【第九十二話 新たな予言と狂いだす歯車】
カレンは、大広間の窓越しに、庭で駆け回るマチィナとヨハネを見つめていた。
雪をかき集め、どちらがより大きな雪だるまを作れるかの競争。
アマクサが翻弄され、樹木に手を突き白い息を何度も吐いていた。
ロニアとロムレスのふたりが買い出しに出ている。
セスはリウとアリスを連れ、再びホーラドゥナへと視察に向かった。
カレンがため息をつく。あたたかい息が、窓を濡らした。
受け止めきれずにいたのだ。
ロニアの肉体が、ルシフェルの器のために作られたものであると。
もともと、彼が天使であるということは知っている。
だが、ひとつだけ大きな矛盾があった。
ロニアの首元に巻かれた試練の鍵は、いったいどこから手に入れたのか。
もしもあの肉体が、本当にロニアのもので、堕天したのが精神だけだったら手に入れられるはずがない。
あくまで、カレンの組み立てた仮定だ。
カレンは、かつてシトリウス家でラファエルが言った言葉を思い出した。
『四大天使であるワタクシですら、恐怖を覚えている』
ロニアの正体について訊ねた際の言葉だ。
天界における、最強の四天使。
その一角であるラファエルが、声を震わせていた。
そう考えると、ロニアがただの『ルシフェルの器』と考えにくい。
むしろ、それ以上の何かだろうか。
ロンド家には、何かが隠されすぎている。
何が正しくて、どれがフェイクなのかがわからない。
小さな情報すらも重要な気がして、絡まった糸のように思考を妨げる。
考えていても仕方がないため、カレンは外の空気を吸うことにした。
そういえば、朝食以降からローラの姿が見えなかった。
ヴァレンティノスもいない。
ふと、 まるで毒を盛られたように鼓動が高鳴る。
まさか、あの二人がなにかを企んでいるのだろうか。
ロニアと同じように、もしやローラもサタンそのものなのではないだろうか。
「もしそうなら……」
ロニアを彼女らから引き離さないといけない。
ならば、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
カレンはそう思いながら、ロンド家の廊下を歩き始めた。
深紅のカーペットを踏みしめ、カレンはいくつもの部屋を横切る。
アリスの部屋。リウの部屋。
そして今夜ロニアが眠る、ロムレスとヴァレンティノスの部屋。
おそらく、ロムレスという男も被害者なのだろう。
聖痕を持つと言っていた、彼の悲愴な顔を思い出す。
そう考えると、この部屋に何かを仕掛けておくメリットは皆無に近いだろう。
カレンはさらに足を速めた。
すると、廊下の奥でひとつの扉が開いた。
亜麻色の髪が彼女の目元を隠し、ぴっしりとしたスーツはたるんでいる。
ふと、葉巻の芳しくも煙たい臭いが鼻についた。
「懐疑さま……」
「んあ? ああ、熱心党んとこの……」
何やら恨めしそうに、跳ねた頭髪を掻く十二神徒第八席、懐疑ことラティファ。
カレンが、煙に眉を顰めながらラティファの表情を覗き込んだ。
「何をされていたんですか?」
「ハァ〜……。寝てたんだよ。エーテル列車ってのは節操がないからねぇ。おちおち寝られやしない」
ラティファの吐いた息には、どこか甘さのある酒の匂いが混じっていた。
まるで唸るように話す彼女に、カレンは一歩退いた。
「そう……ですか。確かに、スーノス地区に入るときは浮遊しますからね」
「んで、そういうお前さんは何を嗅ぎ回ってるのさ?」
「えっ、いや……。私は別に何も」
状況が状況だ。
いくら十二神徒であれ、それだけで信用には値しない。
もしかしたら、彼女も――
「敵かもしれないって思ってんだろ。青いね、お前さんは。あーいいから。その『なんでわかったの』みたいな顔。私の名前知ってんだろ。懐疑と書いてトマスと読むんだよ」
「じゃあ、あなたは……」
「言っただろうに。私は、ミケを殺した人型砕獣を探してんのさ。これでも十二神徒なんでね。世間を脅かす存在は排除しなきゃなんねぇのさ」
「だから、ヨハネさまも……」
ラティファは、咥えていた葉巻を指の間でつまむ。
天井に向けて、鈍色の煙を吐いた。
頭上でしばらく揺らめくそれを、カレンは見つめた。
「お前さん、何を嗅ぎ回ってんのさ」
「あなたが本当に味方であることに賭けて、私の話を聞いてくれますか?」
