【第百七話 ままならないね】
「あのさ、どうやって帰ってきたの」
顔色を伺いながら、ロニアは訥々と尋ねた。
半分人間であったとしても、狼であることには変わりない。
気分を損ねれば、喉元を食いちぎられるかもしれないのだ。
一文字ずつ、ぼかしながら口に出す。
ロニアの言葉に、プルマは耳をピクリと動かした。
まず視線を先にロニアへ注ぎ、少し遅れて首を動かしたプルマ。
その眼光に、ロニアの背筋は冷水が伝ったように震える。
野生の狼が、獲物を捉えたときの光だ。
やはり、彼女は狼だ。ロニアは、膝をかすかに曲げた。
「『帰ってこれてよかったね』じゃダメなの?」
「心配だからね。クリスタリアのほうでも、ネフィリムっていう砕獣害があるから」
「ねふぃ――がなにかはわからないけど、アタイはアタイだよ」
三日月のように口元を歪め、桃色の舌を出すプルマ。
温かな吐息がロニアの頬を撫でる。ここの住民と同じように、ろくに入浴もしていないのだろう。
獣の臭いが、ツンと香った。
しかし、ロニアにとってはその吐息は、どこか冷たかった。
粘性のある涎が彼女の舌先から、雫として落ちるその前に。
「ま、ひとまずメシにしよう。肉あるか?」
ロムレスが欠伸交じりに言った言葉に、プルマが瞳を輝かせる。
先ほどまでの圧が嘘のように、燦々とした雰囲気が漂っていた。
「にく!? いま、お肉って言ったよね!?」
「あ~、そうだった。プルマのやつ、特定の言葉に反応するんだった」
やっちまったと言いたげに、ロムレスが掌底を額に押し付ける。
プルマはロニアから離れ、ロムレスの元へと走っていく。
ブンブンと揺れる尻尾が、まるで外れそうだ。
「ねえねえ! お肉! お肉あるんでしょ!」
「そうだなあ。【お散歩】のあとだな」
「お散歩!? やったあ! お散歩行こうよ! お散歩!」
(ちょろい……!?)
ロニアは眉を下げ、紅の瞳を見開く。
ロニアはその様子を眺めながら、綿の飛び出たソファに再び倒れこんだ。
硬くなっている綿が肩を押しこみ、溜まりに溜まった疲労を解してくれる。
ベイリアルの動乱が終わったと思いきや、自身の死亡届ときた。
そのうえ、このプルマという少女だ。気が休まる暇などない。
彼女の首輪は、ロムレスに握ってもらう。
そのうちに、自分はゆっくり休ませてもらおうか。
ロニアは欠伸を抑えながら、瞳を閉じた。
「おおぅ、落ち着けってプルマちゃん。おい、どうにかしてくれよルパ」
「そうなったプルマは止められないぞ。諦めて行ってくるんだな」
「……腰には優しくしてくれよな?」
「れっつご~!」
「だぁもうこのお転婆ドッグちゃんは!」
風を切るように退室していくプルマを、ロムレスは悪態をつきながら追いかけていった。
その様子を、ロニアは薄目を開けて観察していた。
何をしているんだかと静かに微笑し、ちらりとルパへと視線を注ぐ。
杖を突きながら一歩ずつ歩む様は、見ていて痛々しかった。
忘れていたとはいえ、天使だったころの身内が引き起こした傷だ。
ロニアは、胸の奥でちくりとした痛みを覚えた。
「手伝おっか、ルパおねーさん」
居ても立っても居られなくなり、ロニアは身体を起こす。
腰と肩の骨がポキリと鳴り、ヴァレンティノスによる治療の施された右肩がにわかに痛んだ。
台所へ向かっていたのだろうか。ルパが振り返り、微笑をロニアに見せる。
「いや、問題ないよ。心配してくれてんのか? ロニアは優しいんだな」
狼という骨格のせいか、彼女の表情は慈愛というよりも、凛々しさを湛えていた。
毛皮に混じる、長く伸びたまつ毛。かすかに覗く白磁の牙。
ギラリと光る琥珀色の瞳。伝承に語り継がれるような、美しい雌狼だ。
「……まあ、巻き込んじゃったから。ロンド家の一員として、手伝えないかなって」
(あああもう! せっかくぐうたらできそうだったのに!)
カレンの影響を強く受けたか、怠惰なくせに人の手伝いをしたがるようになってしまった。
変化とみるか、成長とみるか。
ロニアにとっては後者と取りたいが、まるで怠惰を否定しているようで悩ましいものだ。
怠惰と呼んでロニアと読む。ベルフェゴールには悪いが、その席をどいてもらおう。
傲慢たるルシフェルの器という肉体を持つだけあって、このような思考にまで及んでしまう。
そもそも、行方不明なのが悪いのだ。いや、大罪の肩を持つわけではない。
ロニアは、心中で問答を繰り広げ、ひとりでにかぶりを振った。
「気持ちはありがたいが、今回はそういかないかな。【ナワバリ】の様子を見に行かねえと」
「ああ、ボクらに迷い込まれたら困るって言ってた……」
「そうそう。しばらく留守にしてたからな」
「でも、体は大丈夫なの?」
「少し見に行くだけだ。荒らされたら、いろいろとアレだからな」
ヴォルコフの住民は、どうやら自宅のほかにナワバリを持つようだ。
人族で例えるなら、酒場のようなたまり場の、特定のテーブルに近いだろうか。
『このテーブルは日当たりがよくて気持ちがいいから、俺たちのものだ』
『ここは端っこだから、僕のものだ』
指定席に、我が物顔で他人に座られたら確かに気分がよくない。
あの手この手で追い出してしまいたくなる。
ニンゲンにナワバリ意識がないのかと、天界からはそう思っていた。
カレンたちと過ごしているうちに、ニンゲンの肌で物事を感じられるようになった。
ならば、ここは大人しくしているのが得策だろう。
他の狼族にとって、知らないニンゲンがやってきたらきっと、居心地が悪い。
やはり、追い出そうと試みるだろう。
それをして、心が晴れやかな者は、当事者以外いない。
自分から、面倒ごとに足を踏み入れる道理はない。
ロニアは体を伸ばしながら、そのままの体勢でソファに倒れこむ。
「んぐぐっ……」といった間の抜けた声を漏らしながら。
目的は、あくまで見舞いだ。
ロムレスのように、お散歩に行くわけでもない。
ヒトのナワバリに首を突っ込むこともしない。
帰りはロムレスに肩車してもらいたいので、ロニアはしばらく昼寝を謳歌することにした。
瞳を閉じ、水面に浮かぶ小さなボートの上で、自身が揺られていることを想像する。
穏やかな日差し。小鳥のさえずり。そして、大好きなカレンの匂い。
意識がだんだんと、夢の世界に移っていく。
手足の感覚が遠のき――
「ああ、そうそう。お前にもついてきてもらうからな。ロンド家の人間を一目見たいとか言ってたから」
夢はしょせん泡沫にすぎない。
目を閉じれば、瞬間のうちに溶けて消える。
遠のいていた手足は、嫌というほどに冷気を覚えていた。
「やっぱりこうなると思った」
悲痛な呟きは、ロニア以外の耳に届くことは、しかしなかったのだった。




