Ⅴ
カシウスが作ってくれた奇跡のように美味しいサンドイッチを完食し、冷たい水で喉を潤した私は、ふと口の中の爽やかさが欲しくなった。
前世の習慣で「よし、歯を磨こう」と立ち上がりかけたのだが、そこでピタリと動きを止める。
そういえば、この世界には歯ブラシと歯磨き粉という概念が存在しなかった。
(じゃあ、今のルキアはどうやって口の中をケアしていたんだっけ……?)
記憶の引き出しをゴサゴサとあさってみると、答えはすぐに弾き出された。
この世界での「歯磨き」とは、ハーブや清涼成分を凝縮した小さくて固い「魔法の飴玉」のようなものを一つ口に含み、転がすことだった。
私は執務室の棚から、小さなガラス瓶を取り出した。中には緑色の透明な粒がいくつか入っている。
試しに一粒つまんで口に放り込んでみた。
「……ん! んんっ!?」
口に入れた瞬間、ハッカとシトラスを足して十倍に濃縮したような猛烈な爽快感が弾けた。
舌の上で転がしていると、不思議なことに歯の表面のザラつきがみるみる消え、ツルツルになっていく。さらに口臭も完全にシャットアウトされ、ミントの清涼な風が鼻から吹き抜けるような感覚だ。
「すごい……! 汚れも落ちるし臭いも消える! 現代の洗口液より強力じゃない!?」
ここまでは非常に素晴らしい技術なのだが――問題は、その後の鏡チェックである。
飴玉を舐め終わり、ツルツルになった歯を鏡の前でイーッと露出させてみた。
「……やっぱり、くすんでるわよねぇ……」
歯の表面はピカピカに磨かれているのに、歯そのものの色がどんよりとくすんだ黄色……いや、うっすらと灰色がかったような不健康な色合いをしているのだ。
いくら表面の汚れを落としても、歯の内部から変色しているような印象を受ける。
(……なんでこんな色になっちゃったの?)
再び記憶の検索だ。
幼少期のルキアの記憶を遡っていくと、出るわ出るわ、切ない奇行の数々が。
幼い頃、周りの子供たちから「顔色が悪い」「病気じゃないか」「不気味だ」とからかわれたルキアは、深く傷ついた。
そして彼女が取った行動は――「市販の回復ポーションや万能薬の過剰摂取」だったのだ。
『これをつづけてのめば、きっとみんなみたいに健康でかわいいお顔になれるわ!』
健気というか、無知ゆえの暴走というか。
幼いルキアは、買い集めたポーションや、薬草茶を毎日ガブガブとガロン単位で飲み続けていたのである。
「あー……これ、前世で言うところの『テトラサイクリン歯』みたいなやつだ……!」
前世の知識が頭をよぎる。
幼少期(歯の発育期)に特定の抗菌薬や強い薬剤を大量に摂取すると、歯の形成に影響が出て、永久歯が黄ばんだり灰色に変色してしまうという症状だ。
ルキアの過剰なポーション摂取が、まさにそれと同じ現象を引き起こしてしまったのだろう。自力で自分を治そうとした結果が、裏目に出てしまったわけだ。悲しすぎる。
「うーん……こればっかりは前世の美容知識じゃどうにもならないわね。ホワイトニングの歯磨き粉で落ちるレベルじゃないわ」
とはいえ、この世界の医学や魔法の知識を借りればなんとかなるかもしれない。
ただし、お医者様に見せるというよりは……。
「物質の成分変化とか、体内の薬毒の分解が得意な『錬金術師』にでも、後で相談してみようかしら」
幸い、今の私はこれから莫大な資金を手に入れる予定だ。
お金さえあれば、腕の立つ錬金術師を雇ってホワイトニング用ポーションを開発させることだってできるかもしれない。
「よし、とりあえず今は保留! 焦りは美容の大敵よ!」