「あ〜、結構深刻なやつかい。チクショウ、酔いが覚めてからって訳にもいかないね」
ラティファが、懐から革袋を取り出す。
葉巻の先をその中へと押し入れ、紐をキュッと結んだ。
「入りな。安心しなって、罠なんて仕掛けてねぇよ」
胡乱に口角を上げ、琥珀色の瞳を細めた。
カレンはラティファの顔を、一時も逸らさず見つめていた。
室内は、やはり酒の芳醇で、しかしツンと刺すようなにおいに満ちている。
後押しするように、ソファの前に置かれたガラスのテーブルには、彼女の瞳のような琥珀色のブランデーが置かれていた。
小さなグラスに、半分ほど注がれている。
ラティファがさらにスーツを緩め、黒い上着をソファに向けて脱ぎ捨てた。
ネクタイをほどき、ボタンをふたつ緩める。
「……随分と、大胆なんですね」
「あぁ〜酒で火照っちまってなあ。安心しなって、襲いやしない」
乾いた笑いを浮かべるカレンを前に、ラティファはソファの硬い背もたれに腰を落とす。
クイクイと、右手で手招きをする彼女。
カレンは、数十センチの距離を保ちながら、ソファに腰掛けた。
ふわりとした、羽毛のような柔らかさに身体が沈む。ロニアが好みそうだ。
「そんで、何を探ってんのさ」
「ロニアくんが、ルシフェルの器なんかじゃないって思うんです。そうだったら、いくつか辻褄が合わないって気づいて」
「待ってくれないかね。私は、その器だかなんだかを知らねえ。もしかして、あの奇妙な絵画に関係してんのかい?」
カレンは、深く頷いた。
ラティファは、背もたれに座り込んだまま状態を倒す。
サラリと垂れたセミロングの髪が、カレンの太腿に流れた。
カレンがわずかに右方向を見ると、ラティファの琥珀が彼女のサファイアのような双眸を捉えていた。
「辛くないんですか、その体勢」
「ちょっとやそっとのことのことで根を上げてちゃあ、十二神徒やってらんないさね。ほら、さっさと教えなよ」
言葉のままに、カレンは絵画の双子と、ロニアの過去を知る限り語った。
彼は堕天使である。彼は、熾天使たちと面識がある。
ただ、力が暴走した時のことは語らなかった。
「なるほどねぇ。状況はだいたいわかった。けど、一個だけ大きな勘違いをしてるかもしれないねぇ」
ラティファが上体を起こし、翻るように立ち上がった。
「勘……違い?」
「そのロニアとかいう小僧が、いつから安全だと思ってる?」
「え、それってどういう……?」
「十二神徒ってのはねぇ。熾天使にも認めらんなきゃならないんだわ。だから、私も少しは天界の事情を知っている」
ラティファは、前髪に覆われた左目を押さえた。
彼女の、皺の入った顔とは対照的な艶かしい肌に、赤い滝が流れる。
「えっ、血が……」
ラティファはカレンの言葉を、人差し指を自身の口元に運んで制した。それよりも重要なことがある、という意思だろう。
「今、天界と地獄ではルシフェル捜索で持ちっきりさ。どの時代の、どこにもいないんだってさ」
「この時代……未来や過去にも行けるのですか?」
ラティファが、指を鳴らす。
手首まで届かないほどの小さな手袋越しだと言うのに、パチンと軽快な音が響いた。
「正解。熾天使の権能さね。ウリエルとガブリエルちゃんが必死に探しても、影も形も無いってよ」
カレンは、ロニアの暴走した姿を思い出した。
ロニアがルシフェルの器だと、ロンド家の歴史は語る。
ロニアがルシフェルそのものであると、カレンの仮説は睨む。
だが、ルシフェルはどこにもいないとラティファは言った。
ならば、今いるロニアは何者だ?
彼自身すらも知らないような、何かがある。
それはきっと、三界を揺るがす。
カレンがそう考えていた、その時だった。
突然、部屋の窓が開く。
冷気が部屋中に侵入し、肌に粟が立った。
カレンが音の方向に振り向くと、ヨハネが立っていた。
駆け回っていたときのような無邪気さはその瞳にない。
彼女は、一冊の開かれた本をカレンたちに見せた。
「予言が更新された〜」
その光景では、赤い服を着た男が見慣れた少年に斬りかかっていた。話に聞いた、茨の劇団の男だろう。
カレンの鼓動が早鐘を打つ。
視界が、危うく暗転する。
「嘘、ロニアくん!?」
男の背後から、白い翼が広げられていたのだ。




