から、左胸の鼓動を感じた。
早送りしているみたいに、ドクンドクンって震えるその力強さが伝わるたびに、私の左胸の鼓動も震える。
腰と頭に回った腕が、手が、私の両頬に添えられた。
私と学園長の距離は、わずか数センチ。学園長の綺麗な目の中に、怯えた顔をした私が映っていた。
「教育者が、本来教育するべき生徒に手を出すのはどうだと、それは何度も思い悩んだ。当たり前だ。俺と唄とでは、一回りくらい年齢が違うんだぞ? こんな俺よりも、同い年で一緒に成長できるヤツの方がいいって、思いもした。けどな」
するり、と親指の腹で頬を撫でられた。
学園長の目は、相変わらず真剣みを帯びている。
「諦めきれねぇよ。……俺はな、唄の前ではいつだって完璧でいたかった」
「え?」
「いつだって、完璧で、頼れる大人でいたかったんだ。本当の俺は幼稚で、唄が想像するようなヤリ手の学園長でもなければ、出来る大人でもない。愛する女も守れない、駄目なヤツだ」
ひゅって、喉から小さな息が零れた。
学園長の手が、やけに熱く感じられる。熱くて熱くて、融けてしまいそう。
「唄、唄は俺を勘違いさせるのがうまい」
「そん、な、の」
「他の生徒に向ける微笑みとは違う、あまりにも綺麗な笑顔を向けてくるから。俺は唄も同じなんじゃねぇかって、そんな勘違いをしちまう」
勘違いしてしまいそうなのは、私の方だ。
学園長の方が、私を勘違いさせるのが上手いんですよ。
そんな、甘ったるい目で、顔で、私を見る。
怖い。怖いよ。
「俺のコレは、本来隠さなきゃいけないモンだ。でもな、唄。俺はもう、我慢できねぇよ。これから先、今日みたいに唄が見つからなくって、それで最後になんかあって、唄を失うことになんかなったりしたら」
こつん、と学園長の額と私の額がくっつく。
熱が、より一層つよくなった。
「俺はきっと、生きていけない。怖いんだ、唄。唄がいない未来があるかもしれないって、それを考えるだけで震えが止まんねぇよ。……そんでな、俺は絶対に後悔する」
学園長の熱い吐息が、私の目を潤ませる。
もう、心が爆発しそうだ。
「後先考えるのは、もうやめることにした。と言うか、腹を括ることにしたんだよ、俺。職業とか、年齢とか、そりゃあ障害は山のようにある。けど、俺の勘が、唄の表情が確かなら」
隠そうとした顔を、表情を、感情を暴かれる。
もう駄目だ。もう、前を向けない。
「好きだ、愛してる。ずっと俺の傍にいてくれ、唄」
――― こんなありきたりで、飾り気のない告白しかできない、不器用な俺の傍に
学園長は、まるで懇願するようにその言葉を言う。
だけど、それは懇願なんて生易しいものじゃなかった。
だって、だってだって、こんなに甘くて、こんなに愛おし気で、こんなに自信に満ち足りた表情で見つめてくる。
好きだ、愛してる、って何度でも、私の目を通して語り掛けてくる。
もう、拒否のしようがないじゃないですか。拒否なんて、させるつもり、無いじゃないですか。
私が返せる返事なんて、一つしかない。
世間の誰もが「いけないこと」だと、禁忌だというだろうこの気持ちの、確かな証を。
「すきです」
その声の響きが広がるころには、私の視界はまた暗く、汗と花の香りと、左胸の鼓動が鳴り響く、世界にいた。
******
『バカイモウト、とっとと起きろ!!』
『ぅ、え……?』
ぐっと背伸び、えっと、背伸びでいいのかな?
とりあえず身体を伸ばして、私を起こした譜兄さんを見つめる。
真っ白な、私と同じ内巻きの毛並みに顔を押し付けながら、どうしたのー? と言外に伝える。
譜兄さんは呆れたように息を吐いて、いいから起きろと私に言う。私は首を傾げながらも、体を起こした。
『お前、いつ黒狼のヤツなんかと知り合ったァ?』
『え?』
『だから、黒狼の雄といつ知り合ったんだっつってんだよ!!』
譜兄さんが何にキレているのかはわからないけど、黒狼の雄? と黒狼の知り合いを思い浮かべる。
私の黒狼の知り合いなんて、金城委員長のパートナーである唱さんだけだ。もしかして、譜兄さんは唱さんと会ったのかな?
それで、唱さんが譜兄さんに何か言ったのかもしれない。
『それが唱さんのことを指しているのなら、11月の初めくらい、ですかね? 優子さんの相談担当だっていう風紀委員のパートナーなんですよ。それがどうかしたんですか?』
『それがどうかしたんですか? じゃねェよ! こンのバカイモウト!!』
『えぇ!? なんか理不尽です!』
私が正直に言えば、譜兄さんは怒ったように私の頭を叩いた。痛い。
本当に、一体何があったのかわからないしすごく理不尽だ。
ごろんごろんと芝生の上を転がる。譜兄さんは「チクショウ……ッ」となんでか唸ってる。
いやもー、本当に何があったの、譜兄さん。ふあ、と息を吐くと、ザクザクと芝生を歩く音が聴こえた。
『チッ。……チッ!!』
『もうなんなんですか譜兄さん! 怖いですよっ』
歩く音が近づくたびに、譜兄さんの機嫌が悪くなっていく。
なんでだろ? いやもう、本当になんでだろう。
『――― うた』
『ぅえ? って、唱さんじゃないですか!』
譜兄さんの機嫌が最低まで行ったところで、あの歩く音の正体が唱さんだっていうことに気付く。
唱さんは真っ黒な毛並みを風で遊ばせながら、私のところまで1歩で近づいた。
相変わらず、大きい。譜兄さんとほぼ変わらない大きさの唱さんは、私を前足で弄ぶとニヤリと笑みを浮かべた。
『また、夢が始まった』
『え、それどういう―――』
とりあえず、譜兄さんのアタックが決まった唱さんを介抱してから理由を聞こう。
そんなありきたりな日常の、映えるような夢の萌しを。
リクエストは【深堀なつき】さまからです。リクエストありがとうございました!