【第百一話 腹が減っては何も出来ぬ】
その日、ロニアは珍しく早起きだった。というよりも、肩の痛みで目が覚めたのだ。
一週間前の襲撃で負傷し、ヴァレンティノスの治療を受けたとしても、痛みはどうにも引かなかった。
目が覚めて両脇を見渡しても、男たちはまだ眠っている。
ロムレスはイビキを上げ、ヴァレンティノスはまるで死んでいるように寝息を立てている。
カレンやセスから見た自分はこうもだらしないのかと思うと、顔が熱くなった。
ロムレスらを起こさぬよう、ロニアはゆっくりとベッドから降りる。
窓を開けると、ロニアは急激な輝度の変化により思わず目を閉じた。
眼球をぎゅうぎゅうと押し込むような痛みだ。
今日のスーノス地区は、晴れ晴れとしている。
いつもはくすんだ空模様で、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていたというのに。
窓枠に飛んできた羽毛の多い鳥の番が、餌を口移しで運んでいる。
鳥たちの広げられた灰色の翼には、白い羽が混ざっていた。
ロニアはその様子を、片手で頬杖を突きながら眺めていた。
微笑みが零れ、ロニアの赤眼が細められる。
どうも、その様が愛おしかった。
いつものロニアならば気にも留めないだろうが、こうして生きるために雄と雌が分け与えるというのは、どこか自分たちを見ているようだったからだ。
「オオワタリバト、ですか。珍しいですね、この時期に」
ロニアは、背後に立つ男の気配に気づくことができなかった。
夢中になりすぎたのだ。
その、不意に聞こえた腹の底まで響くような低い声に、ロニアは飛び上がる。
「ぎょわぁっ!」
オオワタリバトの番も、それに驚き飛び去って行った。
「ああ、行っちゃった……」
「すみません、驚かせてしまいましたね」
ロニアが口を窄めながら背後の男を見上げる。
ヴァレンティノスが、寝癖を整えながらロニアを見下ろしていた。
眼鏡を身に着けていないため、あまり馴染みのない様相だった。
バスローブのような衣服に身を包んでおり、研究者というよりも富豪に見える。
「しかし、随分と早起きですね、ロニア様。いつもはローラが鍋を片手に起こしに行くというのに」
「それが、まだ肩の痛みが治まらなくって。傷は塞がったんだけどねっ――いてて!」
右肩を動かそうとすれば、巨大な釘で穿たれた感覚が走る。
冷汗が滲み、ロニアは息を吐きながらゆっくりと肩を戻す。
「まあ、お大事としか言いようがありません。私も手はつくしましたから」
ヴァレンティノスがドレッサーに近づき、引き出しを開く。
小瓶を取り出し、ふたを開ける。彼は、それを首元へと近づけた。
シュッという音と共に、甘い香りが広がる。
「なに、それ?」
「コロンでございます。ローラにこっぴどく叱られましてね。『風呂に入る気がないなら、せめてその悪臭を隠してください』と。当主命令なので逆らえませんが。とほほ」
二度、それを振りかけた。
「……なんか、キモチワルイ」
ロニアが眉をひそめて怪訝な表情を浮かべる。
「じきに慣れます。しかし、研究室から大浴場は遠すぎるんですよ。兄から何か言ってやれませんか? 『小浴場を作ってくれ』と」
「え~? なんでボクが……。ヤダよメンドクサイ」
「ではずっと気持ち悪いままですね」
ヴァレンティノスが鏡に向き直す。
ロムレスのいびきは、さらに大きくなっていくばかりだ。
時計を見ると、もうすぐで八時半を回るというのに。
ロニアの腹の虫が、ぐぅうと空腹を訴えてきた。
ロニアは、スリッパを履いて部屋の外へ出ることにした。
広いくせに、フランカ家のような賑やかさはない。むしろ、廊下が一種の空洞のようにも見えた。
フランカ家では、常に数人を超える使用人とすれ違うのだ。
この大陸で、五本指に入るほど裕福な家系と比べるのも変な話だが。
ロニアは欠伸交じりに、窓の光が差す廊下を闊歩する。
深紅のカーペットは、ロニアの体重でもわずかに沈むほどに柔らかかった。
しばらく歩いていると、ロニアは黒髪のスレンダーな女性と出会った。
彼の養母、セス・アダマンティアだ。
「おはよ。母さん」
彼女は、窓から外を眺めていたが、ロニアに気づくと二度見をして、瞳を大きく見開いた。
「……ボクが早起きするの、そんなに珍しい?」
「犬は空を飛ばないだろ?」
「え、そんなに? 生物レベルで不可能だって思われてたの?」
セスは「冗談だ」と笑い飛ばしたものの、ロニアは軽く彼女の脚を小突いた。
「いて、いてて。やめなさいロニア。怪我してるんだから、安静にしていなさい」
「ふん。みんなして珍しがるんだから。ヴァレンおじさんも、母さんも」
「まあ、ヴァレンさんはさておきな。私から見ても、今までのお前からは考えられない行動だぞ?」
怠惰。これだけで、ロニア・ロンドという存在を説明できる。
寝床こそが聖域であり、彼の睡眠を妨げた者には手痛い報復が待っているという。
「肩が痛いせいで、ちゃんと眠れなかったんだと思う。あ、ちゃんと八時間は寝たからね!?」
怠惰と言えば、夜更かしのイメージがあるだろう。
しかし、ことロニアに対してはそうでなかった。
夜というのは、どれほど眠っても叱られない時間帯なのだ。
とどのつまり、ロニアの時間と言ってもいい。
「ならよし。寝る子は育つからな」
「じゃあなんでボクはチビのままなの?」
「はは、不思議なことがあるものだ」
セスが、ロニアの頭を優しく撫でた。
彼女に拾われた時から変わらない、母親の温もりがあった。
ロニアが背伸びをする。「んっ」という声を上げながら、ロニアは目を閉じた。
「……甘えるのは良いが、それはカレンの為にとっておけよ?」
「時々、母さんも恋しくなるの」
「お前なあ。はあ、お前はこんなにも強いのに、私に対しては子供のままだ」
「引き取ってくれたのなんて、四年とちょっとじゃん」
ロニアが瞳を開け、抱擁感溢れる柔らかな笑みを浮かべるセスを見上げた。
すると、セスはしゃがみ込み、ロニアの腰に手を回す。
なんと、ロニアの脚は床から離れた。
「わぁ!?」
「あのな、ロニア。母親である私にとって、お前と過ごした時間は永遠のようなものなんだぞ。それに、私から見ればお前はまだ子供だ。どれだけ天使であろうとな」
抱き上げられたロニアは、なんだか面映ゆくなり、セスから目線を逸らした。
天使ロニアはもちろん、ロニア・ロンドという肉体だって、自立してもおかしくない年齢だ。
そのとき、腹の虫が「まだかまだか」と鳴き始めた。
がらんどうの廊下に響き渡り、セスとロニアは目を丸くしていた。
ふたりの視線が混じりあい、吹き出す音で沈黙が砕かれる。
「そうか、そうだな。朝ごはんでも食べようか」
「……うん。ボク、お肉がいいな」
「はいはい。アマクサさんに買い出しはしてもらったから、たんまりあるぞ」
死闘の末、穏やかな日々が戻ってきた。
まだまだ、スーノス地区でやることは残っている。
クリスタリアの男子寮に戻れるのは、きっとまだ先だろう。
ロニアはそう思いながら、朝食を心待ちにするのだった。
次回から、毎週水曜日更新とさせていただきます。
ご了承くださいませm(_ _)m




