【第九十五話 色欲の残滓】
ラティファが、机上の飲みかけのブランデーを飲み干した。
彼女の生傷が目立つ額には、汗が伝っている。
自身の拍動が、カレンにとっては何よりも喧しかった。
新たな予言に記された、ロニアと茨の劇団の男。
恐らく、今頃――。
カレンの不吉な逡巡を確かめるように、遠吠えが響いた。門の前からだった。
カレンが窓から見下ろすと、狼族の女がいた。
アマクサが駆け寄っている。
こうしてはいられない。
カレンが、窓から身を投げ出した。
「なっ、おい!?」
「わーお。ヨハネちゃんビックリ」
落下の向かい風に、髪が弄ばれられる。
衣服がなびき、まるで帆のようだった。
落下の瞬間、カレンは人差し指を立てて静かに唱える。
「【緑魔法:衝撃】」
ドムッという音とともに、空気の破裂が足元で発生する。
それが緩衝材となり、カレンはそのまま着地が可能となったのだ。
「はぁっ……はぁっ……! あなたは!?」
「い、いやいや……。あんた大丈夫なのか!? すごい派手に飛び降りたけど……」
「それはいいんです。なにがあったんです!?」
カレンの疑問を代弁するように、アマクサが眉間に皺を寄せながら言った。
「ヴォルコフという村に、例の男が現れたでござる。ロニア様とロムレス殿が交戦中とのこと……」
あの予言の通りだった。
カレンは、門を越えようと試みた。
しかし、彼女の脚はアマクサにより掴まれる。
「離してください! 私、ロニアくんのために行かなきゃ!」
「そう焦るでない、カレン嬢」
「そうなのですよ、カレン! ロニアくんなら、きっと大丈夫なのです!」
「それに、変に人員が増えたところで何かが変わるわけではあるまい。拙者の経験上、足手纏いになるだけでござる」
カレンは、交戦経験に乏しいわけではない。
それどころか、何度も大罪を相手取って勝利を収めている。
頭の中で、過去の戦闘が蘇る。
アスモディウスとの戦いにおいては、トドメをカレンがさした。
どれも、ロニアによるサポートがあった。
今のロニアは、ただでさえ天使の力を意図的に封じている。
その状況でカレンが向かえば、彼の意識が散ってしまうだろう。
カレンは俯き、唇を噛みしめながら降りた。
「……それじゃ。私の仕事は済んだ」
狼族の女が、フードを被って踵を返す。
しかし、その瞬間。
「済んじゃいねェよッ!」
頭上から、女性の雷のような怒号が聞こえた。
見上げると、炎の蛾を思わせるような翼が広がっていた。
カレンが探知の青魔法を使用すると、そこにあったのは真っ黒な魔力に満ちている。
炎の蛾が飛び降り、狼族の女を蹴り飛ばした。
鈍い音が響き、彼女は樹木の幹に叩きつけられる。
「ルパ殿!」
アマクサが叫び、目を開いた。
空色の瞳孔は揺れている。
ひとっ飛びで門を飛び越え、炎の蛾を斬りつける。
「っぶねぇなァ!」
アマクサが狼女に駆け寄る。
狼女は立ち上がり、雑木林の中に消えた。
「して。お主は一体何者ぞ」
「テメエに用はねぇよ」
翼越しに見えたのは、ほのかに焼けた小麦色の肌と腰まで伸びた赤髪。
その表情は、鬼気迫るものだった。
その女は、カレンを強く睨みつける。
思わず――息が止まった。
「ようやく見つけたぞ。よくもアスモを……!」
「アスモって、アスモディウス!?」
「それ以外に何があるんだよ!」
焔の翼の毛先が、まるでヒトの指のように伸びる。
カレンを追いすがるも、マチィナの剣杖が薙ぎ払った。
「あなたは、アスモディウスとどんな関係なのです!? あいつは、私のママに泥を塗った悪いやつなのです!」
「ンなこたあ知るかよ! オレは……アイツが地獄で眠る姿を見て、めちゃくちゃに頭に来てんだ! アスモとは、智天使の時からの親友なんだよ……。もうひとりのオレなんだよ!」
まるで泣き叫ぶような慟哭。
再び、焔が広がった。
