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【第百十二話 エチケットは紳士の嗜み】

 「はあ!?」


 理解を終える前に、ロニアは腹の底から声を上げた。

 「ハエ野郎」と、ローラの「盗られた」という言葉。

 導き出せる仮説はひとつ。


 地獄の王。空席となったその席が簒奪(さんだつ)された。

 よりにもよって、暴食の大罪に。

 

 地獄の均衡は、ローラことサタンに守られていた。

 それは、サタンがルシフェルの妹だからという理由ではない。

 仕事において、一切の妥協を許さない。そういったポリシーによるものだった。


「なにか、知ってるでござるか?」


 アマクサが後髪を尻尾のように揺らして顔を覗き込む。


 どこまで説明していいものか。

 自分を除いたロンド家の住人たちは、ローラがあくまで「サタンの器」だということしか知らないのだ。

 彼女が、サタンそのものであることなど露知らず。


 ロンド家の子供たち。特に、ロニアとローラは「ルシフェル」を基にしている。

 二百年前の大戦争から、その血統は続いているのだ。

 皮肉なことに、ロニアは自分の正体がルシフェルだという可能性に気づいていた。


「……いや、すごく嫌な予感がするんだ」


 林に捨て置かれた死体。変容した狼蠅。

 ベイリアル討伐後、まるで何かの歯車が狂い始めたようだった。


 試練の鍵から、熱を感じる。

 心の中。首元につながった、幾万もの鎖。

 その一本が千切れ、足元に落ちる。


 モヤがかかったひとつの記憶が晴れる。


 もっと早く、気づくべきだった。

 この事実にさえ気づけていれば、ベイリアルとの戦いをもっと有利に進められたかもしれない。

 それだけでなく、プルマという犠牲も生まれなかったはずだった。


 ベイリアルとベルゼブブは、盟友だった。

 

 伝承のどこにも載っていないだろう。

 かつて自分が天使、あるいは()()()()だったころの記憶が言っていた。

 美酒に酔い、肉を食らって朝まで語り合う。そんな間柄だった。


「もうすぐで夏休みも終わるっていうのに……。どうしてこんな面倒ごとが……」


 ロニアが、唇を軽く噛みしめる。


 ベルゼブブが、もしもベイリアルのようにロニアを狙っていたとしたら、クリスタリアの生徒たちが危ない。

 スーノス地区はだだっ広く、人の手があまり加わっていない上に、サタンという味方がいる。

 正直に言えば、何よりも大きな戦力だとロニアはふと思った。


 ブブッ。何かの音がした。まるで何かが破裂するような音だった。


「おじさん、屁でもこいた?」


「うぅむ、やりそうではある」


「やってねえよ!?」


 ロムレスが、何度もかぶりを振る。


「今の音、あれからしただろ」


 ロムレスが、後方を指差した。

 プルマだった、狼蠅の亡骸だった。


「まさか、仕留めきれなかったか」


 アマクサが、腰に佩く刃天煉を構える。

 刃が日光に煌めき、切っ先から光を放っているようだった。

 そう、妙に明るいのだ。ここスーノス地区は、ずっと雪の曇天が続いていたのだから。


「ねえ、ところでさ。ここって、こんなに明るかったかな?」


 ロニアが、唾を飲み込んで一歩下がる。

 ロムレスが、再び斧を(クロスボウ)へと変えた。


「まっさか。ずっと曇りだったぜ」


「シッ。何かが来るでござる」


 アマクサが姿勢を落とす。

 

 プスプス……。プシュウ……。ブブブ……。

 狼蠅の亡骸が、沸騰するように泡立つ。

 肉肌は踊り、腹は盛り上がる。


 瞬間。

 ロニアの脳が、ズキリと痛んだ。

 肥大化した脳が、頭蓋を押し出すような痛みだった。


「ぐぁっ……」

 

 ロニアは膝を突き、か細い呼吸を繰り返す。


「ハァッ……! ハアッ……!」


「おい、どうしたロニア坊!」


「ローラ。まさかこれって、そういうことなんだね……」


 似たような感覚を覚えたことがある。

 ロンド家の門が近づいてきたころ、ロニアはチクチクと肌が痛んだことがあった。

 後日聞いたところによると、ローラも同様だったそうだ。

 それは、ルシフェルとサタンが引き合うことによる、ある種の拒否反応に近いという。


 ならば、この痛みの正体は。

 絶え間なく、波のように襲い掛かる頭痛は。

 耳元で羽ばたいているような蠅の音は。


 ベルゼブブが近づいている。


「ロニア殿!」


「ロニア坊!」


 二人の声が響く。

 ロニアは今、みっつの気配を感じていた。

 混濁していた意識がはっきりとしてきたとき。

 

