【第九十七話 自分が何者だったかを】
光の微粒子が、静かな波を伴いながらロニアの背中に集まる。
少しずつそれは結合し、純白の翼を形成した。
ロニアは地面を蹴り、跳びあがる。
背丈の倍ほどの大きさを誇る両翼をはためかせる。
高く、さらに高く。ロニアは、空へと舞い上がった。
人間の体温はより高く、突き刺すようだった冷風も、そよ風にしかならなかった。
灰色にくすんだような雲を突き抜け、前方に白い翼を持つ男を捕捉する。
ロニアはランタン剣を前方に掲げ、呼吸を整えた。
ランタン剣が、複数の赤い魔方陣を纏う。
「キィン」と、静かな金属音が響いた。
「あれ、【穿て】」
精霊に命じると、剣先から炎の矢が射出された。
蒸気を上げながら、それはベイリアルの右翼を的確に抉る。
彼は振り返り、ロニアに立ち塞がるようにして静止した。
「あっはあ! やっと、見せてくれたんですねぇ!」
焼け焦げた右翼を畳み、ベイリアルはロニアへと駆け寄った。
爽やかすぎるほどに、その表情は満面の笑みに満ちている。
手を伸ばせば触れられそうなほどにベイリアルが近づいたとき――
キンッ。
偽エレクシアと、ランタン剣が馳せ違う。
冷風が通りすがり、ロニアの頬を生温かいものが伝った。
左手で触れてみれば、それは澄んだ紅の血液。
ロニアの白皙とした生肌に、それは特別映えた。
「どうです? あなたに、一歩近づきましたよ」
「どうだか」
ロニアが振り返る。
一拍遅れて、ベイリアルが振り返る。
「なにが、『一歩近づいた』だよ」
ロニアの瞳に映るベイリアルの双眸は、ランタン剣の持つエーテル刃により焼け爛れていた。
しかし、それでもその口元は面妖に歪められている。
ロニアは、鋭い眼光で睨めあげながら、翼を畳んで後退した。
「さっきからずっと、ボクに押されてばっかじゃないか」
「ええ、ええ! 当然です! あなたは、僕のずっと上を行く存在でしたから!」
潰したはずの双眸がぐちゃぐちゃと音を立て蠢く。
ミミズが這うように、肉がうねる。
「だからこれからも、冷徹にその力を振るうんでしょう?」
再び、ベイリアルの黒い双眸が現れた。
不気味なほどに澄んだ瞳に、ロニアの姿がはっきりと映り込む。
三日月のように瞳を細め、ベイリアルは偽エレクシアを天へ掲げる。
「そうですよねえ? 先輩は、その力を蹂躙のために振るっていたんですから。そこらへん、ミカエル様にもよく似ていますね」
黒の魔方陣が広がり、足元の雲を引き寄せる。
やがてそれは竜巻となり、雨のにおいを周囲へとばら撒いた。
翼をもぎとらんとする暴風に、ロニアは体勢を崩された。
今が好機だ。そう言いたげに、口元を歪めるベイリアル。
「ショック療法ですけど、これで思い出せるはずです。かつて、あなたが使っていた魔法。これを知らない悪魔はいないでしょうね」
まるで鼓のように響く重低音が、ロニアの臓腑をも揺らした。
それは心臓の拍動にも聞こえる。
どぅん、どぅんと、一歩ずつ迫る来るような音を立てながら。
――瞬間。偽エレクシアが眩い光を放つ。
「【黒魔法:厄災の調べ】」
暴風。轟雷。暗闇。そして火炎。
濡れ、押され、盲いて、乾く。
すべてを縒り合わせたような一本の巨大な矢が、ロニアを睨んでいた。
矢先は火花を散らせ、周囲の風景は熱により波打つ。
薄暗いスーノス地区に、一筋の光が架かる。
思わず、ロニアですら汗を流した。
「この魔法は……!」
「ルシフェル様の魔法です! ああ、やっぱり素晴らしい! 僕ですらこの程度なのに、ルシフェル様はもっとお素敵なんですよ!」
