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「ええ、その通りよ。『偉大な父の威光に隠れた未熟な娘』の方のアイレネよ。私の名前を知っていてくれて光栄だわ、騎士様」
「な……ッ!?」
カシウスが珍しく動揺を見せている。
カシウスほどの男がここまで驚くということは、このアイレネという女性は、芸術の世界においては雲の上の超有名人らしい。
「あの……その有名な画家様が、一体どうして私たちのような者のところへ?」
私がカシウスの背中から顔を出して尋ねると、アイレネの視線がパッと私に注がれた。
彼女の瞳が、まるで獲物を見つけた肉食獣のようにキラリと怪しく光る。
「単刀直入に言うわ、お嬢さん。――私に、あなたをモデルにして一枚の『絵』を描かせて頂戴」
「……はい!?」
唐突すぎる要求に、私は思わず素狂った声を上げてしまった。
「私を……モデルに!? どうして私なんですか!?」
自分が取り立てて絶世の美女だなんて思っていない。髪や肌の手入れは頑張っているけれど、貴族社会にはもっと着飾った豪華絢爛な令嬢たちがいくらでもいるはずだ。
私が問い詰めると、アイレネは溜息を混じえながら、どこか熱っぽい口調で語り始めた。
「このルーメン王国という国は、芸術に対してあまりにも無理解で歪んでいるの。未だに絵画の価値を『どれだけ高価な画材を使ったか』でしか評価しない」
彼女は呆れたように肩をすくめる。
「金箔を何枚使ったか、砕いたラピスラズリや赤ルビーをどれだけ塗料に混ぜ込んだか……そんな『宝飾品としての価値』でしか絵を見ない愚か者ばかり! でもね、だからこそ! 私はこの退屈な地で、本物の『芸術』を生み出してやりたいのよ!」
アイレネは一歩前へ踏み出し、私の瞳をじっと見つめた。
「昨日、私が街の広場を歩いていた時……あなたを見かけたの。そこの騎士様と仲良さそうに話しながら、自分の足で前を向いて歩くあなたの佇まい……気品の中に宿る力強さ、そして内に秘めた圧倒的な生命力の輝き! 私の直感が叫んだわ。『この子だ! この子を描かなければ、私は一生後悔する!』ってね!」
彼女は胸に手を当て、熱っぽく宣言した。
「芸術に理屈なんていらないの! ただ『ビビッと来た』からあなたに決めた! それだけよ! で……私のモデルになってくれるかしら?」
「え、ええぇぇ……」
アイレネのあまりの情熱とマシンガントークに、私は気圧されてしまった。
前世でも、こういう「自分の世界を持ったアーティスト」って独特の熱量があったけれど、彼女はその究極系みたいな人だ。
有名画家にそんな熱烈なスカウトをされるなんて、普通なら光栄の極みだろう。
だけど――。
「……申し訳ありません、アイレネ様」
私は一度深く頭を下げ、申し訳なさそうに言った。
「お誘い下さったのは本当に光栄ですし、すごく嬉しいです。でも……今の私は、ちょっとお返事できません。今はお店を出す準備で、本当に忙しいんです」
「お店……?」
アイレネが意外そうに目を丸くした。
「ええ。私とカシウスの二人で、近々この街に新しいお店をオープンさせる予定なんです。だから、何時間もじっと座って絵のモデルになるような時間は……」
「まあ! あなたたちでお店を出すの!?」
アイレネは嫌がるどころか、むしろ「面白いわ!」と言わんばかりに目を輝かせた。
「素敵じゃない! 一体どういうお店なの? 既存の商人から買うのではなく、自分たちで始めるの?」
「はい。私の手作りの『ゆるふわなぬいぐるみ雑貨』と、カシウスが手作りした『高品質な木工家具』を扱う、小さなハンドメイドショップです」
私が説明すると、アイレネはカシウスの後ろに置かれた制作途中の衣装箪笥と、テーブルの上の大工道具一式へと視線を走らせた。
そして、感心したように深く頷いた。
「見事な木工技術ね……あの木肌の滑らかさ、寸分の狂いもない接合部。素晴らしいわ! 既存の価値観にとらわれず、自分たちの手で美と機能を形にして売る……あなたたち、立派な『創作者』じゃない!」
彼女は私とカシウスの顔を交互に見つめ、素直な称賛の笑みを浮かべた。
「画家とハンドメイド?……表現の形は違えど、私たち同じ創作の仲間ね! ますますあなたのことが気に入ったわ!」
「あ、ありがとうございます……」
同じ「創作者」として認めてもらえたのは純粋に嬉しい。
だが、アイレネはふと顎に手を当て、思い出したように言った。
「でも……出店するとなると、色々とまとまった『お金』がかかるでしょう? 店舗の契約金に内装費、それにこの国のガメつい税金や手数料……」
「ええ、まさに……」
私とカシウスは思わず顔を見合わせた。
さっきまで私が「売上の20%も持っていかれる!」と頭を抱えていた真っ最中だったのだ。2000金貨の蓄えがあるとはいえ、初期投資や運営コストは安いに越したことはない。
すると――アイレネはフッと妖艶な笑みを浮かべ、着ていたドレスのポケットから、何やら羊皮紙の小切手帳のようなものを取り出した。
「なら……これでどうかしら?」
彼女はサラサラと専用の魔導ペンで何かを記入すると、その紙を私に向かってスッと提示した。
そこに書かれていた数字を見た瞬間――。
私の思考は、完全にフリーズした。
『【前金】ぜリュキア中央銀行発行当座証書:500金貨』
『【条件】肖像画完成時、作品に満足した場合の追加成功報酬:1000金貨』
「……え?」
私の口から、間抜けな声が漏れた。
前金で……ご、ご、ごひゃく金貨……!?
そして完成したら……追加で、いっせん……金貨……!?
「な……ッ!??!?!?」
後ろにいたカシウスも、その桁違いすぎる数字を目にした瞬間、膝から崩れ落ちそうになりながら目を見開いていた。普段の冷静沈着な騎士の面影は微塵もない。
「あ、アイレネ様……!? これは一体……!?」
「モデル料よ」
アイレネは当然のように言い放った。
「言ったでしょう? 私は本物の芸術を生み出したいの。この絵には本国で数万金貨の値がつくわ。なら、私に最高の発想を与えてくれたモデルに1500金貨払うなんて、当然の投資でしょう?」
彼女は小切手を私の手に押し付けるように握らせると、ウインクしてみせた。
「これだけあれば、一等地に最高のお店を構えて、手数料なんていくらでも払えるでしょう? 拘束時間は数時間、あなたのお店作りの邪魔にならない時間帯で構わないわ。……どうかしら、私のモデルになってくれる?」
「……」
「……」
あまりにも桁違いすぎる破格の提案に、私とカシウスは手の中の小切手とアイレネの顔を交互に見比べながら――ただただ、目が点になることしかできなかった。




