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【第百九話 狼蠅】

 乾風。伝う冷汗。幻聴する羽音。

 ロニアは固唾を飲み込み、座り込んだ狼のうち、左の雄を睨めあげていた。

 胃袋が浸食され、胃壁が地獄の赤黒い色に染まっている。


 ボワボワと燃え上がったエーテルが、次は腸へと軍勢を進めている。

 見ているだけでも、自分の腹が焼けるようだった。


「……参ったな」


「何かわかったのか、ロニア!」


 ロニアの肩を、背後から掴むルパ。

 爪が、コートを穿たんとしているようにも感じた。


「厄介な奴らだよ。これ」


 ロニアは、杖を握る力を強めていた。


「ネフィリムなのか?」


「もっとタチが悪い奴だよ。はぁ……。最悪だ」


 ベルゼブブ。脳裏に浮かんだその言葉を反芻し、ロニアは唇を痙攣させる。

 耳元で聞こえるルパの荒い息遣いすら、羽根の音にかき消された。


 どれほどロニアが苦労しようと、どれほど休息を希っても。

 悪魔たちは、それを許さない。


 再び、試練の鍵が首元を締め付ける。

 そうだ。自分も、悪魔を宿している。もしくは、そのものだといってもいい。

 怠惰のベルフェゴールではない。それよりももっと強大なもの。

 

 傲慢たるルシフェル。

 ロンド家の子どもたちは、その器として作られた。

 背中の聖痕(スティグマ)が、きっと奴らを呼び寄せているのだ。


 ロニアは、錆びついた機械のような動きでルパに振り向く。

 

「ルパさん。もしも手遅れになった場合、ボクにどうしてほしい?」


 ルパは耳を垂れ下げ、視線を逸らした。

 ロニアには他人でも、ルパにとっては面倒を見ている可愛い弟分だ。

 だが、それでも現実は酷なものだ。


 【もしも】という、曖昧な言葉で誤魔化したものの、助かる見込みはほぼない。

 清純な肉体に、一滴の悪辣なエーテルが紛れ込んだら。

 

 耐えられるはずもなく、肉体は悪に堕ちる。

 いや、正確には食い破られると言える。


「お前に、何が見えたんだ?」


「ネフィリムの……親分って言うところかな」


「おやぶん……?」


 ネフィリム、ないし砕獣の正体は、人間界に渡ってきた悪魔たちの成れの果てだ。

 死亡した生き物を模倣するという生態が、やがて人型砕獣となった。


「……そうか、こいつは助からないんだな」


 ロニアは何も言わず、紅の瞳を細める。

 何事もないもうひとりの舎弟を解放すると、ルパはロニアの隣に立った。


「あ、姐さん! 俺、どうなっちまうんすか!?」


 舎弟が、希うように叫ぶ。

 知能は低いものの、自身に及んだ危機を察知したようだ。

 狼族が持つ、カンの鋭さというものだろうか。


 大罪たちは、天使形態か熾天使の力を借りることで対処してきた。

 レヴィアタンは本体ではなかったし、アスモディウスはウリエルの力を借りた。


 ここで天使の力を解放すれば、衝撃が辺りを襲う。

 試練の鍵を使えば、締め付ける鎖がより強くなっていく。

 地獄由来のエーテルに対し、【白魔法:回帰(キュア)】は通用しない。


 どうしたものかと、ロニアは冷や汗を垂らす。


「死にたくねぇっすよ、俺ぇ! まだ、やり残したこともあるんす!」


「……わかってるさ、そんなことぐらい」


「ロンド家のアニキ! 何かできないんっすか!?」


 できるなら、何かしら手を施している。

 けれど、見つからないのだ。

 内部を侵食したエーテルを取り除く方法など。


「まてよ、取り除く……?」


 瞬間、脳裏に走る稲妻。


【取り除く】。そして【白魔法:回帰】。

 エーテルだけに目を向けていたロニアだった。

 木を見るなら森を見よ。誰かが、そんなことを言っていたような気がする。


「どこか、汚れてもいい寝床を知らない?」


「汚れても……。近くに空き家があったはずだが、それがどうしたんだ?」


「助けられるかもしれないんだ」


 ロニアは、口元に微笑を浮かべながら言った。


「ただ、結構痛いよ」


「えぇっ!? 痛いのは嫌っすよ!?」


「死ぬよりかはマシだってば」


  ─────────◇─────────


「ったく、お転婆だなあ」


 真っ白な息を絶えず吐きだしながら、ロムレスは膝に手を突く。

 肌を貫く冷気が漂っているのに、汗が伝う。

 張り付く衣服が冷えていたため、不快感に眉を顰めるロムレス。


 プルマを追い、気づけばヴォルコフはずれの林まで来ていた。

 針葉樹の葉が、力強く雪を支えているが、プルマの声でぱららと落ちてくるものがあった。


 千切れそうな勢いで尻尾を振るプルマを、顎髭を撫でて苦笑するロムレス。

 この獣道をまっすぐ歩けば、ロンド家までたどりつく。

 だが、こんなにお転婆な少女はマチィナだけでいい。

 これ以上喧しくなれば、ロムレスは今度こそラティファに殺されてしまう。


 背筋が冷たいのは、衣服が張り付いたせいだろうか。


「ねえ、ロムレスおじさん~! アタシ、ホーラドゥナに行きたいな!」


「ホーラドゥナぁ? 別に構わねぇが、何しに行くんだよ」


「えっへへ、あそこには、ニンゲンさんがいっぱいいるんでしょ!?」


 牙を剥きだしに、にっかりと笑うプルマ。

 ロムレスの記憶では、ホーラドゥナに滞在するのは人類だけだった。

 例外として、混血種は許可されている。ただ、迫害の対象だったはずだ。


 曰く、「神の創造物ではない」と。


 ロンド家の男として、少しだけ気まずいと感じることもあった。


「ああ。……まさか、オトモダチでも作りに行くんじゃないだろうな」


「違うよ~! オトモダチは、もういるの!」


 刹那、真に凍り付く背筋。

 狩人としての本能が、全身全霊を挙げて警鐘を鳴らしている。

 辺りに警戒を払っていたはずだったのだが。


 灯台の下は、暗かった。


 ロムレスは、プルマに対する認識を誤っていたのだ。

 彼女は、もうお転婆な少女ではない。

 ましてや、庇護対象ですらない。


 堕天使ベイリアルから、いつの間に逃げ延びた少女。

 ただ者であるはずがなかった。


「……たっくさん、作れたからねぇっ」


 瞳が割れる。

 ひとつ。ふたつ。よっつ。

 そして、白目を覆いつくす。


「テメエ、どちらさんだよ」


 背負っていた斧を構える。

 柄の部分に取り付けられた引き金を引くと、切っ先が折れて刀身が割れた。

 内部から飛び出る(クロスボウ)

 ガシャンと音を立てて、ロムレスが魔弾を装填。


 もう、自身の知っているプルマではない。

 長老には気の毒だが、彼女は死んだ。


 荘厳なほどに広げられた羽根は、太陽の光を狂ったように反射する。

 それでもロムレスは臆さない。

 ここで、始末する。気づけなかった自分のミスであるからだ。


 プルマが大口を開けると、内部にはもうひとつの口があった。


「チッ。堕天使(あいつ)、めんどくせえもんを残していきやがったな」


 最初に動いたのは、ロムレスだった。

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