【幕間その四:黙示録】
「こんなっ……。ワタシがっ!?」
湿気の多い、けれど肌寒い植物園。
ツタが絡まり、力強い大木が落とす影の下に、ある天使が倒れ伏している。
彼女の持つ、焔のような翼は消えかけていた。
見上げる先には、顔に満面の笑顔を象った布をつけた女がいた。
「あれ~? もう終わりなの~?」
黄金の毛髪を散らす天使の頭部を踏みつける女。
ドレスの裾が視界を塞いだが、足元に伝わる感触には、天使の頭蓋の硬さがあった。
「熾天使って聞いたのにさぁ~? もっとできると思ったのに~」
「そこまでです。おやめなさい、ベルム」
ベルムと呼ばれた女の背後に、冷たい声が響く。
笑顔を湛える彼女とは対照的に、その布には悲しみの顔があった。
「ちぇ~。ウィクトリアが言うなら仕方ないかぁ。よかったねえ、ウリエルさま~?」
踏みつけていた足を地に落とす。柔らかな腐葉土が、足跡の模様を残す。
ウィクトリアと呼ばれた女がウリエルに近づき、手を差し伸べた。
ウリエルが顔を上げて、布越しに透ける青い瞳を見つめている。
「ウリエルさま。アナタの度胸は認めます。ですが、ワタシたち四人に一人で敵うと思い込んでいるのは傲慢でしたね」
「アナタたちは、どうして復活を……!」
差し伸べられた手を睨みつけながら、ウリエルは噛みしめるように言った。
「ふむ、興味がおありですね。ですが、それを答える義理はありません。アナタの御父上に尋ねてみては?」
ウィクトリアの青い瞳は、辺獄に降り注ぐ光のせいか、それとももっと別の理由か。
不気味に揺らぐ双眸を見据えるだけで、ウリエルは身体を震わせた。
まさか、自分が「恐れ」という感情を知ることになろうとは。それを防ぐために、感情を排したのではないのか。
声を荒げるのは心でも、言葉に出しても、しかし変わらない。
この状況を逃れるということは、魚が両脚で地上を統べるようなものだ。
まずありえない。奇跡がさらに奇跡を運んでこない限り、それは不可能なのだ。
差し出された手を、ウリエルはあえて受け入れた。
天界で、前線に出られる最高戦力は自分だ。それに、相手が四人の騎士であればなおさら。
カマエルには、まず任せられない。返り討ちに逢うのが目に見えている。
握ったウィクトリアの右手は、とても温かった。
まるで人間の柔肌そのもので、姿を模倣しているだけの自分たちや大罪どもとまるで違った。
「お怪我は……ありそうですね。相手はベルムでしたし」
「この程度、怪我にもなりません。敵ながら、施しには感謝しておきます」
ウリエルが、恭しく頭を下げる。
もしもここで相手が上手に出た場合、その後は単純だ。
傲慢さが災いして命を落とした指導者たちを、何千人も見てきた。
もしそうだったとしたら——。ウリエルが、淡い希望を抱く。
だが、やはり相手も一筋縄ではいかない。
復活した四騎士。その軍師が、目の前のウィクトリアなのだ。
かつて人類を滅びへと導かんとしていた、厄災の権化。
「キャハハッ! ねぇねぇ、ウリエルさまぁ~? 今度ぉ、オトウサマっていうのと戦わせてよ!」
ベルムが、子供のように辺りを飛び回る。
彼女が泥を踏みしめる音が、心音のようにウリエルの身体へと響く。
大樹の幹を、お父様と見立てているのだろうか。
ベルムが飛び上がり、そのまま蹴りを食らわせた。
大樹が、風に吹かれたダンデリオンの綿毛のように吹き飛んでいった。
衝撃音が遅れて聞こえてきたのは、よほど遠くへ蹴り飛ばされたからだろう。
閉じられていた黄金の瞳を、ウリエルが見開く。それほどに、冒涜的だった。
その言葉に声を荒げたのは、しかしウィクトリアだ。
布越しに注がれた視線が、ベルムの顔布を捩じる。
「身の程を知りなさいッ! 彼は。あのルシフェルすらも凌駕する男です。アナタだと、瞬きだけで魂ごと消し飛びますよ!」
「チェ……面白そうだったのになぁ……」
先ほどまでのはしゃぎ具合が嘘のように肩を落とすベルム。
笑っているのに、その布は角度によって泣いているようにも見えた。
「復活して、何をするつもりなんです。アナタたちは。せっかく保たれた三界の均衡を崩すおつもりですか」
「教える道理はないと言った筈なんですがね」
ウィクトリアが、つま先で何度も土壌を叩きながらウリエルに視線を注ぐ。
再び瞳を閉じるウリエル。見つめ合うというのが空間歪曲のトリガーなのだと見抜いていたのだ。
「知る権利と義務があります。これでも熾天使です。力ではまだ一歩及ばないかもしれませんが、もう武力の時代は終わりにしましょうよ」
「へえ、それは何故です? 愚民を統制するには力でしょう? 恐れる者に平伏すれば、誰もナンセンスを叫びません」
「少なくとも、未来では円卓を囲んでの話し合いです」
「出ましたね、その未来だかなんだか。均衡だかなんだか言ってないで、ワタシたちが生まれる前に殺してくればいいのでは?」
「定められた時間の流れを、変えてはいけないんです」
ウィクトリアとウリエルが舌戦を繰り広げていると、ベルムが大きな欠伸をこぼした。
「つまんな~い! ベルちゃんもう帰る!」
わざとらしく足音をドスドスと立てて、ベルムは森林の奥へと消えていった。
その姿にウィクトリアは大きな息を吐き、額に手を当てた。
まるで、じゃじゃ馬の妹に手を焼いているよう。
「まあ、あの具合です。ワタシはここで失礼しますよ。あっ、闇討ちとかは考えないように。単純な武力でベルムに勝てないようなら、お姉さまたちには到底届きませんから」
「……あえて忠告します。三界を敵に回さないようにしてください。看過できない状況になれば、お父様の裁きが下るでしょう」
「ええ、そのぐらいわかっていますよ。そのための、『飢餓』と『死』ですから」
布を剥がし、その白皙とした肌で笑いかけるウィクトリア。
口元の黒子が、その言葉を妖艶な響きに変えていく。
「それでは、またお会いしましょう。恐らくきっと、戦場でしょうけど」
皮肉気に瞳を細め、背を翻すウィクトリア。
遠くから、ベルムの声が響いた。
「ウィクトリアー! ファメス姉とモルス姉が『ご飯にしよう』だって~!」
ウィクトリアの背が小さくなったのを見届けたころ。
ウリエルは手首の通信機に語り掛ける。
「ガブ。天界の全勢力を集めて。ラファはミカエルの浄化を急いで。時間がない。早くして」
四姉妹、または四騎士とは正反対へと歩き出すウリエル。
誰もいなくなったその森に、ひらりと舞い落ちる白い羽があった。




