【第九十三話 縋りつく過去】
ルパが、ロニアたちを連れて赤レンガの民家へと走った。
曰く、あれは長老の邸宅である。
ホーラドゥナだけではない。ヴォルコフまでもが、茨の劇団の男による毒牙にかかっていた。
「遅かったか、クソッ。すまねぇなルパ!」
「お前だけでどうにかできる問題じゃないだろ? 今はとにかく、長老に伝えねぇと!」
二足で走っていたルパは、姿勢を限界まで下げた。
そして、両腕。いや、両脚で、鼠色に汚れた雪を踏みしめる。
ロニアたちもそれに合わせ、走行速度を上げた。
「茨の劇団って、どっちかって言ったらいいヒトたちなんじゃないの!?」
走らされることに不満を垂れるように叫ぶロニア。
呼吸のたびに肺を循環する冷たい空気が、やがて膜に微痛を与える。
「ああ、そういうイメージだよ! とんでもねえ狂ったヤツがいるってことは知らなかったけどな!」
皮肉げに口角を歪めるロムレス。
通行人の隙間をロニアは通り抜け、ロムレスとルパは飛び越えた。
何度も縫うように人混みを越え、目的の建造物を見上げた。
赤レンガの模様が格子状に絡み合い、煙突からは灰色の煙が上がっている。
ルパは扉を叩くこともせず、強引に蹴るように開いた。
「はぁっ、はぁっ、長老!」
見かけによらず、内装は小さい。
目に入ったのは、最奥に見える木製の小さな食卓と厨房。
壁に備えられた暖炉があり、部屋の奥では老狼が頬杖をついて微睡んでいた。
「おっ、おお……、ルパ。どうしたんじゃ、突然」
「あの、赤い服の人間覚えてるか!?」
長老が顎を爪先で撫でるように掻く。
鼻の付け根に掛けられた眼鏡が曇る。
ブリッジから伸びるチェーンが、彼の頭部にある両耳で結ばれており、長老が耳を前方に倒した。
「赤い服……。ああ、いかにも胡散臭そうなあの男」
「そう、胡散臭いんだよ! 私たちの直観を信じるべきだったんだよ!」
若い衆があの男に洗脳された。
ルパはそう叫ぶ。
「しかしのお、洗脳とな。我々狼族は人族とあまりにも違いすぎる。脳の作りだってそうじゃ。洗脳など、ただの人間には」
「……いや、できる」
口を挟んだのはロニアだった。
ロムレスの間をすり抜け、ルパの隣に立つ。
「ほお、そなたはロンド家の後継ぎかの」
ロニアは微かに頷いた。
「して、どうするのじゃ」
「洗脳魔法は、同じ種族かそれ以下の存在にしかできないんです」
「我々は人間よりも劣った存在だと、つまりそう言いたいのかの?」
長老が牙を見せる。
にこやかに見えるが、確かに殺意を放っていた。
細められた瞼から覗く眼球が、ロニアの首元を捉えている。
「いや、人間すらも劣った存在なんです。あの男にとってはそうなんでしょう」
顎に手を当てて、天井を見上げるロニア。
階段から繋がった、小さな寝台が目に入った。
「つまりどういう事なんだ、ロニア坊? あの奴さんは人間じゃないってか?」
「うん。ラティファさんが言ってたでしょ。十二神徒を殺した人型砕獣。きっと、洗脳したやつと同一人物だよ。それに、砕獣の本懐は――」
適応と進化にある。
ロニアはそう言った。
かつてはただの胞子だった砕獣の核。
数千年の時を経て、それは多彩な姿を得る。
大洪水に流されなかった、小さな子犬の砕獣。
降る星の光に焼かれなかった、鳥型砕獣。
そして、やがて意思を得た、人型砕獣。
クリスタリアにて、テンプル協会に間引かれているのだ。
だが、茨の劇団は小規模である。
「あの人型砕獣は、茨の劇団に潜入してるんだよ、きっと」
「だが、いくら人型砕獣といってもよ――」
「可能性はある。クリスタリアでは、死亡した夫が砕獣だったっていう噂が流れているしね。火のないところにナントカって言うでしょ」
長老が眼鏡を押さえ、低く唸る。
「うぅうむ……。しかしのお……」
「どうしたんだよ、長老?」
「プルマのやつ、『面白そうだから行ってくる』だのなんだの言ってしもうての……」
「ああ、あの子プルマって言うんですか。カワイイ名前ですねえ」
知らない男の声が、頭上から響いた。
ロニアたちが見上げても、そこには誰もいない。
視線を下ろすと、食卓に腰かけながら茶をすする男がいた。