カレンが、青魔法:結び目の道で白銀の杖を取り出す。
「あなたは、何者なの!」
カレンが、杖先を女に向けた。
アマクサが、刀を構える。
引き金に手を引きながら、腰を落としていた。
「アスモの、ずぅっと長い友達なんだ。オレは。だから、アイツがルシフェルに着いていくって言った時も、何も言わずに後を追った」
「はあ? いったい何を……」
「アイツはオレの唯一だったんだ! 心の拠り所だったアスモを、堕天使ベレトからよくも奪いやがったな!」
ベレトが、回転しながらカレンに襲い掛かる。
対象は、カレンだけ。アスモディウスの命を、一度奪ったカレンへ。
瞬間。アマクサが跳ぶ。
「出番でござる。刃天煉よ」
アマクサがカレンの前に出た刹那、白い斬撃と彼女の残像が七回現れた。
しかしカレンの目には、アマクサの繰り出した斬撃は一度だけに映っていた。
ベレトの回転が逸れ、門を溶かす。
翼が解れ、燃え上がるような髪が雪を融かす。
ベレトが、ギリリと奥歯を噛み締める音が、カレンにまで聞こえてくるようだった。
「お主の境遇がなんであれ。拙者の使命はひとつ也」
ロンド家をお守りすること。
アマクサはそう言って、刀の引き金を再び引いた。
揺らめくアマクサの残像。それは実体を持っていた。
「邪魔しやがって。なら、テメエも丸ごと焼き付くしてやるよォ!」
狂乱にも似た叫び。
ベレトが地に倒れ伏し、獣のように四つん這いになった。
燃える尾が揺れ、空間を管楽器の音色が震わせる。
そのまま、カレンに向けて突進する。
構えるカレン。肉体の魔力を、杖に向けて流し込む。
しかし、カレンに振りかぶる寸前だった。
ベレトは角度を大きく曲げ、身体を起こしながらマチィナへと突進する。
「マチィナ!」
「死ね」
「そうはいかないのです!」
剣杖のレバーを下ろすマチィナ。
剣先が引っ込み、無機質な杭が顔を出す。
プシュウと、水性エーテルの蒸気が杖から噴射され、シリンダーが高速回転を始めた。
エーテルの甘い匂いと、焼き焦がす灰の臭いが充満する。
突進するベレト。
彼女の鼻先がマチィナに触れた瞬間――
「今なのです!」
マチィナ。振り下ろす。
杭がベレトの腹に触れ、押し込まれた。
ズガァンッ!
激烈な水蒸気爆発。
「やったでござるか?」
「いや、まだ魔力反応があります!」
蒸気の霧が晴れる。
ベレトの影が映っていた。
彼女の腹部には風穴が空き、青い血が滴っている。
けれど、ベレトの眼光には生気が満ちていた。
口元から流れる青い粘つく血液を、唾のように吐き出す。
彼女の濁った黄金の瞳が、紅く燃え上がる。
炎が肉体を包み、グチャりと音を立てながら、なんと患部を再生したのだ。
「終わらねぇ。アスモの無念を晴らすまでは、オレは死ねねぇ」
「うっ……カレン……私、もう力が出ないのですぅ……!」
地に膝をつき、項垂れるマチィナ。
再び、マチィナへと歩み寄るベレト。
「いかんっ!」
アマクサが動く。
姿勢を落とし、勢いのまま雪の上を滑る。
炎刃のような手刀を放つベレトを、アマクサの刃天煉が防いだ。
「おいおいこんなモンかぁ!? オレのアスモは、こんなヤツらにやられるほどヤワじゃねぇぞ!」
足元に広がる、燃え盛る黒い魔方陣。
それが、ベレトに覆い被さる。
ベレトが指を鳴らすと、世界の音が止まった。
色が反転し、息が詰まった。
「契葉逆門。澱は『アスモディウス』」
【エラー。黒魔法:色欲の名のもとに、愛と怒りに悶えよ】
視界が暗転した。
再び光が戻ると、カレンは再び、あの光景を目にした。
アスモディウスの閨。むせ返るような、溶けた砂糖と蜜の混ざった甘ったるい臭い。
肌にべとつく、汗のような感覚。
カレンたちの目の前には、アスモディウスの装束に身を包んだ、ベレトがいた。
かつてアスモディウスと相対したように、彼女は閨の奥で腰を落としていた。




