【第百五話 オーメン】
「ああ? ベルゼブブだぁ?」
雪の降り積もる冷えきった林の中、斧の柄で無造作にこめかみを掻きながら、ロムレスが言った。
死骸の身元についてはわからないが、この蠅はベルゼブブのものだとすぐにわかった。
蠅に纏わりついているエーテルが、黒くどよめいている。それだけでなく、まるで触れるだけで皮膚を焼いてしまうような、不快で異常な熱を帯びていたのだ。
この特徴を持つのは、ひとつしかない。
地獄のエーテルだ。
「ベルゼブブってぇと、伝承にあるいつも寝転がってぐうたらした悪魔か?」
「それはベルフェゴールだよ。暴食を司るベルゼブブ。まるで違うからね」
屈んで、死骸を眺めるロニア。
肩から腰にかけての裂傷は、きっとロムレスの斧による攻撃だろう。
残留魔力を見ても、これは人間のものだ。
「このヒト、何があったの?」
「ルパの見舞いにな、ヴォルコフに行こうとしたんだわ。したら、いきなりこいつが襲いかかってきてよ」
腰に手を当て、白い息を重々しく吐くロムレス。
晴天にはわずかに雲が差し、ロニアたちの影が薄くなっていく。
「いきなりって……。このヒトに理性はあった?」
「えらくあいまいな質問だな、おい。ま〜無かったんじゃないか? 舌ベロ出して『グギヤアアッ!』みて〜な感じだったし」
レヴィアタンやベルゼブブなどの大罪と契約して、理性を失うという話はしばしば耳に入る。
かつての教師、クロウル・マウスフィールドも嫉妬に飲まれ、半ば暴走状態に陥ったことがあったのだ。
この死骸は男だろうか、彼も同じようなものだろう。
ロニアはそう唇を尖らせながら、枝で男の死骸を突く。
よほど腐敗が進んでいるのか、枝先が押し負けることなく、ずぶりと皮膚を掠めとった。
赤黒い表皮が覗き、ロニアは腐った皮膚の感触により、肌に粟が立った。
「うひぃいい……。なんでもう腐ってんの?」
「わかんねぇけど、それが地獄のうんたらってもんだろ」
暴食なのだから、食べ散らかすという特性があるのだろうか。
天使であったときの記憶を縒り合わせても、ベルゼブブとの面識があまりにも少ないために、仮定でしか判断できないのが辛いところだ。
「とりあえず、コイツは埋めとこうよ。もしかしたらボクかローラへのマーキングかもしれない」
「ああ、犬が柱にオシッコするみてぇにな」
「例えが汚いなあ!」
ロムレスが、肩を斧の背で叩いて哄笑する。
セスのような頼れる大人ではあるのに、こういったところが下品だ。
このナリで料理はできるのだから、ヒトは外見ではわからないと、ロニアは再認識する。
「そういえば、ルパさんはどうなったの?」
「全身打撲だってよ。カレンちゃんと戦っただっちゃんに手痛くやられたみてぇだ」
曰く、ロンド家まで逃げた際、ベレトの攻撃を受けたようだ。
しかし、それと同時に気がかりな疑問が生まれた。
「だ……だっちゃん?」
「堕天使のことだよ。こっちの方が、なんかカワイイだろ? これならロニア坊だって、変に気を遣わなくてもいいだろ?」
「なんていうか……壊滅的なネーミングセンスだね」
雪をコツコツと蹴っていたが、いまだ露出している身体を見ていると、次第に面倒になった。
緑魔法で雪を飛ばすという横着により、万事解決。
ロムレスの苦笑を背に、ロニアは肩を回した。
「なに」
「なんでも。ロニア坊はどうする? 俺と一緒に見舞い来るか?」
ふと、ロニアの脳裏に過ったのは「めんどくさい」という言葉だった。
もちろん、ロニアにとって見舞いぐらいは吝かではない。
しかし、なにをするにもまず最初に考えるのは面倒か否かだ。
そういった性なのだ。
「あっ、お前今『めんどくさいなぁ~』って考えてんだろ」
「なっ。ボクはそんなに薄情じゃないやい」
