ep.15『兄者』①
「はぁ……はぁ……はぁ……」
寝食も忘れて走り続けたヴォルガーは、ようやく息を切らして立ち止まる。
息を整えて、もう日没が近いこと、ここがどこかもわからぬ森であることに気がつく。短く見積もっても丸一日は走り続けていたらしい。
腹が空いた、眠い、迷った……という、この状況で常識的に思う事柄はヴォルガーの脳には無かった。
鬱蒼と茂る木々に包まれどこかじめっとした空気の中、ヴォルガーはそっと黒いタンクトップをまくり、桃色に艶を出す乳首にそっと触れてみる。
そして恐る恐る……乳首を摘んでみる。
「んっ♡」
……何も起こらない。
乳首は普段通りにただ敏感であり、母乳? 父乳? を出すという気配は皆無であった。
今ならまだ間に合う、まだまともな身体で生きていけるはず……ヴォルガーは自らにそう言い聞かせた。
ラピアから逃げ出すのはこれで三回目だが、いよいよマジで勘弁して欲しかった。
このままでは乳牛にされてしまう……そんな人権の危機がヴォルガーの内心には明らかな実感として存在していた。
……とはいえ、魔王軍との戦いにラピアとの協力が必須であることもまた間違いのない事実であった。
先のキルデイルとの戦いにしても、ラピアがいなければ確実に惨敗していただろう。
それはわかっている。
わかっているがしかし、しかし、うーん……。
ヴォルガーの心は激しく掻き乱されていた。
『父乳、出ませんね……。やっぱり、あの戦いで噴乳たのはキルデイルの膨大な魔力が原因ということでしょうか……』
「ひぃっ!!??」
逃げたはずのラピアから突然話しかけられ、思わず驚きの声を出すヴォルガー!!
しかし、一拍置いて冷静になり、気がつく。
これは本物のラピアではなく、彼女から贈られたチョーカーの生み出す幻覚……イマジナリーなラピアであることを。
『安定して噴乳すためには、まだまだ肉体改造が必要みたいですね……』
「こんなもの安定させてたまるか!! 頼むから静かにしてくれ!!!」
イマジナリーラピアから離れるためには精神を集中させるしかない。
ヴォルガーは座禅を組もうと腰を下ろす……その動作に入った刹那であった。
強烈な魔族の気配が、突然ヴォルガーの身体を貫いた。
その気配は、先日撃破した七沌将・キルデイルすら超える強大な力を予感させた。
ヴォルガーは雑念を一瞬で振り切り、臨戦態勢に入る。
魔力の突き刺す方向をじっと睨んでいると、そこに現れたのは……一頭の巨大な猪であった。
「……!!?」
その巨体は確かに強力ではあるようだが……ヴォルガーが感じた、キルデイルすら超える力を覚えるほどのものではなかった。
まず間違いなく自分が負けるような相手ではないと、ヴォルガーは一目で確信できた。
そもそも、目の前の巨大なイノシシは『魔族』ではなく『魔物』だ。
魔族の外見が多様であるため単純な見た目で両者の区別はできないが、魔族には人類のような知性がある。目の前にいる、本能のまま低く唸るだけのイノシシからは感じられぬものだ。
そもそも、イノシシ型の魔物の中でもヴォルガーが何度も戦ったことのある鋼猪と呼ばれる種類。巨体と鋼のような毛皮が特徴だ。
キルデイルとの戦いに加えて父乳体質に改造された大きすぎる精神的負担……自分は思った以上に疲れているのだろう。
ちょうどいい、この魔物を狩って腹ごしらえしよう。
そう決めたヴォルガーの意志を感じ取ったのか、魔物は鼻息を荒くし後ろ足で地面をガリガリと削り始める。
予備動作を終えた魔物が、いざ襲いかかろうと駆けだしたその瞬間――ドンッ、という重い音とともに、何かが落ちてきた。
重量と威力を兼ね備えたその何かは、魔物の背中に直撃して瞬く間に背骨をへし折り、絶命せしめた。
あまりにも速いその一瞬で、ヴォルガーには理解できた。
落下した何かは、人の形をしている。
それはただの落下ではなく、歴とした技である。
魔物の巨体を一撃で確実に絶命させる、正確無比にして剛力な『蹴撃』
記憶の中にこびりついた、華麗な身のこなしは……
「……兄者?」
その呼びかけに答えて、重量感のある高いシルエットはヴォルガーの方を振り向いた。
闇のように黒い髪、海のように深く冷たい瞳……間違いなく、ヴォルガーが『兄者』と呼んで慕っていた兄弟子。
生前の師匠に唯一土をつけた、現在の開天流で最強の格闘家――威迅凄之その人であった。
「……ヴォルガー、か?」
凄之の方も、やはり散々面倒を見てきた弟分の顔を忘れるはずもない。
師匠が死に、門下生が散り散りになって以来二年ぶりの再会であった。
心細い中での思わぬ縁に、ヴォルガーは深く感激した。
この喜びを兄者と分かち合おうと思った。
しかし、一方の兄者は、
「……なるほど」
と呟いたかと思うと、屠ったばかりの魔物を抱え、
「食事にする。お前も手伝え」
そう言って、踵を返して歩き出す。
二年ぶりの、偶然の再会に対してあまりにもあっさりとした凄之の態度にヴォルガーは、
「ふっ」
と微笑むと、
「ああ、わかったよ」
そう返して、背中を追いかけた。
懐かしいが、何故か昨日も同じようなやりとりをしたような、そんな不思議な心地がヴォルガーの中にあった。




