Ⅲ
投擲された黄金の槍は、ただの飛翔体ではない。それは裁きという名の概念そのものであり、空間の理をねじ伏せ、大気を神性の如く焦がしながら、一直線にリズヴェラの心臓へと殺到した。
かつて人間であったならば、あるいは下位の愚物であったならば、その閃光を網膜に捉えることすら叶わず、一瞬にして神罰の熱量に蒸発していただろう。天地を分かつ雷霆にも等しい絶対的な破壊の律動である。
しかし、かつて私の腕の中で微睡んだ女は、今や深淵の泥を啜り、法則の埒外に立つ悪魔であった。
「――ふふっ」
轟風と閃光が吹き荒れる中、光を穢す笑い声が聖堂の静寂を切り裂いた。
リズヴェラは、光の軌跡をひらりと、まるで舞踏の奏を踏むかのような優雅さで回避したのだ。神速の槍が彼女の残像を引き裂き、背後の祭壇と強固な石壁を容易く粉砕し、瓦礫の雨を降らせる。
だが、その破壊の余波が収まるよりも早く、彼女は距離という概念を欺瞞するかのように、一瞬にして私の眼前へと迫っていた。
黄金の兜の面頬越しに、狂気と愛憎が入り交じる彼女の黄金の瞳と交錯する。
彼女の白く細い手には、禍々しい青い光を放つ短剣が握られていた。薄く微笑む彼女の赤黒い唇とは対照的に、その刃が放つ殺意は絶対零度のごとく冷酷であった。
私が腰に帯びていた黄光の大剣を瞬時に抜き放ち、下段から跳ね上げるようにして彼女の短剣を受け止めた瞬間、創造と終焉が衝突したかのような甲高いエーテル破裂が空間に響き渡った。
光と闇、秩序と混沌が、わずか数センチの距離で激しく拮抗する。
私の腕を構成する高密度の光エネルギーが、大剣を通じて圧倒的な神威を押し付けようとするが、リズヴェラは細腕一つでその重圧を易々と受け止めていた。
「また抱きたくなった?」
至近距離で囁く彼女の声には、悪戯を成功させた少女のような無邪気さが宿っている。だが、彼女の振るう短剣は、そんな言葉とは裏腹に、正視に耐えないほどの怨嗟を孕んでいた。
青く明滅する刃の表面に、無数の顔が浮き出ては消えるのが見えた。閉じ込められた亡者たち。かつてこの世界で生を謳歌し、そして彼女の毒牙にかかり魂を永遠の苦患に繋がれた者たちが、声なき悲痛な絶叫を上げ、苦悶の表情を浮かべては沈んでいく。
『たすけて……』『熱い、痛い……』『どうして……』
幻聴のごとき呪詛の波が、私の純白の意識に泥を塗りつけようと這い寄る。
だが私は、かかる情動の残滓に揺らぐような脆弱な自我は、とうに泥濘の底へと捨て置いている。
私が冷徹に思案したその刹那、リズヴェラの短剣が異様な脈動を始めた。
ドクン、と。刃そのものが悪食の獣のように膨張し始めたのだ。青い光が爆発的に増幅し、短剣は瞬く間に私の大剣を凌駕するほどの巨大な質量を持った刃へと変貌を遂げた。
凝縮された怨念の重み。それは物理的な重量を超え、次元そのものを押し潰すような圧力となって、私の黄金の体躯を後方へと押し込み始める。石畳が私の足元で悲鳴を上げ、蜘蛛の巣状の亀裂が聖堂の床一面に走った。
リズヴェラが愉悦に満ちた笑い声を上げる。亡者たちの悲鳴が一層激しくなり、巨大化した青い刃が私の霊的障壁を削り取ろうと牙を剥く。
だが、私は焦燥を知らぬ。
事象を観測し、理を導き出す。それが私に与えられた権能である。
私は大剣に込めていた力を一瞬だけ抜き、刃の角度を数ミリずらした。
巨大な青い刃が空を切るように前のめりになったその瞬間、私は四つの光の翼から、高圧の浄化の波動を全方位に向けて炸裂させた。
神の息吹にも等しい純白の暴風が、聖堂内を吹き荒れる。
