【第百六話 狼たちの沈黙】
足を踏み入れてまず感じたのは、妙な肌寒さと、どんよりした空気だった。
気のせいだというには露骨すぎる上に、ロムレスも眉間に皺を寄せていた。
住人たちは何でもないように振舞っているが、彼らの耳はぺたんと倒れこみ、尻尾は垂れ下がっていた。
茨の劇団こと、堕天使ベイリアル・ユーテライトの襲撃から暫く時間が経ったはずなのだ。
それなのに、狼たちの心にはどこか、傷が見える。
空っぽで、何かが足りないといった様子だ。
ロニアがロムレスの表情を再び伺う。
顎髭を撫でて、ため息を深く吐いていた。
「ったく、面倒ごとは尽きねえなあ」
「……ボクの気持ちがわかったでしょ、おじさん」
「ああ。嫌というほどにな。は~、帰ってメシでも作りたくなってきたぜ」
確かに、ロムレスの作る料理にはロニアも舌鼓を打った。
火の通り具合も、繊維を断裁しない包丁さばきも、見かけによらず優れていたのだ。
彼に肉料理を作らせたら、右に出る者はいない。
滴る肉汁を思い出すたびに、ロニアは垂涎した。
しかし、ヴォルコフの空気を感じた瞬間、現実に引き戻された。
目の前に広がる風景には、てかてかと輝く肉料理の面影はない。
ロニアは、ロムレスに連れられるまま、ルパの家屋へと向かった。
質素なレンガに、なんとなく添えられたような観葉植物は項垂れている。
煙突からはわずかに黒煙が上がっており、生活の気配はあった。
結露している窓には、ふたつの人影が見えた。
「あれ、お客さんがいるみたいだよ」
「俺たちもお客だっつーの。おい~っす。ルパちゃん元気してるか?」
ロムレスが、他の客など気にしないといった様子で扉を開く。
ロニアも肩をすくめ、呆れながら追従した。
目に映ったのは、杖を突いてゆっくりと歩いているルパだった。
右腕は包帯により固定され、腹部を絶えず気にしている様子だ。
ルパはこちらに気づくと、誰かに声をかけた。
「悪い、茶を出してやってくれないかな」
「おっけ~! アタイに任してよ~!」
快活な、女の声だ。
鈴を転がすように、透き通った声色をしている。
ドテドテと、木目を踏みしめる音が離れて行った。
「見舞いに来たのか? その割には、土産が見えない」
「お、その様子なら元気そうだ。よかったぜ。身内のせいで怪我をさせちまったからな。頭を下げようと」
ロムレスの背後からひょこりと顔を出すロニア。
ロニアが目に入ったのか、ルパの耳は直立して尻尾が揺れていた。
口元はニヤけ、彼女の瞳には情欲に似た炎が揺らめいているように見える。
ロニアの背が思わず震えたのは、気のせいだろうか。
「……いや、いい土産を持ってきたな」
「は?」
「ほえ?」
「まあ、上がってくれ。先客がいるけど、問題ないだろ?」
ルパが、顎でソファーを指し示す。
鋭い爪で引っ掻かれたような跡が目立ち、綿が内臓のように飛び出ていた。
ロニアが思わず苦笑し、しかしずっと立っているのは癪なので、ありがたくソファーに飛び込んだ。
飛び出た綿が枕の代わりとなり、ロニアを不意に睡魔が襲った。
「あ、そういえばルパおねーさん。さっき、他の人の声がしたけど」
ロニアは、先ほどの声を思い出していた。
カレンと似た系統の、爽やかな声。
「アタイを呼んだ~?」
言って、ロニアの視界を一瞬のうちに覆う女性がいた。
夜空のような藍色の短い毛髪からは、ヴォルコフの住人のように獣の耳が生えている。
しかし、決定的に違うことがあった。
顔面は、ロニアやカレンのように、人間のモノだったのだ。
桃色の瞳が煌めき、ロニア自身の姿が反射していた。
「むふ~」と、何やら誇らしげな表情を浮かべている。
「えっと、アナタは……」
「アタイはプルマ! よろよろしく!」
プルマという名前に、聞き覚えがあった。
ベイリアルについていったと言われる、長老の娘。
半狼半人で、好奇心旺盛。
この少女が、そうなのか。
年齢は、人間態のロニアと同じように見える。
年端も行かぬ少女だ。
「あ、ども……」
ロニアが苦笑を見せながら、微かに頷いた。
プルマの瞳は、マチィナの如くきゅるきゅると無邪気に輝いている。
「ねぇねぇ、ロンド家なんでしょ!? 名前、教えてよ!」
プルマが、彼女の身体をロニアに密着させるように接近した。
互いの腹部が触れあい、ロニアの胸はプルマの鼓動を感じている。
藍色の髪がロニアの首筋を撫で、生暖かい鼻息がロニアの肌を温めた。
すんすんと鼻を鳴らすプルマ。
「ったく……。おいプルマちゃん、そこまでにしとけって」
「え~? せっかくお友達になれそうなのに~!」
ロムレスとルパが、呆れたようにため息をこぼした。
プルマは、ロニアのにおいを嗅いでいたのだ。
狼族の嗅覚は、人族のそれとは比べ物にならないほどに優れている。
しかし、人の嗅覚を持つであろうプルマがにおいを嗅ぎ分けられるかはわからない。
形式上のスキンシップなのだろうと、ロニアは思った。
「あの、離れて……。重いから……」
「あっ、メスに向かって重いなんて! ひど~い! せっかくいいにおいがしたのに!」
「あんな、プルマちゃん。ロニア坊は人間の男の子なんだぜ。いきなり他種族のアプローチをされても困るだろ」
プルマは、ロムレスの小言には耳を貸さず、目の前の少年がロニアと呼ばれるということにだけ意識が向かっていた。
「この子、ロニアって言うんだ~!」
その瞬間、プルマの瞳がさらに輝いた。
それと同時に、ロニアの太腿を何かがくすぐる感覚。
さわさわと、規則的に揺れる箒のようなそれは、プルマの尻尾だった。
「ロニアちゃん、アタイはプルマだよ! ねっ、ね!」
「知ってるから……!」
ロニアが手を突き出し、彼女を押し出す。
重いうえに、暑苦しい。
ロニアの額には、すでに何滴かの汗が滲んでいた。
舌を出したプルマは、首を傾げる。
なぜロニアが、自分を突き放すのかがわからないと言いたげな表情だった。
「ま、言いたいことは山ほどあるけど、ルパもプルマちゃんも無事そうでよかった」
ロムレスが、ソファと向き合うように置かれた食卓の椅子に、深々と腰かける。
勢いよく座ったので、ロムレスが身に着けている衣服の金具がじゃらっと鳴った。
ルパも目を閉じ、鼻を鳴らす。
「……そうだな。私はともかく、プルマが無事でよかった」
「ああ。長老のやつ、大変だったろうな」
ロニアは、その会話を欹てているうちにひとつの疑問を思いついた。
ベイリアルは、高い戦闘力を持っていながら、洗脳にも長けている。
ならどうして、プルマは無事だったのだろうか。
ルパたちを見つめているプルマの横顔を眺めながら、ロニアは口を開いた。




