【第百十三話 簒奪された地獄】
木材の、どこか甘い匂いが鼻腔を突く。暖炉から、パチパチと弾ける音が響く。
横たわった肉体を包み込む寝台で動くたびに、肺から重い息が漏れた。
照明の光が差しこんだのか、暗い視界の中がズキンと痛んだ。
見上げる天井は、まるで波打つように歪んでいる。
息はか細く、瞳は震えている。着込んでいるはずなのに、ひどく肌寒い。
ロニアは、自身の額に手を触れてみた。
じんわりと、温かかった。
頭は、まだ痛む。ロニアが寝返りを打つと、静かに寝息を立てている妹の姿があった。
サタンでもある彼女は、こうして見てみれば年端も行かぬ生娘だ。
自分たちがこうしているのは、やはりベルゼブブのせいだろう、とロニアは思った。
「おや、目が覚めましたか」
どこか素っ気なく言い放つ男の声。眼鏡を光らせる、黒髪の男。
白衣をなびかせ、漆黒の瞳をロニアに向けていた。
「ヴァレンおじさん……」
「おはようございます……いや、こんばんはでしょうか。ご存じかもしれませんが、あなた様が倒れたところをロムレス様が連れてきたんですよ」
ベルゼブブがプルマの亡骸を喰い尽くして、気味の悪さだけが残るあぜ道にいたという事までは覚えている。
その後の記憶は、何ひとつ残っていなかった。まるで、切り取られたように。
頭痛だけではない。奇妙な胸騒ぎが、ロニアの胸中で渦巻いていた。
ロニアが身体を起こそうと試みたが、糸で固定されたように動かなかった。
「あまり動かないことです。検査させていただきましたが、かなり疲労がたまっているようです」
「そう、なんだ……。わかった」
言って、ロニアはそのまま倒れるように横たわる。
マットが揺蕩い、やがて沈む。
「……なにかあったんですか」
崩れていた眼鏡をヴァレンティノスが正すと、彼の瞳が黒く輝いた。
彼の低い声は、やはり腹によく響く。ロニアは目を細めながら、口をすぼめた。
「ん、いや……。堕天使を名乗るヒト、いたじゃん」
「ああ、ロムレス様が言っていたあれですか。それがどうかしましたか?」
彼は足音を立てながら、椅子を引き座り込む。
細められた視界に映る彼の顔半分に、影がかかる。
照明の、光だった。
「そいつが関係してるのかもしれないけど、ちょっとね」
ベイリアルとベルゼブブは盟友だ。
プルマはベイリアルに攫われ、蠅となって帰ってきた。
共通点が無いと考えるほうが難しい。
そのうえ、ベルゼブブが新たな地獄の王となってしまった。
サタンの完璧な管理のもと行われていた地獄の政は。まさしく混沌と化すだろう。
欲のままに贅沢を喰らい、腹の虫を殺すのだ。
やがて地獄から食指を動かすだろう。いや、すでに食材は掴んでいる。あとは、口に運ぶだけだった。
「ローラ様も貴方も、何かを感じ取ったのですね。サタンの器と、ルシフェルの生き写し。我々人間にとってはロクなことにならなそうです」
「……もう、面倒ごとはこりごりなのに」
「仕方ありませんよ。上手く行かないのが人生です」
どこか含みのあるような言い方をするヴァレンティノス。
窓を叩く音がしたと同時に、肌寒さが増した。
雪が降りしきっているようだ。空に浮かぶ灰色の雲が、本当の雲であることを願うばかりだ。
この前のは、さすがに鳥肌が立ったのだから。
「さてと、そろそろ住人の皆様に夕食を振る舞うお時間です。貴方のご愛人、とても心配していましたよ」
「……そりゃそうだよね。ボク、行ったほうがいいんだろうけど」
「もうしばらく安静にしてください。私からの命令です」
「うっ……。わかった。カレンによろしくって言っといてね」
「はい、お任せを」
ヴァレンティノスは恭しく頭を下げ、ぱたんと戸が閉まる。
しばらく、雪の音が喧しかった。
ローラは寝ているし、自分は体が動かない。
また、寝床の上か。ロニアはそう心の中でため息をこぼし、背を向けたまま眠るローラの後頭部を見つめていた。
自分のものによく似た、真っ白な毛糸のような髪だ。
指で梳いてみたくなる。ロニアはそう思った。
「何見てんですかクソ兄貴。めん玉くり抜きますよ」
「ご、ごめん。ていうか、起きてたんだ」
ローラは寝返って、ロニアへ紅蓮の瞳を向ける。
相変わらず、鋭い目つきだった。
「眠っているときにコソコソ話されたら、そりゃ起きますよ。ピーチクパーチクと、アナタたちは鶏ですか」
「言いすぎでしょ。それよりも、頭大丈夫?」
「喧嘩なら買いますよ。地獄でケリつけましょうか? アナタが負けたとしてもすぐに判決を下せますけどね」
ローラは横になったまま、拳を構えた。
「あっ、そうじゃなくって。頭痛だよ」
ロニアが手を突き出し、かぶりを振る。
ローラには逆鱗が多すぎて、まったく御しきれない。
ニンゲンの兄妹がこんなものかは知らないが、仮にそうだとしたらまったく骨が折れる。
ローラが拳を下ろし、深く息を吐いた。
ロニアの瞳を見つめていた彼女は、目を逸らしながら体を伏せる。
横目にロニアを見て、訥々と語り始める。
「まだ、治まってないです」
「やっぱり、ベルゼブブが……」
「ハエ野郎、やっぱり信用するべきではありませんでした。消去法ではありましたが、せめてレヴィアタンにしておけばよかったです」
ローラが拳を強く握りしめ、枕に叩きつける。
気の抜けたような音が、やけに重々しく響いた。
歯ぎしりが、こちらまで聞こえてきそうだった。
「どうして、ベルゼブブは王座を?」
「大罪。地獄の王になれば、地獄の門を開き放題です。通過しても体がバラけないんですよ。つまり、どういうことかわかりますか?」
「人間界に来て、ニンゲンたちを?」
「それもあります。眷属であるベヘモットが倒された復讐の可能性もありますけどね」
ベヘモットを倒したのは、ルシフェルの力に呑まれた自分だ。
学園祭の時のことだった。カレンが白魔法に目覚めたのもそのときだった。
「大罪に、そんな絆みたいなのはあるの?」
「知りません。少なくとも、マモンやレヴィアタンにはあるでしょう」
「じゃあ、ローラ、いやサタンにはないんだ。なんか寂しいね」
「……なんのつもりです。ワタシを絆そうと?」
「べつに。ベルゼブブのこと、大変かもしれないけど頑張ってね」
ロニアがそう言って、天井を見上げながら瞳を閉じる。
自分はニンゲンなのだ。地獄の面々など、もう関係ない。
「なに自分だけ楽しようとしてるんですか? ルシフェルの器なんだから、手伝ってもらいますよ」
「はぁ~。やっぱりこうなるかあ。お手柔らかにね?」