ロニアが瞳を見開き、足元の雪をロムレスに向けて蹴り上げる。
白の粒の中に、いくつか黒いものが混じっていた。
「どわあっ!? おめえ、蠅が混じってんぞこの野郎!」
雪の波が押し寄せる寸前に、ロムレスは跳びあがった。
ロニアは鼻を鳴らし、靴の雪を払った。
「はあ。マジでこういうとこもお前の親父に似てんな」
ロムレスは苦笑交じりに頭を掻いた。
親父ということは、ロニアの肉体の父親。
ローレンス・ロンドのことだろう。
「そんなにヤンチャだったの?」
「ロニア坊ぐらいのときはな。成長してくにつれて、あいつは色々変わっちまったが……」
人は変わるものだ。
数万年も見てきたのだから、もう肌に染みついている。
忠臣に寝首をかかれた皇帝や、敬愛する父親に殺される息子。
嫌というほど見てきた。
肌を突き刺すような一陣の風が吹き、ロニアは身を震わせた。
しばらくして、遠吠えと民家が見えてきた。
狼の町、ヴォルコフだ。
「巻き込んじまったからな。詫びぐらいはしねえと」
「……そうだね。ボクが原因みたいなこともあるし」
「そう落ち込むなって。お前も、俺たちも。みんなあのヤバイ奴に巻き込まれたって感じだからよ」
ロニアは、心の奥底に何かがつっかえる感覚を覚えながら、ヴォルコフの町へと足を踏み入れたのであった。
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機械的な「ピッ」という音が、規則的に鳴り響いていた。
ガラス張りのカプセルの中で眠っているのは、ミカエルだった。
彼女の片翼は、未だ黒いまま。
眉をへの字に曲げ、じっとミカエルを見つめ、ガブリエルは重く息を吐いた。
「ラファねえ。ミカたん、ほんとに大丈夫なのかな」
ガブリエルは、隣で何かを記入しているラファエルに視線を向けた。
彼女も、どこか厳しい顔をしている。
筆を顎に押し当てて、唸るような声を上げていた。
「正常とは言い難いですね。この魔力は、明らかに『彼』のものです」
彼。つまり、熾天使の中で唯一の男性であったルシフェルのことだ。
ガブリエルはルシフェルのことを考えるたびに、胸が痛くなる。
彼女の憧れでもあり、密かに恋をしていたのだから。
それが、叶わぬ恋だと知っていようとも。
「ロニアっち……。思い出しちゃったのかな」
「そうとは考えにくいでしょう。我々が施した、試練の鍵をお忘れになったんですか? カマエルには勝手なことをされましたが、結果として功を奏しているではないですか」
「だって、あれは旧型でしょ? ミカたんのは新型で、四人の力があるけど――」
ガブリエルの言葉を遮る、または補足するように、男性の声が響いた。
「旧型は、ルシフェルのやつの力も入っている。そうじゃな」
立派な髭を蓄えた初老の男性がいた。
彼こそ、ロニアや天使たちが「お父様」と呼び慕う神だった。
「あ、お父様。お勤めご苦労様です」
「よい。ミカエルに代わって、伝えねばならんことがあるのだ」
ガブリエルとラファエルが、深く息を呑んだ。
「悪い知らせがふたつある。ひとつは、地獄の王の座をベルゼブブが簒奪した。サタンが不在の間にだ」
「……それじゃあ、地獄の勢力は」
ラファエルが、閉じていた目を重々しく開く。
光のない真っ青な瞳が震えていた。
「うん。暴食のコたちに代わるってことだよね……。話が通じないんだよなあ」
ガブリエルが、口角を振るわせながら笑顔を取り繕った。
だが、悪い知らせがもうひとつあるのだ。
心臓が早鐘を打つ。内臓は存在しないはずなのに、なぜかそう感じた。
「ふたつ。黙示録の四騎士が復活した。リンボで息を潜めていたそうじゃ。いま、ウリエルが無力化に向かっている」