私は瓶を棚に戻すと、ようやくベッドに入り、朝まで泥のように眠ったのだった。
──
翌朝。
燦々と降り注ぐ太陽の光で目が覚めた私は、絶好の「売却日和」であることに満足の笑みを浮かべた。
まさかの水風呂で入浴を済ませてテンションガタ落ちとは露知らず。
「さて! 今日はヴァレリウス家の全財産を売り払う一大イベントよ!」
私はクローゼットを開け、今日着ていく服を選定し始めた。
といっても、クローゼットの中はギラギラした刺繍やフリルが爆発している重たいドレスばかり。その中から、奇跡的に最も地味で、最もフリルが少なく、比較的動きやすそうな濃紺のドレスをチョイスした。
「うーん、これでもまだ重いわね……。引っ越しが終わったら、絶対に真っ先に実用的で軽やかな平民用の服を買いに行こう」
前世でいえば、Tシャツとジーンズ、あるいはパーカーとスニーカーのようなラフな格好が恋しくてたまらない。
髪をひとつにまとめ、昨日奇跡の黄金比に整えた眉毛を鏡で確認し(うん、今日も完璧!)、私は執務室で待機していたカシウスのもとへと向かった。
「おはよう、カシウス! 準備はいい?」
「おはようございます、ルキア様。……はい、競売場への手配と、査定人の巡回の手配はすべて完了しております」
カシウスは相変わらず凛とした立ち姿で頭を下げた。彼もまた、覚悟を決めたようなスッキリとした表情をしている。
「素晴らしいわ! じゃあ、出発しましょう」
私が目指す売却先――それは、王家や国ではなく、いま飛ぶ鳥を落とす勢いで台頭している「ブルジョワ(新興富裕層・実業家)」たちであった。
これには明確な理由がある。
国や王家に売り払おうとすれば、「ヴァレリウス伯爵家の落ち度」や「戦火での損失」を理由に、足元を見られて安値で叩かれるに決まっている。お偉い貴族様というのは、いつの時代も困窮した同族から搾り取るのが大好きなのだ。
だが、ブルジョワ層は違う。
彼らは今、喉から手が出るほど「貴族のステータス」と「広大な土地」を欲している。
この世界では今、大きな産業革命の波が押し寄せつつあった。
遥か、遥か遠方の先進的な国々の噂。
ロドアス帝国は「鉄道技術」を完成させ、広大な大陸を鉄の網で結びつつある。
ゼリュキア帝国「船舶技術」によって世界中の外洋航路を独占し始め、海上貿易の富を総取りしている。
ハルシュタット帝国は「飛行船技術」を確立し、空の輸送網を支配していた。
これらの先進国では、とっくの昔に「貴族が商売をするのは恥」という古くさいプライドを捨て去り、実業家や貴族が手を取り合って富とインフラの支配権を手にしていたのだ。
翻って、我がルーメン王国はというと……。
地理的に平和な辺境にあることと、この地域を治める帝国の恩恵を棚ぼたで受けているおかげで、未だに「貴族は高尚、商人は卑しい」という意識が抜け切っていない。改革のかの字すら出てこないほどのんびりとした、いわば「時代の取り残され地域」だった。
しかし、歴史の波は絶対に止まらない。
いずれ絶対に、この国にもブルジョワ主導の産業化の大波、いや津波がやってくる。
(だからこそ、今なのよ!)
旧態依然としたルーメン王国の古い貴族たちが「土地や屋敷を手放すなんて恥だ」と渋っている今のうちに、先進的なブルジョワ実業家に売っ払うのだ。彼らにとって、歴史ある伯爵家の本邸と広大な領地は、いくら積んでも欲しい「最高のブランドステータス」なのだから。
「ふふふ……絶対高値で売れるわ」
「……ルキア様、なんだか恐ろしい顔をされていますが……」
「なんでもないわ! さあ行きましょう、カシウス!」