 ――背後に、ふたつの閃光が走る。

 斧と刀、金属の二重奏。

 ロニアが前へ回避し、背後を振り向く。


 ――見知らぬ男が立っていた。

 見知らぬというには、既視感があった。

 男は、肩まで伸びた金色の毛髪を撫で、鍔広帽子を整える。

 

 鉄黒の背広を身にまとった男は、真っ赤な瞳を帽子の陰から光らせた。


「失礼、少々手荒だったみたいだ」


 甘ったるい香水のようなにおいが周囲を満たす。

 それはまるで、死体の腐臭を隠そうとしているかのように。


「マジか……!」


「避けられた……? 拙者たちの連携が?」


「ああ、あれはマジで殺しに来てたんだ。てっきり、威嚇かと思ったよ」


 男は、手のひらを擦り合わせながら笑った。


「しかし、思ったよりも骨がないね。ま、骨がないほうが食べやすくてラクだけど」


「アンタ、誰……?」


 ロニアは、絞るような声で恐る恐る尋ねた。

 男は瞳を三日月のように細め、帽子を脱いで頭を掻く。


「いやあ、大したもんじゃないですよ。オレはただの掃除屋でして」


 帽子を被り直し、ロニアの横を通り過ぎる。

 

「コイツ、腐るの早いでしょ。でもね、腐りかけがいいんですよ」


「何を言ってるの?」


「ちょっと腐ったほうが、むしろ誰も手を付けなくてありがたいかもね」


 男はそのまま、プルマの亡骸まで歩み寄る。

 水袋のように、肉が垂れ落ちていく。

 思わず、ロニアたちは眉を顰めた。


「こりゃあ、酷くやられましたねえ。うわっ、ここまで近づくと臭いがすっごい」


 咄嗟に鼻を塞ぐ彼だったが、その表情はどこか朗らかだった。


「アイツ、ヤバいね」


「同感でござる。腐肉に近づくさま、まるで蠅……」


「……ベルゼブブ、とか言うんじゃねえだろうな」


 本来、大罪であっても人間界に来るためには一度、地獄の門を通過しなければならない。

 その過程で、砕獣のように砕けてしまうのがほとんどだった。

 サタンがそのままの姿でここにいられるのは、当時の彼女が【地獄の王】だったからだろう。


 もしも、次期地獄王がいたとして。

 人間界へ襲来するのは、造作もないことだ。


 「ん、なぁんだ。オレも有名になったもんだね」


 男。いや、ベルゼブブは両手を広げた。

 背部。水晶のように透き通る羽が、窮屈から解放されたように広がった。

 そして、消えていた雲が足元にあった。


 それは、すべて蠅だったのだ。


「ああ、勘違いしないように。戦いに来たわけじゃない。ほんとに掃除しに来ただけだから」


 足元の蠅たちが、一斉にプルマの亡骸へと密集する。

 見る見るうちに、肉が溶けていった。

 黒くなった肉塊は、やがて雪に影を落とす。


 ベルゼブブが指を鳴らせば、配下の蠅たちが彼の手中に吸い込まれていった。

 背広のポケットから、一枚のハンカチを取り出す彼。

 優しく、それを口元に運ぶ。


「ふう、ごちそうさまでした」


 流れるように口元を拭う彼。

 その所作はあまりにも上品で、暴食の名を冠する大罪とは、とても思えなかった。


「骨も残してねえ……。マジかよ……」


「ぐっ……これは些か堪えるでござる」


 アマクサは表情をゆがめ、視線を逸らした。


 ベルゼブブは、ロニアたちを吟味するように見渡した。

 彼と視線が交差する度、心臓が冷えるようだった。


「まだ熟れてない、か。では、再びお会いしよう」


 ベルゼブブはそう言って、黒の魔方陣に包まれて姿を消した。

 根雪の深い獣道に残されたのは、気味の悪い後味だった。

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