その男は――赤い装いをしていた。
ロニアは軽く息を呑み、杖とランタンに手を伸ばす。
だが、眼前にいた男が吹雪のように消える。
また、声が聞こえた。
「やぁっと見つけましたよ、愛しの先輩?」
背後から、首に手を回される。
温かい吐息がロニアの耳を蕩けさせ、麻痺のような感覚が背筋に広がった。
艶めかしい声色で、男はロニアに囁く。
「勝手にいなくなったと思ったら、こぉんなコトをしてたんですねぇ? ヒドイです。僕がいながら、こんなこと」
鳩尾を、指先で円を描くように回す男。
ムズムズする胸元。歯が浮いた。
「こんの……っ!」
ロムレスが、斧を振り下ろす。
しかし、男の姿は再び消えた。
「んもう、邪魔しないでくださいよ。せっかく、ふたりになれそうだったのに、ね?」
ロニアの視界の端で、黒髪が靡く。
右手首を、骨すら砕くような勢いで掴まれた。
体が背後に引っ張られ、踏みしめていた足場から放られた。
反撃を試みるロムレスたち。
しかし、男は口元に胡乱な笑みを浮かべたのち、指を鳴らした。
霧が一層濃くなり、低い鳴き声が響めく。
「だ・か・ら、誰にも邪魔させません。大好きな先輩と、たっくさんお話したいんですから」
男の足元に、黒い魔方陣が浮かんだ。
「ロニア坊!」
駆け寄るロムレス。
一歩。遅かった。
脊髄を抜かれたようにフラついた若い狼族が、ロムレスに襲い掛かる。
ルパが駆け寄り、若者たちを蹴散らした。
勢いのまま、ロムレスが走り出す。
手を伸ばす彼。
男。笑った。
にちゃりという粘着質な水音が響く。
「人気者ですねえ、先輩。まあ当然ですよね。あなたは最も美しくて、かわいらしくて――」
無垢で、傲慢で、甘えん坊で。
可憐で麗質で純真で。
だからこそ、誰もがあなたを狙う。
男は、首を傾けてロニアの瞳を見つめた。
不似合いなほどに白い、真珠のような輝きの双眸。
男の被っていた帽子が、はらりと落ちた。
変形したロムレスの弩から放たれた魔弾。
防護膜に、阻まれた。
ロニアの物ではない。
男の物だった。
これは、天界由来の魔法のはずなのに。
「なっ……阻まれた!? キルちゃん謹製だぞ、これ!」
男が、肩を震わせて笑った。
その様はまるで、欲しかったおもちゃをようやく手に入れられた子供。
男は舌なめずりをし、十字を切るような動作を見せた。
足元の黒魔方陣が、より一層、禍禍しく発光する。
「では、貰っていきますよ。愛しのフィアンセを、永久にね……」
繋がれたロニアの手を空へ掲げ、舌を二の腕へと伸ばす男。
しかし、やられるだけのロニアではない。
ロニアの防護膜に阻まれ、男の舌は宙に留まる。
「ふざけんな。ボクを赤裸々にしていいのはカレンだけだ。それに、誰なんだよオマエ!」
ロニアの瞳が紅く光る。
身。捩る。
バネのように宙を舞い、ロニアの右脚が男の側頭部に激突。
たまらず、手を離した男。
防護膜が剥がれ、ロムレスが躓いた。
しかし、前転しながらロニアの前に立つ。
「あっはあ……。これこれ。愛しの先輩のチカラ。やっぱり、本物だあ……!」
逆上するどころか、自身を抱きしめ恍惚に悶える男。
だが、突如糸が切れたように男の顔から笑みが消えた。
「ですが、その記憶は偽物だ。僕の先輩は、こんなに脆くない」
「下がってろ、ロニア坊。ルパ! お前はロンド家に急げ」
「ボクも戦う。たぶんおじさんよりも強いから」
ロムレスの横に立ち、杖をランタン下部の穴へと装填する。
【承認。戦闘モード移行】
ガラス部分が下部に押し出され、細く長い柄となった。
巻き付かれた、昆虫の歪な大顎のような文様が剥がれ、平行に伸びる。
黒曜石の湾曲した三日月。
大顎の隙間。青いエーテルの刃が、ズンと伸びる。
【エーテルバイパス展開。戦闘――開始】
鎖はうるさいけれど、それでも戦わねばならない。
ロニアは、ランタン剣を構えた。
男は、心底つまらなそうにため息を吐く。
「そんな矮小な先輩は、先輩じゃない。戻ってきてくださいよ、ね?」
「だからオマエは誰なんだよ!」
「あなたに惚れた男を忘れましたか!? ベリ――ベイリアルという名前を!」