短剣に纏わりついていた青い呪いの靄が、悲鳴を上げて吹き飛ばされていく。強固に見えた呪詛の塊が、光の暴風の前に剥き出しにされた。
同時に巨大化した短剣の構造の奥底に潜む『存在の脆弱性』――魔力の継ぎ目、理の綻びを完璧に見抜いていた。
黄金の腕を翻す。
流星の軌道を描く一閃。
私の大剣が、短剣の最も脆い結節点を、一片の抵抗も許さず滑り抜けた。
「……ッ!」
澄んだ音と共に、巨大な青い刃が真っ二つに両断される。
閉じ込められていた亡者たちの魂が、断裂面から蒼い光の粒子となって溢れ出し、私の放つ浄化の光に触れて次々と塵へと還っていく。それは呪縛からの解放であった。
武器を破壊され、一瞬の隙を見せたリズヴェラ。
私はその間隙を逃すほど慈悲深くはない。大剣を振り抜いた勢いをそのままに、神罰の螺旋を描いて彼女の肉体を両断すべく、冷酷なる追撃の刃を放った。
空気を裂くどころか、空間そのものを切断する黄金の斬撃。
リズヴェラは顔を歪め、背中の蝙蝠の翼を羽ばたかせて後方への跳躍を試みた。彼女の反射速度は賞賛に値するものだった。直撃は免れた。
だが、私の刃は完全な回避を許さぬ。
私の大剣の切先が、彼女の右腕の空間を掠めた。
肉を断つ感覚はない。
触れた瞬間、彼女の右腕は肘から先が『消滅』した。
血も出ぬ。肉片も散らぬ。ただ、絶対的な光のエネルギーによって分解され、跡形もなく灰塵と帰した。
「――っ、あはっ!」
片腕を完全に消失したにもかかわらず、リズヴェラは苦痛の叫びすら上げなかった。代わりに、ひきつったような、しかし確かな狂気を孕んだ笑い声をこぼす。
彼女はそのまま天井高く、聖堂の上空の暗闇へと逃れた。
直後、彼女の傷口と翼から、墨汁のように禍々しい闇の粉が猛烈な勢いで噴出し、聖堂のドーム状の天井付近を黒く塗りつぶし始めた。
それは単なる煙幕ではない。光の粒子の直進を歪め、神聖な感知を阻害する、極めて密度の高い瘴気の灰であった。
塵の死肉が溶け、呪いの泥へと変化する。
私の視界が、漆黒に閉ざされる。
光の海であったはずの空間が、一時的に絶対的な闇に飲まれた。
『うふふ……あはははははは!』
四方八方から、空間を歪め、反響するリズヴェラの笑い声が聞こえてくる。
右から、左から、上から、あるいは私の内側から響いているかのように。それは空間の位相を乱し、私の方向感覚を狂わせようとする高位悪魔特有の呪詛の歌でもあった。
大剣を一瞬にして虚空へと仕舞い込み、精神を研ぎ澄ます。
思考の波を外界へ拡張し、念動の力を以て、先ほど祭壇の奥の壁に突き刺さった自身の槍に呼び戻す。
ガラガラと石壁が崩れる音が遠くで響き、閃光が闇を切り裂いて私の元へと飛来する。私は両手でしっかりと、戻ってきた黄金の槍を構えた。
そのまま、光の翼の明滅を抑え、静寂の中で周囲の闇を警戒する。
『かつて私を抱いた腕が、いまや裁きの光を纏う。神の運命とは、実に冷酷ね』
闇の奥底から、甘く、そして毒を帯びたリズヴェラの声が響く。
それは単なる挑発ではなく、四百年前という悠久の過去に存在した、矮小な人間と下級天使の滑稽な愛の記憶を揺さぶるための刃であった。
「貴様を断罪するこの一撃もまた、天地開闢の初刻より紡がれた大いなる韻律の一部に過ぎない」
私は、虚空に向かって厳かに応えた。星々の運行のごとく冷徹な事実のみだ。
「私はこの刃をもって運命の終章を完成させ、この地の秩序を調和へと還す。そこに私情も、過去の幻影も介在する余地はない」