仮に回避でもすれば、地表が抉れ、半径数キロメートルほどが灰燼と化す。
かといって、天使形態であっても、直撃なら無事では済まないだろう。
ロニアは、喉元のチョーカーに触れた。
緑。ガブリエル。これは今ふさわしくない。
青。ラファエル。再生できるのは良いが、事後では遅い。
ならば、ここはウリエルかミカエルの力を行使すべきだろうか。
もしもロニアが再び暴走しても、カレンがいる。
元に戻してくれることを信じて――
ロニアはそう考えた瞬間。視線をふと、ランタン剣に落とす。
ガラスのような水晶越しに、ロニアの白銀杖が回転していた。
莫大な魔力とエーテルが、流れていく。
(いける)
ロニアは、息を呑んだ。
迫りくる矢先に向けて、高度を落とす。
「あれ、逃げるんですかあ?」
「バ~カ。誰が逃げるんだよ」
ロニアは翼をはためかせ、矢先へと突っ込んだ。
「なっ、とち狂いましたか!?」
「よくよく考えてみたら、カレンはこれを見越していたのかもね!」
近づくたびに、その一矢はより大きくなっていくようだった。
やがて、矢じりはロニアの右肩を穿つ。
「あっ……がっ……!」
「そんな、バカげている! いくらなんでも先輩が、これを耐えられるわけがない!」
「耐える? 違うね……!」
右手に握られたランタン剣のエーテル刃が、ズンズンと隆起していく。
青かった剣先は、白魔法の如く白亜の輝きを放っている。
「これは……ボクの体内に流れる魔力を刃に変える剣……! 今、ボクとコイツは繋がっているんだ!」
「まさかッ! この矢の魔力をリソースに!?」
「そのまさかだよ」
ベイリアルを見つめる紅の瞳が、さらに赤みを帯びて輝く。
口内に、鉄の味が広がる。口元から、生暖かいものが流れた。
左手に、ランタン剣を持ち替える。
「ボクはね、昔に比べたら弱くなったかもしれない」
痛烈な痛みに、ロニアの心臓は早鐘を打つ。
瞳孔が震え、視界が揺らぐ。
「ベイリアルって言ったね? 強いだけっていうのは、幸せなのかな?」
「最強というのは、つまり安心の象徴。なにも気にすることがないなんて、幸せそのものですよ! それに力さえあれば、あなたが守りたいものも守れるんです!」
「げほっ! ……はは。なら――」
ボクはすでに持ってるじゃないか。
ロニアの表情に、優しい微笑みが浮かんだ。
ランタン剣の刀身は、すでに矢の全長を優に越していた。
震える左手を、天に掲げた。
「すごい! でも、すごくない! こんな不純な力なんて、僕は認めません!」
「オマエに、認められなくても結構」
ロニアは、剣を振り下ろした。
世界の音が消え、ブゥンという超音波が広がった。
光の波。光の熱。
ベイリアルは、ただ眺めるだけしかできなかった。
「じゃあ、消えろ。カレンに手を出す奴には、痛~いお仕置きだ」
白い光が、辺りを満たす。
「ぐあああああああ!!」
ベイリアルの絶叫を最後に、矢は消えた。
風穴の広がるロニアの右肩は、焼けただれている。
肩で息をするロニア。
「はぁっ……。はぁっ……」
ロニアの足元には、黒焦げになった物体が蠢いている。
「なんだよ、まだ生きてたのか……」
ロニアは、萎びた翼を畳んで降下する。
数分ぶりに地を踏みしめるロニア。
「どう……して……。こんなに強く……」
「ボクには、守りたいものがある。それだけ」
「はは……。英雄気取り……ですか」
「英雄? よしてよ。ボクはそんなメンドクサイもんはゴメンだね」
ベイリアルに背を向けて、ロニアは雪を踏みしめた。
また、吹雪がやってきた。




